(増支部六集四十七「現見経」)
「第一の現見経」
証拠は目の前にある
「第一の現見経」の二番目の段落を読んでみます。
‘‘Tena hi, sīvaka, taññevettha paṭipucchāmi. Yathā te khameyya tathā naṃ byākareyyāsi. Taṃ kiṃ maññasi, sīvaka, santaṃ vā ajjhattaṃ lobhaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ lobho’ti pajānāsi, asantaṃ vā ajjhattaṃ lobhaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ lobho’ti pajānāsī’’ti? ‘‘Evaṃ, bhante’’. ‘‘Yaṃ kho tvaṃ, sīvaka, santaṃ vā ajjhattaṃ lobhaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ lobho’ti pajānāsi, asantaṃ vā ajjhattaṃ lobhaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ lobho’ti pajānāsi – evampi kho, sīvaka, sandiṭṭhiko dhammo hoti…pe….
お釈迦様は現見(現証)について、誰にでも分かりやすい定義を示しています。
相手はシーヴァカという行者です。釈尊はこう語りかけます。
「それではシーヴァカさん、私はあなたに質問します。あなたは好きなように答えてください。第一に、あなたの心の中で欲(lobha)がある時、欲が心の中をウロウロかき回している時、〈私の心の中に欲がある〉とあなたは知っていますか? それから、あなたの心の中でその欲が消えた時、〈今、私の心の中に欲がない〉と知っていますか?」
シーヴァカは、「それは知っています」と答えました。
証拠は、自分の目の前にあるのです。だから、お釈迦様が結論を示すのではなく、シーヴァカに自ら答えを出させています。「あなたも分かっているでしょう。心に欲が生まれたら欲があると知っている。欲がない場合は欲がないと知っている。もう目の前に証拠が現れています。従って、法は現見的ということになるのです」と。とても分かりやすい、そのまま認めるしかない「現見(現証)」の定義です。
自分を見ないから真理が見えない
このように、ブッダが示す法(真理)とは、各々が自分の心を見ればすぐに分かるものなのです。問題は、誰も自分の心を見ようとはしないことです。
人々は他者のことばかり指さして、お互いに「あいつが悪い」と攻撃し合っています。もうお手上げです。
また、信仰を持つ人が決まり文句のように「神様のおかげ」という場合も、結局は他人のせいにしているのです。神様を持ち出す場合もすごくいい加減です。なにかの商売で上手くいったり、スポーツで一位になったりしたら、「神様のおかげだ」と何のことなく言う。だったら、なぜ負けたときには「神様のおかげ」と言わないのでしょうか? それも神様の望んだ結果でしょうに。だから人間は本当に理性がないのです。都合のいい時だけ神様のおかげにしておいて、コロナが蔓延して世界中の人が困っていた時、「Thank you God for sending us covid-19」と、なんで言わなかったのでしょうか?
そういう時は「神様、どうかこのコロナウイルスを何とか無くしてください」と言うのです。理性で考えれば、それは言ってはいけないことでしょう。だって、全てのことは神様の計らいなのですから。全てを受け入れて、「神様ありがとう」と言うしかないのです。
ですから、神様のおかげで幸福になったとか、反対に悪霊の呪いで私は不幸なのだとか言うのは、他人のせいにする無知な人々の発想です。そういう人々には理性がないのです。例えば子供に恵まれない女性の方々は、神の計らいを持ち出すまでもなく、自分の体を医学的にチェックすれば、子供を産める体か、産めない体かとすぐに分かるでしょう。それで話は終わりです。
宗教は依存で成り立っている
この経典のポイントは、「自分を見なさい」ということです。お釈迦様の仏教では、一貫してそれを言っているのです。
他の宗教では、誰も言っていないポイントです。ヒンドゥー教でも瞑想するときは自分の心を見るのですが、やっぱり一緒に神様がいるのです。その神様と自分が二人で組んで、個人が修行することで神様と一体になるのだ、と教えている。しかし実際のところ、神様は何もやってくれません。結局、それも理性を欠いた屁理屈なのです。理性的に考えれば、神様と私が同じであるならば、別に何もしなくてもいいでしょう。ヨーガをやって修行して梵我一如に達するというのは、まったく余計なことだと思います。
日本の仏教にもそれと同類の教えの宗派があって、「皆に仏性あるのだ、皆とっくに覚っているのだ」と言っています。だったら、お寺を出て普通に働いてくださいと言うしかないのです。「何であなたはわざわざ坊主になって修行するんでしょうか? だって本来ブッダでしょう?」と即座にツッコミが入るのです。そのように、何らかの神秘的存在に依存するのが一般的な宗教の世界です。
自灯明(自洲)こそがブッダのメッセージ
仏教では、「自分を見なさい」と教えています。「自分を島にしなさい。自分を灯にしなさい」と。それが全てなのです。自分で自分の心を見たら、「今、貪りがあるのだ」と分かります。我々は気づきを実践しているでしょう。ヴィパッサナー瞑想でいまの自分に気づく。それだけです。貪りを無くそう無くそうという努力すらもいりません。なぜならば、何か原因があって貪りが生まれたからです。原因によって生まれたならば、それは無常であって、そのうち消えるのです。
欲で困っていたならば、その困っていることにも気づく。欲で酷い目に遭ったならば「ああ、酷い目に遭いました。それも欲です」と気づく。すると、「これから気をつけます」と戒めることも自分自身で出来るようになるのです。
自分の貪瞋癡に気づくことが現見(現証)
次は貪瞋癡の瞋(dosa)、怒りについて。ふたたびシーヴァカさんに問いかけます。
「シーヴァカさん、あなたに聞きます。あなたの心に怒りがあるならば、今、心に怒りがあると知っていますか? あなたの心に怒りがないならば、今、心に怒りがないと知っていますか?」
シーヴァカさんは、「知っています」と答えます。
それが、sandiṭṭiko 現見(現証)という意味なのです。
三つ目のセクションでは癡(moha)、無知を発見します。今、私は無知で、もうどうしようもない状態でいる。何も分からない状態にいる。例えば落ち込んだりする場合は無知と怒りが一緒に働いているし、あるいは何の理由もなく無気力状態になる場合は、無知が強烈に働いているのです。何も理由がなしに心が活力を失って、妄想ばかりしていたくなることがあるでしょう。それで無知が増幅されるのです。そのように、自分の心の状況を自ら知っていることが、現見(現証)ということになるのです。
お釈迦様は、「貪瞋癡によって心が汚れます。貪瞋癡を無くしたら解脱に、究極の心の自由と安穏に達します」と教えています。そのことを、きちんと証拠を出して教えているのです。
目の前に証拠があって自分で確かめられるならば、シーヴァカさんにも出来るはずです。シーヴァカさんにそれを見せてあげたのです。
「あなたは知っているでしょう。心に貪瞋癡がある場合は、今、貪がある、今、瞋恚がある、今、無知があると知っているでしょう。それこそが現証sandiṭṭiko なのです」と。そちらに神々の話も、幽霊の話も、魂論やらその他の神秘的な話も、何も出てきません。とてもシンプルで、自ら確かめられる話だけなのです。
仏教徒の宣言
最後に Abhikkantaṃ, bho gotama, Abhikkantaṃ, bho gotama 云々という決まりフレーズが出てきます。「素晴らしい尊者よ、素晴らしい尊者よ、暗闇に灯を灯したように、逆さまになっていた入れ物を上に向けるような感じで、お釈迦様は真理を見事に説かれました」と。
それからシーヴァカさんは upāsakaṃ maṃ, bhante, bhagavā dhāretu ajjatagge pāṇupetaṃ
saraṇaṃ gatanti 「今日から私のことを在家信者の一人として認めてください」とお願いするのです。
本人が自分で仏教徒になることを宣言します。お釈迦様は「汝は、仏教を信じなさい」などといった、宗教勧誘のようなことは決して言わないのです。経典のどこを調べても、「仏教徒になりなさい」という言葉は見当たらないのです。それもまた、お釈迦様の仏教の大きな特徴です。
これで第一の経典は終了します。
(続きます)
根本仏教講義(パティパダー 2025年5月号)