(増支部六集四十八「現見経」)
「第二の現見経」
二番目の経典は、一番目の経典とそれほど違いはありません。
Atha kho aññataro brāhmaṇo yena bhagavā tenupasaṅkami;
あるバラモンがお釈迦様のところに来て、「法は現証である(sandiṭṭhiko dhammo サンディッティコー ダンモー)の定義をしてください」と頼みます。
それで『第一の現見経』と同じように、お釈迦様はバラモンに質問します。この場合は、貪瞋癡を言い表すのに、前の経典とは違う単語を使っています。日本語では同じく「貪」と訳されていますが、パーリ語は違うのです。
Taṃ kiṃ maññasi, brāhmaṇa, santaṃ vā ajjhattaṃ rāgaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ rāgo’ti pajānāsi, asantaṃ vā ajjhattaṃ rāgaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ rāgo’ti pajānāsī’’ti?
一つ目は rāga ラーガ(貪)です。相手はバラモンですから俗人です。前の経典に出てきたシーヴァカさんは行者でしたから、lobha ローバ(貪)という言葉が使われていました。lobha というのは普通の欲です。Rāga の場合は性欲も入っていて、もっと感情的な欲なんです。普通の欲である lobha よりも、ちょっと強い意味になるのです。
お釈迦様は相手にあわせて言葉を変えたのだと思います。いま相手にしているのは在家のバラモン人で、前のシーヴァカさんは修行者で出家している方でしたから、シーヴァカさんには感情的な欲は無かったかもしれません。バラモン人は在家ですから、感情的な欲があるのです。
お釈迦様はバラモンに質問しました。
「感情的な欲があるとき、あなたはそれを知っていますか?」
バラモンは答えました。「今、私は感情的で、欲に押さえられているんだと知っています」
「その感情的な欲が無くなったら、あなたはそれを知っていますか?」
「無くなったら、無くなったと知っています」
これは毎日のパターンでしょう? 欲が現れたり消えたり、怒りが現れたり消えたり、無知が現れたり消えたり、それは知っていますか? とお釈迦様が訊くのです。
「全然知らない」と言ったら、話にならないでしょう。だから自分の感情の働きについて、よく知るようにしなくてはいけません。自分の心をちゃんと見なくてはいけないのです。それがこの二つの経典で言っているアドバイスであり、ブッダの躾なのです。
Taṃ kiṃ maññasi, brāhmaṇa, santaṃ vā ajjhattaṃ dosaṃ…
Rāga(貪)の次に出てくるのは、dosa ドーサ(怒り)です。怒りがあったら怒りがあると知っていますか?
あるいは、怒りが無い場合は怒りが無いと知っていますか?
santaṃ vā ajjhattaṃ mohaṃ…
それから、moha モーハ(無知)です。無知がある場合は無知があると知っていますか? あるいは無知が
無い場合は無知が無いと知っていますか?
バラモンは「知っています」と答えます。
ここから、さらに続きがあるんです。
santaṃ vā ajjhattaṃ kāyasandosaṃ
kāyasandosaṃ カーヤサンドーサン とは、体で行う悪い行為のことです。自分が体でやる行為はよくない、まずいということです。sandosaṃ サンドーサン とは、汚れている、やってはいけないこと、という意味です。
お釈迦様はバラモンに質問します。
「あなたは自分の体でやってはいけないことをやったら、 やってはいけないことをやったと知っていますか?」
バラモンは「知っています」と答えます。
次は vacīsandosaṃ ワチーサンドーサン で、言葉の汚れです。
「汚れた言葉を話している場合、あなたはそれ知っていますか?」と質問すると、
バラモンは「知っています。今、悪い言葉をしゃべっていると知っています」
それから manosandosaṃ マノーサンドーサン で、心の汚れです。
「あなたは心で汚いことを妄想しているとき、今、汚いことを妄想しているんだと知っていますか?」
「知っています」
あるいは「汚いことを妄想しないでいる時はどうですか? それを知っていますか?」
「知っています」とバラモンは答えました。
そういうことで、体でやってはいけないことをやっている時、「これは本当はやってはいけないんだ」と知っている。あるいは、体でよいことをやっているとき、「これはやっていいことをやっている」と本人が知っている。
言葉で喋ってはいけないことを喋っている時、「これは本当は喋ってはいけないことだ」と知っている。喋るべき言葉を喋っている場合は、「正しい言葉を喋っている」と知っている。
思考も同じです。悪い思考がある時は「悪い思考がある」と知り、悪い思考が無い時は、「悪い思考が
無い」と知っている。
そうすると「あなたは自分自身で分かっているでしょう」という結論になるのです。真理は現証であ
るとは、このことなのです。つねに目の前に証拠があるのです。
(続きます)
根本仏教講義(パティパダー 2025年7月号)