2025/05/31

実証できる教えとは?「現見経」を読む 3

 (増支部六集四十八「現見経」)

「第二の現見経」 


二番目の経典は、一番目の経典とそれほど違いはありません。

Atha kho aññataro brāhmaṇo yena bhagavā tenupasaṅkami;

あるバラモンがお釈迦様のところに来て、「法は現証である(sandiṭṭhiko dhammo サンディッティコー ダンモー)の定義をしてください」と頼みます。


それで『第一の現見経』と同じように、お釈迦様はバラモンに質問します。この場合は、貪瞋癡を言い表すのに、前の経典とは違う単語を使っています。日本語では同じく「貪」と訳されていますが、パーリ語は違うのです。


Taṃ kiṃ maññasi, brāhmaṇa, santaṃ vā ajjhattaṃ rāgaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ rāgo’ti pajānāsi, asantaṃ vā ajjhattaṃ rāgaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ rāgo’ti pajānāsī’’ti?


一つ目は rāga ラーガ(貪)です。相手はバラモンですから俗人です。前の経典に出てきたシーヴァカさんは行者でしたから、lobha ローバ(貪)という言葉が使われていました。lobha というのは普通の欲です。Rāga の場合は性欲も入っていて、もっと感情的な欲なんです。普通の欲である lobha よりも、ちょっと強い意味になるのです。


お釈迦様は相手にあわせて言葉を変えたのだと思います。いま相手にしているのは在家のバラモン人で、前のシーヴァカさんは修行者で出家している方でしたから、シーヴァカさんには感情的な欲は無かったかもしれません。バラモン人は在家ですから、感情的な欲があるのです。


お釈迦様はバラモンに質問しました。

「感情的な欲があるとき、あなたはそれを知っていますか?」


バラモンは答えました。「今、私は感情的で、欲に押さえられているんだと知っています」


「その感情的な欲が無くなったら、あなたはそれを知っていますか?」


「無くなったら、無くなったと知っています」


これは毎日のパターンでしょう? 欲が現れたり消えたり、怒りが現れたり消えたり、無知が現れたり消えたり、それは知っていますか? とお釈迦様が訊くのです。


「全然知らない」と言ったら、話にならないでしょう。だから自分の感情の働きについて、よく知るようにしなくてはいけません。自分の心をちゃんと見なくてはいけないのです。それがこの二つの経典で言っているアドバイスであり、ブッダの躾なのです。


Taṃ kiṃ maññasi, brāhmaṇa, santaṃ vā ajjhattaṃ dosaṃ…


Rāga(貪)の次に出てくるのは、dosa ドーサ(怒り)です。怒りがあったら怒りがあると知っていますか?


あるいは、怒りが無い場合は怒りが無いと知っていますか?


santaṃ vā ajjhattaṃ mohaṃ…


それから、moha モーハ(無知)です。無知がある場合は無知があると知っていますか? あるいは無知が

無い場合は無知が無いと知っていますか?


バラモンは「知っています」と答えます。


ここから、さらに続きがあるんです。


santaṃ vā ajjhattaṃ kāyasandosaṃ


kāyasandosaṃ カーヤサンドーサン とは、体で行う悪い行為のことです。自分が体でやる行為はよくない、まずいということです。sandosaṃ サンドーサン とは、汚れている、やってはいけないこと、という意味です。

お釈迦様はバラモンに質問します。

「あなたは自分の体でやってはいけないことをやったら、 やってはいけないことをやったと知っていますか?」


バラモンは「知っています」と答えます。


次は vacīsandosaṃ ワチーサンドーサン で、言葉の汚れです。

「汚れた言葉を話している場合、あなたはそれ知っていますか?」と質問すると、

バラモンは「知っています。今、悪い言葉をしゃべっていると知っています」


それから manosandosaṃ マノーサンドーサン で、心の汚れです。

「あなたは心で汚いことを妄想しているとき、今、汚いことを妄想しているんだと知っていますか?」

「知っています」

あるいは「汚いことを妄想しないでいる時はどうですか? それを知っていますか?」

「知っています」とバラモンは答えました。


そういうことで、体でやってはいけないことをやっている時、「これは本当はやってはいけないんだ」と知っている。あるいは、体でよいことをやっているとき、「これはやっていいことをやっている」と本人が知っている。


言葉で喋ってはいけないことを喋っている時、「これは本当は喋ってはいけないことだ」と知っている。喋るべき言葉を喋っている場合は、「正しい言葉を喋っている」と知っている。


思考も同じです。悪い思考がある時は「悪い思考がある」と知り、悪い思考が無い時は、「悪い思考が

無い」と知っている。


そうすると「あなたは自分自身で分かっているでしょう」という結論になるのです。真理は現証であ

るとは、このことなのです。つねに目の前に証拠があるのです。 

    

(続きます)


根本仏教講義(パティパダー 2025年7月号)