たとえば2人が歩いているとき、アヒルとニワトリを見たとしましょう。1人は、「なぜニワトリはアヒルのようになれず、アヒルはニワトリのようになれないのか?」と言います。
その人は、ニワトリがアヒルであってほしい、アヒルがニワトリであってほしい、と思っています。
しかし、それは不可能なことです。ニワトリはニワトリで、アヒルはアヒルなのだから。そのようにありえないことを考えているかぎり、心は苦しみ続けるでしょう。
もう1人は、ニワトリはニワトリで、アヒルはアヒルだと見ます。それもそれだけのことですが、正しく見ていますから、問題は起こりません。
これと同様に、「一切のものごとは無常である」という真理を見る人は、心がやすらぎ、葛藤は生じません。反対に「ものごとが永遠であってほしい」と望む人は、苦しむでしょう。無常が現れるたびに失望し、葛藤します。不安で夜眠れないこともあるかもしれません。
真理を知りたいとき、どこを見ればよいのでしょうか?
身体と心を見るのです。本棚の本ではありません。真理を本当に見るためには、自分自身の身体と心を見なければならないのです。身体と心、この二つだけです。ただ、心は肉眼で見えませんから、「心の眼」で見なければなりません。
身体の真理を知るためには、身体を観察する必要があります。どうやって観察するのでしょうか?
心で身体を観察します。身体以外のところを観察しても、真理は見えません。なぜなら、苦の感覚も楽の感覚も身体で生じるからです。
たとえば、楽の感覚が木から生じるのを見たことがあるでしょうか? 川や天気から生じるのを見たことがあるでしょうか?
楽も苦も、自分自身の身体と心から生じる感覚なのです。したがって、ブッダは私たちに、身体と心を理解するよう教えました。真理は自分の身体と心にあるのですから、そこを観察すべきなのです。
ときどき、真理を知りたいなら本を読みなさい、と言う人もいます。しかし、本を読めば真理がわかると考えているかぎり、真理はけっして見いだせないでしょう。
本を読むときは、本の内容を自分の心で観察することが必要です。そのときにのみ、真理を理解することができるのです。なぜなら真理はここ、身体と心にあるからです。
身体と心を観察することが、瞑想の本質です。これによって、智慧が現れるでしょう。智慧があれば、どこを見ても真理が見えます。常に無常(anicca)と苦(dukkha)と無我(anattā)が見えるのです。
しかし、私たちはこの無常と苦と無我を見ていません。いつでもものごとを「私」とか「私のもの」として見ているのです。
これは、世俗諦さえ見て観ていないということです。
たとえば、こちらにいる皆さんには名前があります。名前というものは世俗諦であり、役に立つものです。仮にAさん、Bさん、Cさん、Dさんがいるとしましょう。お互いにコミュニケーションをとって生活するためには、便宜上、名前が必要です。Aさんに話したいときは「Aさん」と呼べばAさんが来るでしょうし、Aさん以外の人は来ません。これは世俗諦の便利なところです。
しかし、これをさらに深く観察すると、「そこには誰もいない」ということがわかるでしょう。いわゆる世俗諦を超えたものが理解できるのです。あるのは単なる「地・水・火・風」の四つの要素だけであり、身体にはこれしかないのです。
しかし、私たちは「私」に強く執着しているため(attavādupādāna)、身体を「地・水・火・風」と見ることができません。もし明晰に見るなら、「〝私〟という実体はない」ということがわかるでしょう。
身体の硬い部分が「地」の要素で、液体の部分が「水」の要素、熱の部分が「火」の要素、空気や気体からなり身体中を通るエネルギーの流れが「風」の要素です。
この「地・水・火・風」を集めたものを「人」と呼んでいるのです。このように分析すると、あるのは「地・水・火・風」だけだということが理解できるでしょう。どこに「私」という実体が見いだせるでしょうか?
このような理由から、ブッダは「これは私ではない。私のものではないと観察することほど、高いレベルの実践はない」とおっしゃったのです。
「私」とか「私のもの」というのは、単なる現象にすぎません。そこで、何にたいしてもこのように見て、明確に理解するなら、心は穏やかになるでしょう。
たとえ「私」や「私のもの」だと思っているものを失ったとしても、その瞬間、「私ではない」「私のものではない」という無我の真理や無常に気づくなら、心は穏やかになります。
なぜなら、それは単なる「地・水・火・風」にすぎないとわかるからです。
このことを観察するのはむずかしいかもしれませんが、私たちにできないことではありません。観察できれば、心は満たされ、怒りや欲、無知が消えていくでしょう。心には常に真理があるのです。嫉妬したり恨んだりすることがなくなります。それはただの「地・水・火・風」であることを知っているからです。「地・水・火・風」以外のものはありません。
この真理を理解したとき、ブッダの教えが理解できるでしょう。もう多くの指導者のところへ学びにいく必要はありません。毎日法話を聴く必要もありません。ただ自分に必要なことだけをおこなうのです。
ブッダの教えを人に教えるのはむずかしいことです。人は教えを受け入れず、教えや指導者と論争しようとするからです。あるいは、指導者の前では善い人でいるのですが、指導者のいないところでは泥棒のような行為をするのです。タイではこのようなことが見られます。それで多くの指導者を必要とするのです。
気づいてください。気づきがなければ、真理は見えません。注意深く教えを聴き、考察するのです。
この花はきれいですか? この花に醜さは見えるでしょうか? どれくらいきれいに咲いていますか? その後どうなるのでしょうか?
枯れて萎れます。三、四日後には、いまの美しさは消えるでしょう。枯れた花は捨てませんか?
人は美しいものに執着します。きれいなものに引っかかってしまうのです。ブッダはこのようにおっしゃいました。美しいものを見たとき、それに執着せず、ただ美しいものだと見て、放っておいてください。心地よい感覚が生じても、それに引っかかるべきではありません。
心地よさは長く続かず、美しさも確かなものではありません。確かなものなどないのです。
これが真理です。美しさは変化します。美しさにある唯一の真理は、絶えず変化することです。たとえ何かを見て美しいと思っても、その美しさが消えたとき、その美しさは心から消えるでしょう。心地よいものが消えると、その心地よさは、心からも消えてしまうのです。
このように、心は対象に強く影響されています。美しいものが壊れたり、傷ついたり、なくなったりすると、苦しみが生じます。なぜならそれを「自分のものだ」と考えて、執着しているからです。
ブッダは人々に、「ものごとは組み立てられて成り立っている一時的な現象である」と見るよう教えられました。いま美しく咲いている花も、やがて枯れます。このことを理解することが、智慧なのです。
何かが「きれいだ」と思ったら、そのときは「そうではない」と自分に言うべきです。「醜い」と思ったら、そのときも「そうではない」と自分に言うべきです。このようにものごとを見て、観察してください。そうすれば、現象のなかに真理が見え、不確かなもののなかに確かなものが見えるでしょう。
私たちは何のために実践しているのでしょうか?
「捨てる」ために実践しているのです。何かを得るためではありません。
ある女性が私のところに来て、「苦しいです」と言いました。「どうしたいんですか?」と聞いたところ、彼女は「覚りたい」と答えました。そこで私はこう言いました。
「覚りたいと思っているかぎり、覚れませんよ。何も欲しがらないでください」
苦の真理を理解したとき、私たちは苦から離れることができます。苦の原因を理解したなら、もはや苦の原因をつくることはしません。その代わりに、苦を滅する道を実践するでしょう。苦を滅する道とは、「これは私ではない。私のものでも、他のものでもない」と観察することです。このように観察することで、苦を滅することができるのです。これは、ゴールに達して止まるようなものです。これが「滅」の状態なのです。
(続きます)
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アチャン・チャー法話集
The Four Noble Truths
翻訳:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように