2011/12/03

預流果に覚る条件(5)


マハーナーマ経


これまで「預流果の特色」をお話してきましたが、預流果の特色は「確信・戒律・学び・施し・智慧を長いあいだ育てていること」だけではありません。

預流果に覚っている人のなかには、「私は勉強はそれほどやっていない」という人もいますし、「施しはそんなにやっていない」という人もいます。

では、その人たちは預流果ではないかというと、そうではなく預流果に覚っているのです。

別の条件が身に付いているのです。


 
預流果の心の状況は、別の表現でもあらわすことができます。そこで、前の経典と同じフォーマットを用いて、もう一つの預流果の特徴を説明するのです。


二番目の経典ですので、一番目と同じところは省略し、ポイントになるところだけお話いたします。


マハーナーマがニグローダ精舎を訪れ、お釈迦様にお会いし、説法を聞いて、家に帰ります。帰る途中、街は興奮状態で、マハーナーマの頭は混乱し、仏法僧のことはきれいさっぱり忘れてしまい、そのとき心に不安がよぎりました。

「もし、こんなに汚れた心で死んでしまったら、死後どこへ逝くのだろうか?」

このことをお釈迦様に告げたところ、お釈迦様は、
「心配することはない」
と言い、次のように理由を述べられました。



「マハーナーマよ、四つの性格が身に付いている仏弟子は、涅槃に向き、涅槃に傾き、涅槃に引かれている」



この二番目の経典では「預流果に覚った人は四つの性質が揃っている」と説いています。

そして四つの性格が揃っている仏弟子は、「涅槃の境地に向き、傾き、引かれている」と教えています。

たとえば、高い所から何か物を落とすと下にストンと落ちるように、四つの条件が揃っている仏弟子は涅槃の方へまっすぐ向かうのです。

その四つとは何でしょうか?



①仏陀にたいする揺らぎない信



Idha mahānāma, ariyasāvako buddhe aveccappasādena samannāgato hoti:

「マハーナーマよ、ここで聖なる仏弟子は仏陀にたいして揺らぎない信を持っている」


一番目は「仏陀にたいして揺らぎない信を獲得すること」です。

「仏陀」という場合は、ある個人的な人間という意味ではありません。

「完全に覚っている方」という意味での仏陀です。

お釈迦様は覚りを開いた瞬間から「ただの人間」であることを超えました。

お釈迦様はご自分を示すときは「如来」という語を使っています。

如来とは、真理に達した方・真理を発見した方、という意味です。


当然、お釈迦様には「ゴータマ・シッダッタ」という固有名がありました。

しかし、経典ではお釈迦様にたいして固有名を使いません。それはたまたまそうなったという話ではありません。

スッドーダナ王の息子であるゴータマ・シッダッタという人が、修行の結果、完全たる覚りに達し、その瞬間から、人間だけではなく、生命という次元を超えたのです。仏陀になったのです。

仏教徒は、お釈迦様が人間であることと、仏陀であることは、明確に区別して理解しています。

信の対象になるのは、仏陀です。

師匠として仰ぐならば、人間・釈迦牟尼仏陀でもかまいません。

一般的に、我々は、いろいろな人に弟子入りします。その場合は、ある特定のことをその師匠から学ぶのです。師匠が別の面でダメな人間であっても、弟子にとっては関係ないことです。また、師匠はある一つの分野のプロであれば充分です。すべてを知っている必要はないのです。


仏陀を信の対象にする場合は、わけが違います。

その場合は、「人格完成者、智慧の完成者」に頼って、導きを請うのです。

信の場合は、心の揺らぎ、疑問などがあったらダメです。

師匠として仰ぐ場合は、師匠の性格の短所について、批判の目を向けてもかまいません。


というわけで、仏教では人間としてのお釈迦様と、釈迦牟尼仏陀が別々なのです。

仏陀の場合は、揺るぎない信を確定しなくてはいけません。

これは弟子入りすることほど、たやすいことではないのです。

仏陀が確実に仏陀であることを調べて、納得しなくてはならないのです。

仏陀の教えを学んで、教えが真理であることを確かめなくてはならないのです。

また、説かれた教えを実践し、説かれた通りの結果になるのかと確かめなくてはならないのです。

確かめられたところで、仏陀にたいする信が確定します。

その人は、覚りの道の預流果という境地に達しているのです。



次に、信を確定する人は何を確かめるべきか、ということが語られます。


Itipi so bhagavā araham sammā sambuddho vijjācarazasampanno sugato lokavidu anuttaro purisadammasārathii satthā devamanussānam buddho bhagavā ti.


「世尊は阿羅漢であり、正覚者であり、明行具足者(智慧と道徳の完成者)であり、善逝(正しく涅槃に到達し、善く修行を完成し、正しく善い言葉を語る方)であり、世間解(宇宙・衆生・諸行の三つの世界を知り尽くした方)であり、無上の調御丈夫(人々を指導することにおいて無上の能力を持つ方)であり、天人師(人間と超次元的存在である神々たち一切衆生の唯一の師)であり、覚者(真理に目覚めた方、仏陀) であり、世尊(すべての福徳を備えた方)である」


このように、仏陀には九つの特色があります。

この特色を「まさにその通りである」と自ら確かめているなら、心は明晰になり、確信が得られるのです。


もし微妙にでも「仏陀もいいけどイエズス様もなかなかいい」と思っているなら、それはまだまだ本物の信ではありません。

世の中にはそれなりに立派な人と言える人はいますが、その人たちに欠点がないかというと、そうではなく、あちらこちらに問題は見つかるのです。

ですから、その程度の人格者ではなく、「人々を見事に導き、わずかにでも欠陥がなく、真理を覚っている完全なる人格者」といえば、一人しかいません。仏陀です。仏陀以外ほかにいないのです。

そこで、この仏陀にたいして100パーセントの信を確定していることが、預流果の性質の一つです。

ただなんとなく信じています程度の信では、簡単に揺らいでしまいますから、不十分です。

明確に確定することによって、一番目の条件が調うのです。


預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』



②法にたいする揺らぎない信



二番目は「法(教え)にたいして揺らぎない信を獲得すること」です。


Svākkhāto bhagavatā dhammo, sanditthiko, akāliko, ehipassiko, opanayiko, paccattam veditabbho vinnuhii ti.

「世尊の説かれた法は、善く正しく教えられた(教理、実践方法、論理、言語だけでなく、修行の結果においても完全である)。実証できる、いつでも誰でも体験することができる教えである。普遍性があり、永遠なる教えである(真理なので時と場合によって訂正する必要はなく、また即座に結果が得られる教えである)。「来たれ見よ」と言える教えである(「誰でも確かめて試して見てください」と言える確かな教えである)。実践者を涅槃へ確実に導く。 賢者によって各自で覚られるべき真理(解脱)である」



これら六つの法(教え)の特色を「まさにその通りである」と自ら確かめて、法にたいして揺らぎない信を獲得すること、これが二番目の預流果の条件なのです。


③僧団にたいする揺らぎない信




三番目は「僧団(サンガ)にたいして揺らぎない信を確定すること」です。


Supatipanno bhagavato sāvakasangho. Ujupatipanno bhagavato sāvakasangho. Nāyapawipanno bhagavato sāvakasangho. Sāmicipatipanno bhagavato sāvakasangho. Yadidam cattāri purisayugāni attha purisapuggalā esa bhagavato sāvakasangho. āhuneyyo pāhuneyyo dakkhineyyo anjail karaniiyo anuttaram punnakkhettam lokassā ti.


「世尊の弟子たる僧団(サンガ)は、正しい道を実践するものであり、 まっすぐの道(涅槃への直道)を歩むものであり、 涅槃を目指して修行するものであり、尊敬に値する道を実践するものである。これらは四双八輩(*註)と呼ばれる八類に属する聖者の位を得た世尊の弟子たちを指す。これらの仏弟子僧団は、遠くから持ってくるものを受けるに値する。来客として接待を受けるに値する。徳を積むために供えるものを受けるに値する。礼拝を受けるに値する。世の無上の福田である」



これら九つの僧団の特色を、まさにその通りであると自ら確かめて、僧団にたいして揺らぎない信を獲得すること、これが三番目の預流果の条件なのです。


僧・僧団にたいして信を確定するときも、お釈迦様と同じく、個人と公人の差が出てきます。


一人ひとりの仏弟子を個人的に師匠にすることもできますし、仲良くすることもできます。当然、仏弟子であっても人間として気に入らないところがあり得るのです。師匠の対象になっても、信の対象にはなりません。


信の対象になるのは、僧団なのです。僧団とは、真理を体験した人々にたいし、個人扱いを取り消して一つの組織としてみなすことです。


仏弟子の第一人者は、サーリプッタ尊者です。たくさんの仏弟子たちがサーリプッタ尊者のところに弟子入りしました。しかし、それは信の対象としてではなく、師匠としてです。


サーリプッタ尊者を大阿羅漢の一人として見るときは、サンガの一員です。そのときは、個人ではないのです。サンガが信の対象になるのです。


ややこしく感じるかもしれませんが、仏教における信の場合は、大事なポイントです。なぜなら、仏教の信は宗教の信仰とまったく違うからです。


いままで説明した差は、同じ人であっても個人と公人の差と似ているのだと理解すればよいのです。




④道徳を守る揺るぎない決意



四番目は「道徳を守る揺るぎない決意を獲得すること」です。

ここでいう道徳とは、聖なる戒律のことです。

戒律・道徳などは、誰でも分かると思っているようです。人は簡単に戒律や道徳、規則などを作ったりもします。

でも、人がそのつど考える戒律や規則などは、普遍的な道徳になりません。

真理に達した人・仏陀が、心を清らかにするために人がやめるべき項目と、守るべき項目を真理に基づいて語るのです。

真の戒律とは、仏陀が説かれた戒律のことです。

世間が作る戒律では、いろいろ問題が起きます。社会で衝突も起きます。守らない人を脅したりもします。


真の戒律の場合は、守る人々の心は必ず清らかになります。

戒律を守る人がいるだけでも、その社会は平和になります。

預流果に達した人は、仏陀が教えられた戒を完璧に守るのです。

その戒律にたいして、微塵も疑いを持ちません。

戒律を改良する気持ちも、たまに緩める気持ちも起きないのです。



「聖者が認める、賢者に称賛される、執着を無くす、サマーディに導く戒律を、破れないよう、穴がないよう、斑点が入らないよう、汚点がないよう、自由意志で成就する」



たとえ仏陀の説かれた戒律であろうとも、中途半端な気分で、半信半疑で守ろうとするなら、守れないと思います。

何か決めたことをしっかり守り通すためには、精神力が必要です。

預流果になる人にとっては、戒律を守り通す精神力があるのです。

ふつうの気持ちで戒律を守ると、注意が足らなかった瞬間で破れてしまうことはたびたびあります。


仏教では戒律を守る人が何かの規則を破ってしまったら、それを修復します。

服のたとえで考えると、服が破れるたびに繕って修復する。

もし、たびたび服が破れるならば、その服はつぎはぎだらけのものになります。


預流果に達した人の戒律には、そのようなことがありません。服のたとえで言えば、破れたところも、落ちない染みも、色が変わって斑点がついたところも、ないのです。


その気になれば、儀式的に、形式的に、道徳項目を守ることはできると思います。しかし、それは預流果の特色にならないのです。


預流果に達した人は、自由に喜んで戒律を守っています。

心は、戒律によって、落ち着きに達しているのです。戒律によって、性格が変わっているのです。

性格が変わったから、戒律を守ることは何の無理もない自然な生き方そのものになっているのです。



お釈迦様はマハーナーマに次のように尋ねました。


「たとえば、ある木が東の方に向き、東の方に傾き、東の方に傾斜しているとする。その木の根を切ると、どの方向に倒れるか?」


「世尊よ、傾いている方(東)に倒れます」


「マハーナーマよ、同様に、この四つの性質をよく実践する聖なる仏弟子は、涅槃の方に向き、涅槃の方に傾き、涅槃の方に傾斜する」


このように「預流果の性質」は、仏法僧の三宝にたいする揺らぎない信を確定していることと、戒律を汚点なく守っていることの四つです。

一見、簡単なように見えますが、これには条件があります。

それは「決して揺らがない」ということです。

「何があっても揺らがない」という堅固で確定した信が、預流果に覚るためには欠かせない条件なのです。

そして四つの性質を育てた聖なる仏弟子は、必ず涅槃に達するのです。


(*註)四双八輩…預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道・阿羅漢果の八つの覚りの段階のいずれかに入っている聖者のこと。


(続きます)


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法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

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