マハーナーマ経
三番目の経典があります。
これはこれまで説明してきました一番目と二番目の経典と同様、釈迦族のマハーナーマさんのエピソードを用いて、別の表現で「預流果の特色」を説明している経典です。
経典の初めのところは同じですので省略いたします。
マハーナーマさんが、同じ釈迦族のゴーダさんのところへ行き、質問するところから始まります。
マハーナーマさんもゴーダさんも預流果に覚っていましたから、預流果同士の会話です。
ただ同じ預流果でも、人によって言葉の表現上、微妙に個人差があるのです。
でも中身や内容は同じで、預流果に覚っているという事実に変わりありません。
それをこの経典で説明しているのです。
釈迦族のマハーナーマが釈迦族のゴーダのところへ行き、このように言いました。
「ゴーダよ、あなたはどのように思うか。どのぐらいの特色(能力)が身に付けば預流果だと言えるか。堕落せず確定して解脱へ向かうのか」
ゴーダは答えました。
「私は三つだと思う。三つの特色が身に付けば預流果だと思う。仏陀にたいする揺らぎない信と、法にたいする揺らぎない信と、サンガ(僧・僧団)にたいする揺らぎない信を確定していることである」
ゴーダさんは「仏法僧にたいして揺らぎない信が確定していれば預流果です」と言いました。
いわゆる、仏陀の九つの特色と、法の六つの特色と、サンガ(僧・僧団)の九つの特色は「そのとおりである」と、しっかり確信していることです。
ゴーダさんは自分が預流果に覚っていて、自分の経験から語っているのであり、他人から聞いた話をただ言っているわけではありません。
自分の預流果の状態を、そのように説明したのです。
次に、ゴーダがマハーナーマに尋ねました。
「あなたはどう思うか。どのぐらいの特色が身に付けば預流果だと言えるか」
マハーナーマは答えました。
「私は四つの特色が身に付けば預流果だと思う。仏陀にたいする揺らぎない信、法にたいする揺らぎない信、サンガにたいする揺らぎない信を確定していること、そして戒律を守っていることである。壊れることなく汚れることなく破れることなく、戒律を守っていることである」
このように、二人は意見がちょっと異なりました。
ゴーダさんは「三つの条件が揃えば預流果だ」と言い、マハーナーマさんは「四つの条件が揃えば預流果だ」と言いました。
ただ意見が異なっても、二人は仏教徒で預流果に覚っていますから、ごちゃごちゃくだらない喧嘩や言い争いはしません。
そこで意見が分かれましたが、それぞれがしっかりした意見ですから、これは二人にとっては解決することができません。
それでゴーダさんはこのように言いました。
「マハーナーマよ、待とう。これについてはお釈迦様にお尋ねしよう。どちらの意見が完成された正しい意見かは、お釈迦様しか分からないのだから」
そこで、マハーナーマさんとゴーダさんはお釈迦様のところへ行き、礼拝して座りました。
マハーナーマさんはお釈迦様の意見を聞く前に、先にお釈迦様にこれまでの二人の意見の違いについて話し、続けてこう言いました。
「あることに関して、比丘サンガ全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います」
すべての比丘サンガが一貫して述べる意見であっても、それがお釈迦様の意見と違っている場合は、マハーナーマさんは何の躊躇もなく、お釈迦様の意見が正しいと決めるのです。
つまり、マハーナーマさんはそこまで仏陀のことを信頼しているということなのです。
さらにマハーナーマさんは続けて言います。
「あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。
あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。
あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員と在家の女性全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。
あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員と在家の女性全員、すべての神々、悪魔、梵天、沙門、バラモン等、すべての生命が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います」
この経典で何が言いたいのかといいますと、「仏法僧にたいする揺らぎない信を確立する」とは、このぐらいの自信があるということなのです。
神々、梵天、悪魔であろうが、比丘・比丘尼サンガ全員であろうが、在家の男性・女性全員であろうが、誰であろうが、皆が一つの意見をもっていて、お釈迦様が別の意見を言うなら、私は「お釈迦様が正しい」と、お釈迦様に従います。
これは口先だけでなく、自分自身でしっかりと「お釈迦様が正しい」と理解して確信しているのです。これが「揺らぎない信」ということです。
このように、マハーナーマさんはお釈迦様の意見を聞く前に、自分がどれほどお釈迦様を信頼しているかということを言いました。世界の生命すべてが「違う」と言ったとしても、私は「お釈迦様が正しい」ということを、そこまで確信していますよ、と。
では、なぜマハーナーマさんは先にそのようなことをお釈迦様に言ったのでしょうか?
ゴーダさんとマハーナーマさんの意見はそれぞれ違っていました。
それでもし万が一お釈迦様が、ゴーダさんの答えが法に合っていますと言われたならば、王家であるマハーナーマさんの立場が悪くなります。
それでも、お釈迦様はマハーナーマさんの立場などを全く気にせず回答してください、と言いたかったので、マハーナーマさんは仏法僧に対する揺らぎない信があることを発表したのです。
お釈迦様はマハーナーマさんの言ったことに、何も言いませんでした。そしてゴーダさんにこう聞きました。
「マハーナーマがこのように言っているが、あなたはマハーナーマにたいし、何か言いたいことはあるか?」
ゴーダは答えました。
「何も言うことはありません。(マハーナーマのお釈迦様にたいする揺らぎない信は)すばらしい。見事です」と言いました。
ここで経典は終わっています。中途半端なようですが、わざと終わっているのです。
ゴーダさんの言ったことについて、お釈迦様は何も答えていません。
そこで結論は何かと言いますと、「マハーナーマさんの言うことはその通りである」ということです。
「預流果の条件は四つで、戒律は必要」ということなのです。
だからといって、ゴーダさんの意見が間違っているということではありません。
これは言葉上の問題だと思います。
ゴーダさんも預流果ですが、戒律の条件は言いませんでした。
それはおそらくゴーダさんにとっては戒律を守ることは当たり前で基本的なことで、誰でも守らなければならないもので、特別に預流果の条件として出さなくてもいいのではないか、仏法僧にたいする揺らぎない信を確定することの方を強調した方がいいのではないか、という気持ちがあったからかもしれません。
しかしマハーナーマさんはそうではなく、「戒律を守ることも預流果に覚る条件である」と、はっきり言い、お釈迦様も「その通りである」と示されたのです。
(続きます)