2011/11/26

預流果に覚る条件(4)


マハーナーマ経


続いて、お釈迦様は「肉体」について説かれました。私もヴィパッサナー瞑想を指導するとき、肉体というのは生ゴミのようなものだから、肉体のことは気にしないでくださいと言いますが、その根拠はこちらにあるのです。


肉体とはどのようなものでしょうか? お釈迦様は次のように説かれました。



・肉体は物質でできています。
(物質とは地水火風のことです)

父親と母親によってできたものです。
(父親の肉体の一部と母親の肉体の一部をほんの少しずつもらってできた肉体です)

・ご飯や穀物など毎日いろいろな食べ物を注入して膨らました肉体です。
(ときどき「私の体格はいい。背も高いし、筋肉も鍛えてある」などと肉体自慢をする人もいますが、それはただ食べ物をどのくらい注入したかということです。肉が多いだけで、そんなのは本当は自慢にならないのです)

・肉体は毎日毎日、瞬間瞬間変化しています。(変化するたびに、修理や修復をしなければならないものです)


 生命は変化しているがゆえに、「生きる」ということが成り立っています。母親のおなかの中に生命が芽生えたとき、細胞はたった一つでした。その一つの細胞は、細胞分裂を繰り返しながら絶え間なく変化し続け、肉体をだんだん大きくしていきます。やがて、おなかの中の居心地が悪くなり、おなかから外へ出て行きます。外へ出て行った後も、成長は止まることなく、さらに成長を続け、大きくなっていくのです。
 このように、肉体はずっと成長・変化を続けます。でも、その変化のスピードは死ぬまで同じなのです。
 一般的に私たちは「子供は成長するのが早いが、大人になったら成長は止まる」などと考えていますが、そうではなく、子供も大人も同じスピードで変化しています。ただ、子供の変化には「成長する」という言葉を用い、大人の変化には「老化する」という異なる言葉を用いているだけで、その変化のスピードは子供も大人も同じなのです。
 それから、肉体は変化するたびに、修理や修復をしなければならないものです。たとえばおなかがすいたら、そのたびに何か食べなくてはなりませんし、のどが渇いたら、そのたびに何か水分を補給しなくてはなりません。体調が悪くなれば、薬を飲んだり運動したりしなくてはなりませんし、ケガをすれば、治療しなくてはなりません。このようにして、肉体はずっと修理し続けなくてはならないものなのです。
 肉体は、死ぬまで修理中です。機械の場合は、故障するのは時々でしょうが、肉体の場合は弱くて脆いものですから、一生故障中で一生修理中の状態です。ですから、機械としても相当価値が低い。たとえば車の場合は、毎日使っていても修理することなく数年は使えるでしょうが、肉体の場合はそうはいきません。しょっちゅう風邪をひいたり、胃腸が悪くなったり、ケガをしたり、あちこち痛くなったりします。もし肉体が機械なら、最低で最悪の機械ということができるでしょう。なぜなら、できあがった瞬間から修理しなければならないのだから。
 さらには、その修理がいつ終わるのか、終わる瞬間はありません。最終的には、修理不可能という瞬間になって、壊れて死ぬのです。
 このように、肉体は壊れるものなのです。
 
 ここで「壊れる」という言葉に注意しなければなりません。「壊れる」ということには二つの意味があります。一つは「悪い状態に壊れる」ということ、もう一つは「良い状態に壊れる」ということです。
 たとえば、筋肉が痛いとしましょう。これは「悪い状態に壊れる」ということです。それで、マッサージをして筋肉をほぐしたり、あたためたりして、痛みが和らいだとします。これは「良い状態に壊れる」ということです。
 このように、ある側面から見ますと「壊れる」ということは「良かった」という意味にもなるのです。ただ、これはあくまでも「良い状態に壊れる」ということで、言い換えれば「別の状態に変化する」ということであり、「元の状態に戻る」ということではありません。多くの方は、元の状態に戻ると思っているようですが、それは勘違いで、筋肉の状態が別の状態に変化するだけです。元の状態に戻るということはありえないのです。
 ケガをしたり病気になったりして身体の具合が悪くなると、私たちは病院へ行ってお医者さんに治療してもらいます。しかし、たとえ治療してもらって元気になったとしても、元の状態に戻るということはありません。別の状態になるだけです。いったん壊れたら、壊れたのであり、このようにして私たちの肉体は壊れっぱなしなのです。
 私たちは「壊れること」の一部を喜び、一部に腹が立っています。仏教では、「どちらにしても『壊れる』ということに変わりありませんから、腹を立てることにも意味がありませんし、喜ぶことにも意味がありません」と教えています。
 しかし、私たちはだいたい「病気になる」という状態に壊れると腹を立て、「病気が治る」という状態に壊れると喜びます。
 でも「病気が治る」といいましても、正しく言えば「別の状態に壊れる」ということであって、「壊れる」ということに変わりないのです。
 肉体は、このように「壊れる」性質のものなのです。


・死んだ肉体(死体)は、烏や鷲、禿鷹、犬、狐、虫類に食べられます。

 日本の仏教文化では一般的に「人は死んだら仏様になる」などと考えているようですが、鳥や動物たちが人間の死体を見たらどう思うのでしょうか? 仏様だと思うのでしょうか? 
 思わないのです。ただ「肉がある、おいしそう」と思って食いつくだけです。死体は、だいたい数日間、何もせずに放置しておくと、虫が大量に湧いてきます。ときには死体の表面がびっしり埋めつくされるほど虫が涌いてくるときもあります。どこから来るかはわかりませんが、死体を食べ尽くしていくのです。
 肉体というのはそんなもので、私たちは「これは私の大事な身体だ」と執着していますが、鳥や動物、虫類にとっては「死体はただの肉」でしかなく、餌として食べるのです。

 このように肉体は汚くて醜い生ゴミですから気にすることはありません。

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

 
お釈迦様はマハーナーマにこのように言いました。

 「肉体が壊れても、長いあいだsaddhā(確信)・siila(道徳)・suta(学び)・cāga(奉仕)・pannā(智慧)によって心を育てているなら、心は上方に赴き、下に落ちることはありません」

 これら五つの人格を向上させているなら、死ぬことはただ肉体が壊れるだけのことであって、些細なことにすぎません。心の進化は止まることなく、今の状態よりもさらにステップアップするのです。

 このことを、お釈迦様は分かりやすい例え話を用いて、次のようにマハーナーマに話されました。

 たとえば、ある人がサッピsappi(牛乳からとれる油で、白い色をし、バターよりも少しやわらかいもの)を壷の中に入れ、その壷を深い湖の底におろして、そこで割ります。どうなるでしょうか? 壷の破片は下に沈みますが、油は上に浮き上がってきます。  そのように、人が深い湖の底で生活しているとしましょう。肉体は素焼きの壷のように脆いものですから、ちょっとしたことで簡単に壊れます。でも心を成長させ、油のように軽く清らかにしているなら、肉体が壊れた瞬間(死の瞬間)、心は上に上がっていきます。だから肉体が壊れることを気にする必要は全くありません。心に五つの条件を育てているなら、「死」を心配する必要はないのです。

 サッピは普通の油より軽いのです。もし人が心を確信・道徳・学び・施し・智慧で育てることなく、欲・怒り・嫉妬・憎しみ・無知といった心を重くするもので育てたならば、砂利でいっぱいになった壺が水の中で壊れたように、上方に赴くことはまったくないのでしょう。

 マハーナーマは確信・道徳・学び・施し・智慧という五つの性質をすべて身につけた人格者であり、仏教の在家信者としては長老格で立派な方ですから、街で興奮している象や馬、人々を見て恐くなっただけで「今死んだらどこに逝くのだろうか」と死後のことを心配する必要はありません、とお釈迦様はマハーナーマにおっしゃいました。マハーナーマはすでに「心を育てたプロ」ですから、心はそう簡単に堕落しないのです。

 これも預流果に達した人の特色の一つです。確信・道徳・学び・施し・智慧の五つの性質が揃っているなら、預流果の覚りに達しているということであり、その人に堕落はないのです。

(続きます)


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法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

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