2012/02/18

智慧と善行為(1)



智慧が開発するか否か



善行為って何でしょうか?

社会では「善行為をしましょう」ということは当たり前になっています。

仏教でも、そのように言っていますが、仏教では善行為のことは、そんなに大げさにしていません。

一番ポイントにしているのは「智慧が開発するか否か」ということです。

仏教の教えは「智慧の教え」ですから、「智慧」のことばかり教えています。他にも道徳など教えは大量にありますが、智慧が一番上にあって、他の教えは飾りのようなものです。智慧が王冠です。智慧があれば、他のものはいっしょに付いてくるのです。

なぜ、智慧が一番大事なのかといえば、これには理由があります。

「智慧がない」ということは「無知」ということです。無知で幸せになるということはありませんし、無知だから成功したということもありません。

お釈迦様は、「災難や危害、苦難などの不幸というものはすべて無知、あるいは愚か者から生じるのであって、智者からはいかなる苦しみも起こりません」とおっしゃっています。

ですから、この世の中で何か不幸なことや理不尽なこと、不公平なこと、人々に不幸を招くことが起こったならば、その手綱を握っているのはいつでも誰か愚か者なのです。

世の中には危険なことがたくさんあります。
テロ行為や戦争、暗殺、人殺しなどがありますし、強盗や詐欺、ごまかしなどもあります。いろいろな恐ろしいことがあります。きりがありません。そこで不公平なことや災難、苦難に陥る出来事があったならば、それは必ず無知な人の仕業なのです。

では、そうした無知な人たちは知識がない愚か者なのでしょうか? 
たとえば綿密な計画をたててテロ行為をする人たちはバカでしょうか? 

実は、彼らは結構勉強している優秀なエンジニアや科学者たちです。貧乏人でもありません。豊かで、勉強している知識人たちです。ですから、本当に愚か者でしょうかという疑問がでてきます。

仏教では、大学で知識を学んだから、有名大学を卒業したからといって、智慧のある人だとは言いません。

「やっている行為は何ですか」というところを見るのです。

智慧というのは、科学や工学、経済学などの知識を学んで得られるものではありません。知識を得ても、愚かなままなのです。

どこで愚かと決めるかといいますと、「生命にたいして慈しみがない、どうなってもいい」と生命のことを心配しない人のことを、「愚か者」というのです。

たとえば原子爆弾を開発して、さらに高性能のものを開発した科学者たちは、私たち凡人よりはずいぶん勉強ができる知識人たちでしょう。

彼らは一流の大学を卒業した人たちばかりですが、実際は極限的な愚か者です。なぜなら、人類に多大な危害をもたらしているのだから。

彼らに関心があるのは、自分の研究だけで、研究データが出るか出ないか、それだけに関心があるようです。放射性物質があちこちに拡散したとき、言うことは「では、放射性物質がどのように人体に悪影響を与えるかを調べましょう」と、それだけ。「人類に多大な危害を及ぼすこんな恐ろしいものをつくってはいけない」とは言わないのです。

ですから、大学の研究室でずっと研究しているからといって、肩書きが1メートルぐらいあるからといって、その人が智慧のある人だと絶対に思わないでください。

生命のことを心配するか、生命のために何か役立つことをするか、人類の模範になるような人物か、若者たちがモデルにした方がいい人間か、必要なのはこうしたことなのです。
 (続きます)