お釈迦さまは苦しみを知り尽くしている「来たれ見よ3-⑫」からの続き
4「苦しみ」は変わらない
時代が変わって科学技術が発展しても、「生きる苦しみ」だけは変わりません。
お釈迦さまは苦しみを知り尽くし、四聖諦の一番目として苦聖諦を説かれました。苦聖諦の内容は、昔も、今も、これからも同じです。
苦聖諦とは、生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと、愛する人と別れること、嫌な人と会うこと、求めるものが得られないこと、五執蘊を持つことです。
これらの苦しみは今も昔も同じです。新種の苦しみはありません。新種のヴィールスはありますが、新種の苦しみはないのです。
また、現代人が完全に退治したという苦しみもありません。
科学技術の発展によって苦聖諦の一部が取り除かれた、というものはないのです。
今の苦しみも、昔の苦しみと変わりありません。
科学が進歩したおかげで「死」を克服することができたでしょうか?
その苦しみは、現代でもそのままあるのです。
人々が聞く質問はいつも同じです。2500年前であろうか、現代であろうか、東洋人であろうか、西洋人であろうか、学者であろうか、ビジネスマンであろうか、年輩の方であろうか、母親であろうか、若者であろうか、聞く質問は決まっています。
人々が宗教に聞く質問は、「自分の悩み苦しみ」に関する質問です。
そこで、お釈迦さまは 「すべての苦しみを解決する道」を説かれました。
この道を実践する人は誰でも、(時代に左右されることなく)苦しみを解決することができるのです。
したがって、仏教は時代遅れになることはありませんし、どんな人にもアクセスできる教えなのです。
5 実践も対機?
方法が異なれば結果も異なる
「自分に都合のいい実践法」――これは皆さまにとって心地よい言葉だと思います。自分だけの、自分の好みの、自分に適した実践法があるなら、これほど都合のいいことはないでしょう。
しかし残念ながら「自分に都合のいい実践法」というものはありません。善い結果を目指すなら、そこに至るための方法は決まっているのです。
たとえば、10人のシェフが自分の好きな材料を使って、好きな手順でカレーを作るとしましょう。出来上がりはどうなるでしょうか?
それぞれみんな違う味になり、同じカレーにはならないでしょう。
このように、方法が異なれば結果も異なるのです。
同じ結果を目指すなら、結果に至るプロセスも同じでなくてはなりません。
ですから「苦しみをなくす」という結果を目指すなら、そのプロセスは誰にでも同じです。自分だけの特別なプロセスがあるわけではないのです。
2+2はいくつでしょうか?
4です。
田中さんの場合は5で、木村さんの場合は8で、 今日は6で、明日は9ということはありえません。2+2=4に決まっているのです。
このように、問題には答えがあり、答えは人の気分によって変わるものではありません。
もし対機的に答えが違うなら、その問題には答えがないということになります。「何でもいい」ということは、つまり「答えがない」ということなのです。
仏教の実践方法は、みな同じ
問題にたいする答えとは、仏教では実践することです。問題が「苦しみ」であり、それに対する答えが「実践」なのです。
ただ、実践法が実行不可能なものなら、その実践は問題の答えにはなりません。 実行できないことをいくら言っても意味がないでしょう。
たとえば癌で苦しんでいる人にたいして、入手することのできないクスリを飲みなさいといっても、意味がありません。数千年前に日本に生息していた特別な植物を煎じて飲むと、たちまち癌が治りますといっても、どうやって数千年前の植物を手に入れることができるでしょうか?
ですから、実践法は実行できなければ答えではないのです。
仏教の実践法は対機的なものではなく、みな同じであり、誰でも試し、確かめることができるものです。
苦しみは誰にでもあり、それを解決するための方法を実践をすることによって、誰でも苦しみを乗り越えることができるのです。
その方法は、今も昔も変わりません。同じなのです。料理法(方法)が同じなら、出来上がり(結果)も同じになるのです。
人によって実践法が違うということはありません。
道徳、慈悲、八正道、ヴィパッサナーなどは、男女、老若、立場、地位などの違いで変わることはないのです。信仰さえ問いません。信仰をもっていると引っかかるところもありますが、好きなものはしようがありませんから、そういう人にたいしては、「信仰はいったん横に置いておいてください。そしてこの治療法を実践してみてください。そうすれば苦しみが治るでしょう」と教えます。
仏教の実践をやってみると、やがて信仰も苦しみをつくるということに気づくでしょう。
「個人の理解の仕方」は異なる
しかし、「個人の理解の仕方」には差があります。ですから、ある側面から見ると、実践には対機性があるようにも見えるのです。
例をあげますと、外国の留学生が日本の大学に入学するとき、まずオリエンテーションをおこないます。期待と不安でいっぱいの学生たちが新しい環境に適応し、大学で勉強できるよう、学校側が基本的な方向づけや指導をおこなうのです。
このとき、留学生はそれぞれ言語や文化が違いますから、別々にオリエンテーションをします。中国人には中国人向けのオリエンテーションを、アフリカ人にはアフリカ人向けのオリエンテーションを、西洋人には西洋人向けのオリエンテーションを。
それで一通り指導が終わると、スタート地点が同じになり、では頑張りましょうと、クラスにまとまって授業が始まるのです。
この程度の対機性は、仏教の実践にもあるのです。
自分に必要な経典を
それから、仏教の経典は大量にありますが、それらすべてを読む必要はありません。自分に必要な経典を一つか二つ理解して、それを確実に実践すれば、見事にうまくいくのです。
これは、世界のさまざまな料理を用意しているバイキングのようなものです。世界各国のあらゆる料理がテーブルの上にずらりと並んでいます。各自が自分の皿に自由に取り分けて、好きな分だけ食べられますが、たとえ豪華に料理が並んでいても、私たちは全種類の品を食べることはできません。
たくさんのなかから自分が食べたい料理、自分の身体に合った料理を少し選び、ほかのものは置いておくのです。
このとき、あらゆる料理が揃っていますから、自分に合う料理は必ずあるはずです。
同様に、経典は大量にありますが、それを全部読む必要はありません。
自分に必要な教えを選び、それを確実に実践すればよいのです。
(続きます)
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法話:スマナサーラ長老
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文:出村佳子
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生きとし生けるものが幸せでありますように