2011/11/03

預流果に覚る条件(2)


マハーナーマ経



お釈迦様はマハーナーマにこのように言いました。


Mā bhāyi mahānāma, mā bhāyi mahānāma apāpakaṃ te maranaṃ bhavissati, apāpikā kālakiriyā.


「恐れるなかれ、マハーナーマよ、恐れるなかれ、マハーナーマよ、なんじは不幸な死には至りません。幸福に逝くでしょう」


パーリ語の「bhaya」は、恐れること、怖がること、心配すること、という意味で、お釈迦様はこの言葉を二回くり返して言います。


「Apāpakaṃ te maranaṃ bhavissati」は、「あなたの死は、不幸な死にはなりません」という意味です。


「Pāpaka」は、専門用語では「不善」や「罪」という意味ですが、この場合は「不幸」や「悪い」の意味で理解しなければなりません。

たとえば、何か仕事をして失敗してしまったとき、パーリ語では「pāpakaṃ」と言います。いわゆる「失敗だ、ダメだ、うまくいかなかった」ということです。

ここでは罪という意味ではなく、不幸や悪いという意味です。

それから、この語には「a」という否定の意味の接頭辞が付いていますから、「悪くない」「不幸ではない」となり、文全体の意味としては「マハーナーマよ、そんなに心配するな。あなたの死は悪いことにはなりません。不幸にはなりません」となるのです。


「apāpikā kālakiriyā」も同義語で、「あなたが亡くなっても決して不幸にはなりません」という意味です。


でも、この言葉だけを聞くと、ちょっと宗教的な話にも聞こえ、ただ信仰すればいいのではないか、と思う方もいるかもしれません。

ここで気をつけなければならないのは、マハーナーマという人は世間一般の人とは違い、お釈迦様の親戚でもありますし、お釈迦様に頻繁に会って説法を聞いていた熱心な仏教徒です。

ですから仏教の理解や修行というのは、私たちよりも遥かに上なのです。


お釈迦様は次に、なぜマハーナーマにそのように言ったのかと、理由も述べます。仏教はいつでも証拠や理由を出して話すのです。


Yassa kassaci mahānāma, dīgharattaṃ saddhāparibhāvitaṃ cittaṃ, sīlaparibhāvitaṃ cittaṃ,sutaparibhāvitaṃ cittaṃ, cāgaparibhāvitaṃ cittaṃ, paññāparibhāvitaṃ cittaṃ, tassa yo hi khvāyaṃ kāyo ruupī cātummahābhuutiko mātāpettikasambhavo odanakummāsuupacayo aniccucchādanaparimad–danabhedanaviddhaṃsanadhammo, taṃ idheva kākā vā khādanti, gijjhā vā khādanti, kulalā vā khādanti, supānā vā khādanti, sigālā vā khādanti, vividhā vā pānakajātā khādanti, yañca khvassa cittaṃ dīgharattaṃ saddhāparibhāvitaṃ, sī– laparibhāvitaṃ, sutaparibhāvitaṃ, cāgaparibhāvitaṃ, paññāparibhāvitaṃ, taṃ uddhaṃgāmī hoti visesagāmī.


「マハーナーマよ、人の心は長きにわたって信(確信)によって鍛錬しているならば、戒(道徳)によって鍛錬しているならば、学習(聞)によって鍛錬しているならば、施し(施捨)によって鍛錬しているならば、智慧によって鍛錬しているならば、その人の、地水火風で出来ている、両親によって生まれた、ご飯や穀物によって支えている、無常でつねに修復せねばならぬ、壊れるものである、この肉体は、ここでカラスや鷲や禿鷹や犬や狐、虫たちが食べる。

しかしその人の長きにわたって信、戒、学習、施し、智慧によって鍛錬された心は、上方に超越に赴く」


この一つの段落で、お釈迦様は膨大なことを教えています。

まず、一行目のYassa kassaci mahānāma というのは、「マハーナーマよ、誰かにこれから説明する条件が揃っているならば」という意味になります。

その条件とはどういうものか、これから勉強しましょう。


預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』



① Saddhāparibhāvitaṃ cittaṃ

 「信」によって心を鍛錬する


Dīgharattaṃ saddhāparibhāvitaṃ cittaṃ は「長いあいだ信によって心を鍛錬している」という意味です。

ここで「信」(saddhā)という言葉について注意しなければなりません。

といいますのも、仏教と他宗教では「信」の意味が異なるからです。

英語では「信仰」のことを「belief」と言い、これには二つのニュアンスがあります。

一つは「日常的な信仰」、もう一つは「宗教的な信仰」です。



○ 俗世間の「日常的信仰」


「日常的な信仰」にはいくらか証拠が必要です。

たとえば一般的に夫婦間では旦那さんは奥さんのことを信じているでしょうし、奥さんは旦那さんのことを信じているでしょう。そこにはいくらかの証拠があります。六〇~八〇パーセントぐらいは証拠があるのです。

でも一〇〇パーセントではありません。

これは長いあいだ一緒にいて相手の性格をよく知っている、という程度に信じているということです。

なんらかの証拠はありますが、ピッタリ一〇〇パーセントとは言えませんから「ま、信じています」という程度です。

一〇〇パーセント信じ切るというのは、人間の世界ではほとんどありえないでしょう。


○ 俗世間の「宗教的な信仰」


もう一つの、神を信仰するという場合の「宗教的な信仰」のほうは、証拠がないのに無条件で完全に神を信じることです。

証拠を探すと、それは信仰になりません。

もしも探したりでもしたなら「あなたの信仰は汚れている。疑いが入っている。信仰は本物ではない」などと非難されたり、「地獄に落ちる」などと脅されたりするでしょう。

このような宗教の信仰には、証拠は何も要りません。

証拠があるなら、それは信仰ではなく、当たり前の事実になるのです。

このように、「神を信じます、魂があると信じます」という場合の「信」と、「私は旦那/妻を信じます」という場合の「信」とは、意味が異なるのです。


では、仏教における「信」とはどのようなものでしょうか?

これも二種類あります。



○ 仏教の「一般的な信」


一つ目は、一般的な「信」です。

お釈迦様の話を少しずつ聞いていくと、「お釈迦様の教えは理に適っている」ということがだんだんわかってきます。

それで「私はどちらかというとお釈迦様の教えを信じます。証拠に基づいて話しているのだから」などと言うようになるでしょう。

この程度の「信」です。

これはちょうど私たちが病気になったとき、医者の言うことを信じるようなものです。

患者は医者を信じて治療を受けたり、アドバイスを聞いたり、クスリを飲んだりします。一〇〇パーセントではありませんが、ある程度は証拠と実績がありますから、信じるのです。


○ 仏教の「確信」


もう一つの「信」は、お釈迦様の教えをどんどん理解して、いろいろ疑問を持ったり、徹底的に調べたりして、その結果「やっぱり事実でした。これは間違いがない」と深く納得した上での「信」です。

別の言葉でいいますと「確信」です。

長いあいだ時間をかけて仏教を学び、勉強し、理解していくと、やがてこの確信が得られるのです。

たとえば「欲は悪いもので、煩悩で、苦しみのもとである」という教えを聞いたとき、私たちはそれをすぐに理解できるでしょうか?

理解できるはずがないのです。

なぜなら、実際のところ私たちは欲を喜び、楽しんでいるのだから。

ですから、教えを本当に理解するためには、自分自身でいろいろ研究する必要があるのです。では実験して調べてみましょうと。

それで実験して、研究して、実践していくうちに、やがて「欲は苦の原因である」ということが自分で発見できるのです。

そして「なるほど、教えは真実である」ということが納得できます。

これが仏教の「信」、いわゆる「確信」なのです。
 
真理にたいする確信が現れたときから、仏教徒と言うことができます。

それまでは仏教にたいする確固たる確信がまだありませんから、仏教徒ではありません。ただ仏教に興味や関心があるだけなのです。


ときどき、「仏教は簡単だ。私は仏教のことをよく知っている」などと言う人もいますが、それは明らかに嘘だと思います。そんなに簡単に仏教を理解できるはずがないのです。

なぜかといいますと、仏教の思考と私たちの思考は正反対だから。仏教の教えは真理であり、俗世間とは正反対のものです。

たとえば、俗世間では「私は死ぬはずがない」という生き方をしているのにたいし、仏教は「今の瞬間にも死ぬかもしれません。無常だから」という生き方をしています。

俗世間では「永続する魂がある」という固定概念をもって生きているのにたいし、仏教は「無我です。何もありません。シャボン玉と同じです」という態度です。

このように「お釈迦様の道」と「俗世間の道」はまったく正反対なのです。ですから仏教を理解して納得するためには、かなりの研究と実践が必要です。教えをただ鵜呑みにするのではなく、「本当にそうなのか」と徹底的に研究して実践しないと発見できるものではないのです。


それから、仏教徒になるために、洗礼などのような儀式はありません。

真理を理解して納得し、確信することで、仏教徒になるのです。

この「理解して納得し、確信する」ということは相当な力です。

あらゆることを研究して、調べて調べて確信する、これはものすごい力なのです。

世間においても、人はいろいろな分野で研究しているでしょう。

あらゆるデータをとって調べて、どんどんプロになっていきます。

これはとても強い力なのです。

たとえその人が何かの病気になったとしても、いったん深く納得したものを完全に忘れてしまうということはほとんどありません。

たとえば国際的な数学のプロの学者がいて、ある日突然事故を起こして病院に運ばれ、もうどうにもならないほど頭が朦朧としているとしましょう。

数学の論理を解説するどころか、人と話すのも大変な状態です。

でも、そういう状態だからといって、頭が完全におかしくなることはないのです。

あの状態が治ると、また数学者に戻ります。

たとえ一時的に頭脳が機能しなくなっても、それはどうということはありません。

その人は長い間その分野で訓練してきたのだから、そう簡単に忘れてしまうことはないのです。


経典に戻りますが、一行目の「dīgharattaṃ saddhāparibhāvitaṃ cittaṃ」というのは、「長いあいだ信(saddhā)によって心を育てている」ということです。

これは、教えをただ鵜呑みにして盲信しているのではなく、調べて納得することによって心が成長している、ということです。

人格的に成長しています。

仏教の「信」を育てるだけでも、人格が大きく向上するのです。


(続きます)


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法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

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2011/10/09

Steve Jobs


Steve Jobs' 2005 Stanford Commencement Address

Click on the image below to play the video in YouTube
http://www.youtube.com/user/StanfordUniversity



"When I was 17, I read a quote that went something like:
“If you live each day as if it was your last, someday you’ll most certainly be right.”
It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: “If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?” And whenever the answer has been “No” for too many days in a row, I know I need to change something.
Steve Jobs



2011/10/08

預流果に覚る条件(1)


マハーナーマ経


今回ご紹介する経典は『Sotapatthi samyutta』というセクションの『Mahanamasuttam / マ ハーナーマ・スッタ』という経典です。


Sotapatthi(ソータパッティ)というのは「預流果になる」という意味で、お釈迦様の時代では、多くの在家の方々が預流果に覚っていました。

預流果に覚ることは、それほど珍しいことではなかったのです。



そこで、多くの人が預流果に覚っていますから、預流果についての理解や解説などに個人差がでてきます。

覚りそのものには差がありませんが、「あなたはどのように理解していますか?」と聞くと、それぞれ表現の仕方や言葉が少々変わったりするのです。



そこで、「預流果というのはこういうものである」ということをいったんまとめたほうがいいのではないかということだろうと思いますが、お釈迦様が教えられたさまざまな実例やデータが、このサンユッタニカーヤにまとめてあるのです。


今回はその中の経典の一つ、預流果のセクションの第三章です。



Ekam samayam bhagava sakkesu viharati
kapilavatthusmim nigrodharame.


ある時、世尊は釈迦国のカピラ城ニグローダラーマに住んでおられました。


カピラワットゥというのは国の首都の名前で、お釈迦様が生まれた故郷です。
このカピラワットゥに、ニグローダーラーマというお寺がありました。



Atha kho mahanqmo sakko yena bhagava tenupasankami. Upasankamitva bhagavantam abhivadetva ekamantam nis]di. Ekamantam nisinno kho mahanamo sakko bhagavantam etadavoca:

 
その時、釈迦族のマハーナーマが世尊を訪ねました。

それから世尊に礼拝し、傍らに座りました。

座ってから、マハーナーマは世尊にこのように告げました。

「世尊よ、このカピラワットゥという街は幸福で,大変豊かな街です。

人口が多く、混雑しています。


街が豊かということは、人口が多いということです。

人口が多いということは、それなりに問題も多いということです。

これは今も昔も同じで、街が経済的に発展すると、そこに人が集中しますから、ごちゃごちゃして、ややこしくなるのです。


それで私は、世尊や親愛なる比丘方と親しく付き合います。

夕方、カピラ城に戻ると、興奮している象に出くわします。

興奮している馬に出くわします。興奮している人に出くわします。

その時、世尊よ、私の心から世尊にたいする気づきがなくなります。

法にたいする気づきもなくなります。

僧団にたいする気づきもなくなります。

そのとき、私はこのように思います。

『もし私がこの瞬間に死んだら、私は何処へ往くのでしょう。

私の死後、どうなるでしょう』と。」



少々、説明しましょう。


インドは現代でも、身動きできないほど混雑している国です。

街に限ったことではなく、田舎でも同じ状態です。

昔のカピラ城も同じでした。

人が大勢いましたから、品物を運ぶために走り回っている人々や、店をたたんで商売道具を荷車にのせ、早足で家に帰る商人などで混乱していたのです。


その上、興奮して管理できない動物たちが道路をあちこちうろついています。

飼われている動物ですが、街で動物たちが興奮して歩いていると、人間にとっては結構迷惑なのです。

日本では経験することがないでしょうが、インドやスリランカでは動物たちが道路を歩いていて、牛は牛の勝手で道路を渡っていますし、車のクラクションを鳴らしても、まったく意味がありません。車が止まって、牛が移動するのを待つしかないのです。


そこで、マハーナーマさんはついさっきまで穏やかな雰囲気の中、心清らかなお釈迦様やお坊様たちと話をし、幸せな気分でいたのに、夕方、街に入ったとたん、環境がガラッと変わってしまい、人の多さと管理不可能な動物たちでごったがえし、頭が混乱したというのです。

今までお釈迦様のことを思い浮かべたり、教えを思い浮かべたり、比丘サンガのことを思い浮かべたりして、たいへん幸せな気分でした。

その気持ちはきれいさっぱりなくなって、心は混乱してしまったのです。

おそらく、興奮した象や馬が暴れている状況なので、怖くなったのでしょう。

踏み潰されたら、一巻の終わりだ」と逃げ回っているマハーナーマの心は、身の安全をはかることで精一杯です。

仏法僧のことを思い浮かべる余裕はないのです。

それでも、象に踏まれたり馬に蹴られたりして、死ぬかもしれません。

このような状況のなかで死んでしまったら、自分の死後、どうなることかと心配したのです。


預流果に覚る条件 スマナサーラ長老



いま死んだらどうなる?



命拾いしたマハーナーマが、「あのとき死んだら、どうなるのか」と心配した気持ちが、このエピソードでよく分かります。

一般の人が災難に遭遇して命拾いしたならば、おそらく「神仏のご加護で助かった」という気持ちになるでしょう。

しかしお釈迦様の教えに慣れている人の気持ちは違います。

「あのとき死んでしまったら、どうなったことか」と、転生することに恐怖感をおぼえるのです。

混乱した心で死ぬことは不幸です。

恐怖感に陥った心で死ぬことも不幸です。

解脱に達することができなかったなら、せめて清らかな心で死にたいものです。

このように思うことは、仏教徒の特色かもしれません。

清らかな心で死にたいと思う人は、常に心を清らかに保つことに励むのです。

このように励むことは、悪い感情に誘惑されないようにするために、たいへん有効な方法です。


これにたいし一般の人は「絶対、死にません」という前提で生きています。

死ぬかもしれません、という気持ちがあると、一般の人には仕事をすることも、家を建てることも、旅に出ることもできません。何もやる気が起こりません。ですから「死」という単語は一般社会では使用禁止なのです。

人は死ぬのではなく、天国に召されると言うのです。または他界すると。これは眼を見張るほど明るい言葉です。

それほど良い状況であるならば、みな宝くじが当たったような気分で死を迎えればいいのに、現実は正反対です。極力、死を避けるのです。死について考えることも避けるのです。

私たちはいろんなことから逃げまくって生活しています。切羽詰ったときには、夜逃げまでします。

いくら逃げ上手であったとしても、「死」からは絶対に逃げられません。


一般人は「死」という現実を、無いことにするのです。それは正しい対応ではありません。

逃げることができないというのは、必ずその現実に遭遇するという意味です

。それなら、遭遇したらどのように対応するべきかと構えていたほうがいいのです。



人はいつ、どこで、どのように死ぬのか、さっぱり分かりません。

それならば、常に死に出会う構えが必要です。

仏教徒は、死を嫌うことも、死から逃げようとすることもしません。

その代わりに、構えるのです。その方法はいたって簡単です。


「私は今の瞬間、今の心境で死んでしまったら、大丈夫でしょうか?」

と自分の心を観るだけです。

「私は今、心置きなく死ねるでしょうか?」

と、一人一人、問いかけてみてはいかがでしょうか。

そう問いかけてみると、構えがあるかないかを発見します。


いろいろあるでしょう。子供が独立するまで死ねないとか、娘の花嫁姿を見るまで死ねない、孫の顔を見るまで死ねない、などなど思い浮かぶでしょう。

それは構えがない、ということです。


しかし、期待が叶ったところで、心置きなく死ねるのかと言えば、そうではありません。

娘の花嫁姿を見たとしても、次に「孫の顔が見たい」など新しい期待が生まれてきます。

期待には終わりがありません。期待や希望がいくらあっても、人はあっけなく死ぬのです。


死ぬときに、欲のない、怒りのない、無数の希望にたいする執着のない明るい心なら、文句はないでしょう。

そのような心で、日常を過ごさなくてはなりません。

ですから、「今なら心置きなく死ねます」と言える人の明るさには、誰もかなわないのです。


ここまでで何が勉強できるかといいますと、「私たちはいつ死ぬかわかりませんから、常に気をつけていたほうがいい」ということです。

怒りっぽくて、嫉妬ばかりして、人を憎んで、そうやって四六時中いるべきではないのです。

たまたま怒ったとしても、その怒りは即座に消して、善い心でいなければなりません。

なぜかというと、いつ死ぬか分からないからです。

汚い心で死を迎え、次に幸福なところに生まれ変わるということは、理屈に合いません。

死ぬときにカンカンに怒って、怒りの感情で染まっている人が天国に行くということは、理屈が成り立たないのです。


私たちは弱いものですから、いきなり怒ったり、嫉妬したりすることも、しょっちゅうあるでしょう。

だからといって、その感情を引きずるべきではありません。

「はい、もう終わった。いつ死ぬかわかりませんから、清らかな心でいなくてはならない」

と、常に心を制御して管理しなければならないのです。


(続きます)


(続きます)


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法話:スマナサーラ長老

預流果に覚る条件『マハーナーマ・スッタ』

根本仏教講義 ➤ 目 次

編集/文:出村佳子

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