そこで私たちは、
「眼でいい感覚を感じたい、耳でいい感覚を感じたい、鼻でいい感覚を感じたい、舌でいい感覚を感じたい、身体でいい感覚を感じたい、思考でいい感覚を感じたい」という無理な希望を、さらに誇大妄想的な希望へと膨らませるのです。
この妄想を、心が「生きていきたい」と解釈するのです。
「眼でいい感覚を感じたい、耳でいい感覚を感じたい、鼻でいい感覚を感じたい、舌でいい感覚を感じたい、身体でいい感覚を感じたい、思考でいい感覚を感じたい」という無理な希望を、さらに誇大妄想的な希望へと膨らませるのです。
この妄想を、心が「生きていきたい」と解釈するのです。
ほんものの恐怖とは?③-2 の続き
おかしなことに、その感覚や刺激にたいして、私たちは愛着を抱くのです。
花に愛着するのではありません。
花を見たときに生まれた自分の感覚に愛着を抱くのです。
ある時、勝手に起こった感覚への愛着を勘違いして、「あの花は素晴らしい、あの花が欲しい」と妄想するのです。
◎自分と他者の間に壁を作らないようにする。気づきと慈しみで壁をなくしていくことで幸せが得られます。
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生きとし生けるものが幸せでありますように