智慧のある人とは
善い人か悪い人か、智慧のある人か愚か者か、ということは、「生命にたいしてどれぐらい慈しみの行為をするか」というところで測られます。
どんな大学を出たかではありません。博士号を三つも持っているとか、肩書きはどうでもよいのです。
大学を卒業していなくても、大勢の人々のために役立つ活動をする人はいくらでもいますから。
共に生きている仲間をどれぐらい助けてあげるか、人々の生活をどれぐらい楽にしてあげるか、人々の苦しみをどれぐらい減らそうと頑張っているか、このように自分のことを後回しにして頑張る人というのは、当然立派な人です。
その人のことを「智慧のある人」というのです。
定義は簡単です。
「慈しみのある人が智慧のある人で、慈しみのない人が愚か者」ということです。
世の中で犯罪を起こす人たちも、当然、俗世間の知識はあります。知識がなければ、テロ行為はできないでしょう。高度な知識がなければ、計画をたてたり組織をまとめたりすることはできないのです。
愚か者か智慧のある人かということは、一般世界ではいろいろな定義があるでしょうが、仏教では「慈しみがあるか否か」というところで測ります。
生命を慈しむ人が、智慧のある人です。何の差別もなく、民族的にも、宗教的にも、経済的にも、何の差別もしないで、とにかく生命を慈しむ、それこそが立派な人間なのです。
善行為の目的
「善行為」ということについて、どの宗教でも、一般社会でも、「善行為をしましょう」と言っています。
仏教でも「善行為をしましょう」と言っています。しかし、仏教の場合はちょっと違います。「智慧を開発しなければ意味がない」と言うのです。
いわゆる、いくら善行為をしても、やっただけでは意味がありません。
何かをやるならば、何らかの目的が必要ですし、その目的に達しなければならないのです。
たとえば飛行機でハワイへ行って、次の便で日本に戻って来たとしましょう。それで「私はハワイに行って来た」と言う。
でも、それでは何のためにハワイに行ったのかわかりません。意味がないのです。
ハワイに行くなら、何か目的があるはずです。ビジネスで行くのか、観光で行くのか、どこを訪問するのか、何を見るのか、どんな遊びをするのか、そこで計画をたてて行って、行った目的を達成したなら、その人には「私はハワイに行って来た」と言えるのです。飛行機に乗って往復しただけでは何の意味もありません。
同様に、善行為をしただけではあまり意味がありません。何か目的を設定して、その目的に達しなければ意味がないのです。
仏教が設定する目的は、「智慧を開発する」ことです。
もし、善行為をしたけれども智慧は何も開発しなかった、というならば、「ご苦労様」ということで終わってしまうのです。
(続きます)
根本仏教講義「智慧と善行為②」
スマナサーラ長老法話