調和し、補い合い、協力する
最初に、二つ問題を出します。
一番目の問題は、善行為・悪行為というのは本当に世の中にあるのでしょうか? ということです。
皆さまはおそらく考えたことがないと思います。この答えはいったん置いておいて、次の問題にうつります。
「生きる」とは、どういうことでしょうか?
生きている上での行為です。生きている人が善行為や悪行為をするのですから、「生きている」ということが一番大事になります。
「生きている」ということを忘れてはなりません。世の中の人はそこを忘れているようです。それでさまざまな犯罪が現れてくるのです。
「生きている」ことが土台であって、その土台を壊すべきではありません。土台を壊すことは、明らかに愚かな行為でしょう。これは、立派な家を建てて、そのあと家の下から穴を開けて土台を壊すようなものです。土台を壊すと、建物全体が崩壊します。それでは話になりません。
私たちは何をやるにしても、まず「生きている」のです。
シンプルに聞こえるかもしれませんが、これはとても大事なことです。
生きているから話します。何を話すかというのは、後の話で、生きていなければ話すという行為もありません。善行為も悪行為もないのです。
「生きる」ことの中身
そこで、「生きるとは何か」ということをまず考える必要があります。
でも、むずかしく考えたら困ります。世界の誰にもその答えを見つけることはできませんでした。お釈迦様以外、誰にもできなかったのです。
「生きる」ということは「行為をする」ということです。
私たちは無数にさまざまな行為をしています。意識的であろうが無意識的であろうが、さまざまな行為をしているのです。
呼吸をする、生きているからです。
体内に血液が流れる、生きているからです。生きていなければ、そんな行為はありません。
見る、聞く、話す、すべてが行為です。
座る、歩く、食べる、寝る、考える、呼吸する、大小便する、運動する、働く、休む、いろんなことをやっています。
これらは全部、生きているからやっていることです。
「生きる」ことの中身を見てみると、「行為」しかないのです。行為以外は何もありません。
ですから、「生きる」ということの箱を開けて、その中身を見てみる必要があるのです。
私たちは箱のふたを開けないで、「命は神様から授かったものだ」とか「尊い魂だ」などと言っています。
箱を開けないでいて、箱の周りでいろいろな意見を言っても、それはまったく意味がないのです。
そこで、箱のふたを開けてみます。そうすれば一発で中身がわかるでしょう。もう推測する必要も議論する必要もありません。
お釈迦様は「生きる」という箱のふたを開けてみたのです。開けてみたら、すべて行為のみ。呼吸することも行為ですし、考えることも行為、見ることも行為、聞くことも行為です。私たちはそれに「生きる」と言っているのです。血液が流れることも行為ですし、細胞一個一個がいろんな行為や働きをしています。その働きが止まったら「死」です。
ですから「生きる=行為」です。たくさんの行為があるでしょう。行為をするのは、生きているからなのです。
その行為は善か悪か?
次に、行為は善か悪か、ということを判断しなければなりません。
判断は簡単です。
生きることを破壊する行為は悪行為です。
たとえば、「生きる」というシステムの中で一個の組織、あるいは一個の細胞だけが調和を乱して勝手に反対の行為をするとしましょう。どうなるでしょうか?
全体が徐々に壊れていくのです。生命は「生きる」という行為の箱の中で、呼吸をしたり、食べたり、消化したりなど、さまざまな行為をしています。あらゆる行為が互いに調和して支え合い、補い合って働いているのです。
どんな細胞にも,酸素が必要です。もしすべての細胞が酸素を探しにどこかへ勝手に行ってしまったらどうなるでしょうか?
困ります。身体に細胞がいなくなってしまいますから、身体全体が機能しなくなってしまうのです。
細胞にはそれぞれ仕事があって、それぞれ別々の役割を担っています。
たとえば、肺は酸素をとり込んで二酸化炭素を排出するという働きがあります。そこで調和して仕事をしているのです。
肺には酸素が入りますが、その酸素を身体中に運ぶものが必要になります。その役割を、血液が担うのです。
細胞が生きるためには栄養素も必要です。もし細胞が「お腹がすいたからどこかへ食べに行くぞ」と言って、勝手に自分の持ち場を離れてしまったら、話にならないでしょう。
何かが栄養素を運んであげなければなりません。そこで、運送屋の血液が栄養素も運ぶのです。
では、廃棄物はどうしますか?
それも血液が排出器官まで運んでくれます。このように血液はものの見事に酸素や栄養素を運び、いらないゴミは体外へと運んでくれるのです。
もし、この血液がストを起こしたらどうなるでしょうか?
仕事しなかったら?
自分の仕事をストップした時点で、そちらの細胞は壊死してしまうのです。
これでおわかりになると思いますが、身体の中の行為がお互いに調和して、補い合って、協力し合って働いている場合、私たちは何のことなく健康で無事に生きていることができます。
このシステムにちょこちょこと異常が起きてしまうと、健康は崩れてしまうのです。
正常な細胞には、寿命というものがあります。自分の役割を終えたら死滅し、新しい細胞と入れ替わるのです。
しかし、ときどき新しい細胞が次から次へと生まれる場合もあります。古い細胞と入れ替わるためではなく、勝手にどんどん増え続けるのです。これが「がん細胞」と言われるものです。
がん細胞のほとんどは、死滅することなく激しいスピードで増殖を繰り返していくのです。
「成長する」ということは一般的に悪いことではありませんが、がん細胞が成長するのは困ります。なぜかというと、がん細胞は他の細胞と調和していないからです。
たとえばケガをしたとき、その傷口では新しい細胞がすごい勢いでできあがって、みるみるうちに傷口を補ってくれます。それはすごい速さです。それから、ストップします。傷口がきれいに治ったところで、ストップするのです。そこに調和があります。
もし新しい細胞が生まれるは生まれるは、きりがなく生まれて止まらなかったら、でっかいデキモノができます。これを「がん」と言うのです。
調和することは善行為
「生きる」ということは「行為をする」ことで、その行為は互いにネットワークをつくって、調和し、補い合い、協力し合って働くということが決まっています。
そうでなければ、生命は壊れてしまいます。
そこで、「善行為・悪行為」ということが成り立つのです。これが、最初に出した質問「善行為・悪行為は本当にありますか?」の答えです。
善行為・悪行為は本当にあります。成り立ちます。
生きることは行為をすることであり、その諸々の行為が調和して働いている場合は「善行為」、調和していない場合は「悪行為」なのです。
私たちは毎日ごはんを食べなければなりませんが、何を、どれぐらい、どのように食べればよいのでしょうか?
ちゃんと調和して食べなければならないのです。
もし「今日は腹いっぱいお肉を食べよう!」と、食べ過ぎて具合が悪くなって病気になった。これは悪行為です。調和を壊してしまったのです。
また、おいしいからといってチョコレートやケーキなど甘いものばかり食べていると、調和が崩れて糖尿病などの病気になります。ですから、欲張って食べることは悪行為です。
仏教は結構厳しいのです。
皆さまは、大胆に他の人々を助けることだけが善行為だと思っているかもしれませんが、食事の量を適量に抑えることも善行為です。
食べ物を身体に適量摂ることで、身体はうまく調和を保って働くことができます。これが善行為です。
多食や偏食は悪行為なのです。
この「調和を保つことは善行為である」ということを理解することが、智慧です。
ですから、世の中でやっている大胆な善い行為だけが善行為ではありません。
どこかの施設にいる子供たちに匿名でランドセルを50個送った、というのは当然善い行為ですが、善行為はそれだけではないのです。
では、その人の行為が私たちにとって派手に大きく見えるのはなぜでしょうか?
それは、私たちがあまりにもお金にべったり執着しているからです。本当は他人に1000円もあげたくないほどケチなのです。それで「誰かがランドセルを50個も送った」と聞くと、びっくりしてニュースになり、派手に大げさにそれを報道する。寄付した側からすれば、自分にはお金がちょっと余分にあるから子供たちに何か買ってあげたほうがいいんじゃないか、とそのぐらいの気持ちでやったことだと思いますが。
善行為は、大胆な行為だけではありません。
自分の身体に必要な量だけ食べること、これも善行為です。反対に、必要な量よりも多く食べたなら、それは悪行為なのです。(続きます)
根本仏教講義「智慧と善行為③」
スマナサーラ長老法話