2018/11/02

智慧と善行為⑦

2018年11月2日更新、2012年7月21日作成


「自利」と「利他」


善行為には二種類あります。

一つは、他人を助けることです。これは世の中の誰もが善い行為と見なしています。

では、自分のために何かをすることは悪いことでしょうか? 


悪くありません。私たちは自分の幸福のためにいろいろなことをする必要があるのです。



「自利」と「利他」



では、「自分のために善いことをする」ことと「他人のために善いことをする」ことと、どちらが善いことだと思いますか? 



それは判断できません。
自分を犠牲にして他人のためにやることが善行為であり菩薩行だ、という考えもありますが、あれは間違いです。結局、この二つを区別することはできないのです。


たとえば、若者たちがおとなしく、自分のためだけに勉強するとしましょう。ボランティアなど社会的な善い活動はしませんが、悪いこともしません。それで社会が悪くなると思いますか? 


社会全体が明るくなるのです。
自分が自分のためにまじめに勉強することは、自分のための「自利の行為」ですが、それで社会も豊かになるのです。


仕事の場合も同じです。自分の仕事をしっかりおこなうこと、これは自利の行為ですが、結局は社会全体の繁栄につながるのです。


一人で静かに勉強したり、瞑想したり、修行したり、戒律を守ったりすることは、他人や社会には関係がないことですが、そうやって立派な人間でいるだけでも、社会にとても善い影響を与えています

ですから、善行為は自利でも利他でもどちらでもよいのです。



あるいは、私が千円しか持っていません。その千円でごはんを食べようと外に出ました。その途中、たまたま道路で義捐金を集めている人たちがいて、持っていた千円を寄付しました。


ごはんを食べようと思っていたのに、ごはんが食べられなくなりました。

これは自分を犠牲にしたことですが、私は喜びを感じているのです。「善い行為をしました、よかった、よかった」と楽しい気分になっているのです。

千円でごはんを食べたら、それほど長持ちする楽しみは得られないでしょう。

このように、他人のためにやった行為でも、その結果は自分に返ってきます


ですから、自利と利他は区別することはできません。区別すること自体が間違いです。


善行為をすることによって人格が向上しますし、また社会のためにもなるのです。



問題は、心



それから、行為は闇雲におこなうものではありません。すべての行為は意志でやっていますから、意志が汚れると行為も汚れます。


たとえば十万円を誰かにあげたとしても、もし汚れた心であげたなら、善い結果にはなりません。十万円あげただけでは、善い行為にはならないのです。十万円を貰った人が、そのお金で麻薬を買ったり何か悪い行為をしたりすることを知りながらあげたならば、あげた人は罪を犯したことになるのです。


義捐金として十万円を寄付することとは大きく異なります。


ですから同じ「十万円をあげる」という行為でも、その人の意志で、善行為にもなり、悪行為にもなるのです。


社会では「怒りは悪い行為」と決まっていますが、親や教師、コーチなどはよく怒ります。


その人たちは、相手のことを嫌って怒っているのではありません。「育てたい」「一人前にしてあげたい」という意志が強いのです。やさしい顔を見せたら成長しないだろうと思っているのです。


ですから、親や先生の怒りは悪行為だと決めることはできません。



親が怖かったから、先生が怖かったから、という理由で立派な大人になった人は大勢います。


子どもが貪・瞋・痴の感情で弱くなっていて、貪・瞋・痴と闘う気力も失っている場合、親や先生はその子を怒鳴ったり脅したりしなくてはいけません。そうしないと、その子は感情に負けて堕落してしまいますから。


親や先生のその行為は、表面的には悪行為として見えるでしょうが、心は善い意志が働いていますから、善行為になるのです。


しかし、「善意なら怒っても脅してもいい」と決め付けるのは早計です。

怒らなくても脅さなくても、人々を育てる方法がいろいろあります。それには理性と判断能力が必要です。


仏教はこの問題を「優しい」と「厳しい」という言葉で解決します。お釈迦様は人を育てるとき、四つの態度をとられました。


 やさしくする 
 ・厳しくする 
 ・やさしくしたり厳しくしたりする 
 ・完全に無視する 


育つ見込みがまったくない場合は、その人に余計な迷惑をかけないよう、無視することをします。弟子入りを認めないのです。

人にたいして厳しい態度をとることは、必ずしも悪行為にはなりません。

悪意で厳しい態度をとることは、悪行為にきまっています。

悪意で他人にやさしく振る舞うことも、悪行為なのです。

ですから、意志に注意しましょう。意志が常に善になるように戒めるのです。


「意志が常に善であるように」と言われると、「それは無理。できるわけがない」という気持ちになるかもしれません。


お釈迦様は、子どもからお年寄りまで誰にでも、簡単に、四六時中、意志を善に保つ方法を教えられました


それは「生きとし生けるものが幸せでありますように」という気持ちです。

この言葉を常に念じて生きることです。


「私は他の人々のおかげで生きているのだから、社会にたいして恩返しをしなければなりません」という気持ちでおこなう善行為は、すばらしい善行為になります。

それによって、智慧も現れてくるのです。(了)