●指導者たち
当時のインドの政体は王政が多く、マガダ国もコーサラ国も王政でした。
しかし中には、ヴァッジ国(Vajji)やマッラ国(Malla)などの民主的共和制の国もありました。
お釈迦さまはそのような国々でも、指導者たちに法を説かれていたのです。
●自ら確かめること(カーラマ族への教え)
あっちの教えを聞き、こっちの教えを聞き、また別の教えを聞き、いろんな教義や修行方法、哲学を聞いて、やがてどうにもならなくなり、迷ってしまうという人々が、今も昔もいるものです。
そういう人々にたいしてお釈迦さまはどのように話され、彼らの迷いを解決なされたのでしょうか?
これは在家の方々に対する説法です。
ある村に、カーラマ族(Kalama)という人々が住んでいました。
ある日、お釈迦さまがこの村を訪れたとき、村の人々は、
「またどこかから宗教グループが来た」と、うるさく騒いだのです。
なぜうるさいかというと、この村には宗教家や沙門、バラモンたちが次々に訪ねてきて、神のことや魂、霊魂のこと、来世のことなど、いろんなことを話し、「自分の教えこそが正しい」と言って村を出て行くのです。
あるグループが説法して帰ったら、別のグループが来て、前のグループが話したことを「あの教えは間違っている」と非難し、「正しいのは私の教えだ。私の教えこそが正しい」と主張して帰るのです。
しばらくすると別のグループが来て「あの教えは全部間違いだ。正しいのは我々の教えである」と主張するのです。
そういうふうに次から次へと宗教家や沙門、バラモンたちが訪ねてきて、自分の教えを正当化し、他人の教えを徹底的に避難していました。
そこで、村の人々はお釈迦さまにこのように言いました。
「我々はもううんざりです。人が話すことは信じられません。真実を語っているのか、偽りを語っているのかという疑いが起こり、混乱するのです」と。
そこで、お釈迦さまは次のように説かれました。
「カーラマたち、あなたがたの態度は見事です。疑うのは当たり前です。不確かな話しを疑うのは当然のことです。人の話を受け入れるとき、
・耳で聞いたことに頼ってはならない
・世代から世代へと言い伝えられたものに頼ってはならない
・伝統や伝説、風説に頼ってはならない
・聖典や古典に頼ってはならない
・論理(思弁)に頼ってはならない
・理屈や理論に頼ってはならない
・人間がもともと持っている見解に頼ってはならない
(たとえば日本人なら日本独自の考え方や論理の組み立て方など)
・自分の意見(見解)と同じ意見(見解)に頼ってはならない
・説く人の立派な姿かたちに頼ってはならない
・説く人の肩書きに頼ってはならない」
続けてお釈迦さまはこのように説かれました。
「何が善いのか、何が悪いのかを自分で考えてください。
ある人の話が不善であり、賢者に非難されるものであり、苦しみをもたらす教えなら、その教えから離れてください。
ある人の話が善であり、賢者から非難されるものではなく、幸福に導く教えであるなら、その教えを受け入れてください」
このお釈迦さまの理性的な説法が終わると、村人たちはお釈迦さまに帰依し、仏教徒になりました。
(続きます)
生きとし生けるものが幸せでありますように
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法話:スマナサーラ長老
来たれ見よ (Ehipassiko) :誰でもチャレンジできる仏教実践
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文:出村佳子
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