「私」とは誰か?① からの続き
無数の私が争っている
私たちが生きているということは、瞬間瞬間に「実感」が起きているということです。それは誰にでも明確に理解できると思います。それからさらに、その実感はどういうものか、どのようにしてその実感が現れるのか、実感は本当にずっと変わらないものなのか等と、いろいろ調べていくことができます。やがて頭の中で実感に「私」という主語を入れることが無くなったら、そこから真理の世界に入ることになるのです。
3つの思考は本能的なもの
「欲」と「怒り」と「害意」は本能的なもので、自然に湧いてくる思考です。
私たちがこころを育てよう、清らかにしようとしないかぎり、抱いている思考なのです。
そこで、ブッダは「本能的な思考から離れて、その反対の思考を育ててください」と教えられました。
反対の思考とは、
・欲から離れる思考 (nekkhamma saṅkappa)
・怒りのない思考 (abyāpāda saṅkappa)
・害を与えない思考 (avihiṃsā saṅkappa)
の3つです。
これらが「正しい思考(正思惟)」であり、安穏をもたらす思考なのです。
「第2章 欲は、怒りと害意の出発点」より
正思惟〈正しい思考:Sammā Saṅkappa〉
欲・怒り・害意の手放し方―八正道 ②
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
〈私がいる〉という実感
「私とは誰か?」という一般的な質問があります。それは私のことを知りたい、という欲求から起こる問いのようです。一方、仏教では「私という実体はない」と言っています。「ない」と言われても、誰にだって「自分がいるんじゃないか」という実感があるので、仏教は変なことを教えていると訝しがられる結果になるのです。
人は知らず知らずのうちにネガティブな思考パターンに囚われてしまうものです。
怒りや嫉妬、競争心、不安、恐怖、落ち込みといった思考や感情は、自分を苦しめるだけでなく、周りの人にも悪い影響を与えます。
そこで、「正しい思考(正思惟)」を実践していくことで、これらネガティブな思考に気づき、思考を管理できるようになるのです。
「正しい思考(正思惟)」は人生の羅針盤であり、生き方そのものです。
日々、思いやりや慈しみ、施し、理解、智慧に基づいた思考を選択し、実践することによって、思考が清らかになっていくでしょう。
その結果、より安穏で幸福な人生を送り、こころを悩ませている悩みや不満、苦しみは消えていくのです。
「おわりに:ネガティブな思考からの解放」より
正思惟〈正しい思考:Sammā Saṅkappa〉
欲・怒り・害意の手放し方―八正道 ②
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
