ほんものの恐怖とは?③-2 の続き
自分の感覚に愛着する
おかしなことに、その感覚や刺激にたいして、私たちは愛着を抱くのです。
花に愛着するのではありません。
花を見たときに生まれた自分の感覚に愛着を抱くのです。
ある時、勝手に起こった感覚への愛着を勘違いして、「あの花は素晴らしい、あの花が欲しい」と妄想するのです。
ほんものの恐怖とは?③-2 の続き
おかしなことに、その感覚や刺激にたいして、私たちは愛着を抱くのです。
花に愛着するのではありません。
花を見たときに生まれた自分の感覚に愛着を抱くのです。
ある時、勝手に起こった感覚への愛着を勘違いして、「あの花は素晴らしい、あの花が欲しい」と妄想するのです。
◎自分と他者の間に壁を作らないようにする。気づきと慈しみで壁をなくしていくことで幸せが得られます。
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生きとし生けるものが幸せでありますように
ほんものの恐怖とは?③-1 の続き
生きるとは感じること
だから音楽が流れたからといって、ここにいる人たち皆が同じ感覚になるわけではありません。バラバラなのです。
その感じることが、命です。
皆様の知識をちょっと調べてみてください。「死」という概念はあるでしょうか?
ダイエットの方法とかウナギの美味しい食べ方とか、そういう知識はあるかもしれません。
でも、皆様の知識に「死」はないのです。
感情にも「死」はありません。存在すらしないのです。
同様に、他の者にとっても自分のことが愛しい
「自分がいちばん愛しい」のは、自分だけではありません。
他人も同じように、自分のことがいちばん愛しいのです。
自分が苦しみたくないように、他人も苦しみたくない。
自分が傷つけられたくないように、他人も傷つけられたくない。
自分が害されたくないように、他人も害されたくない。
このように、わが身にひきあてて、
「他人も自分と同じように感じている」と理解するよう、
ブッダは教えられたのです……。
『自己愛から慈しみへ、我から無我へ:マッリカー経』
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)より
ほんものの恐怖とは?②-2 の続き
存在欲
次のポイントは「存在欲」です。
生きるとは、眼耳鼻舌身意で色声香味触法の情報を認識することです。生きるとはそういうシンプルなカラクリなのです。決して大それたことではありません。
眼で感じ、耳で感じ、鼻で感じ、舌で感じ、身体で感じ、意で感じます。この感じることをひっくるめて、私たちは「命」と言っているのです。命とは、ただ感じるだけのことなのです。
この感じるという機能は、ずーっと変化しています。自分の好きなように操縦することはできないのです。
たとえばこのテーブルの上にある花を見て、「花だ」という感覚が起こるかもしれません。では、同じものを「犬だ」と感じてみてください。できますか?