2024/03/06

自分という実感は、阿羅漢になるまでなくならない「自由への突破口③-8」


我語取「自由への突破口③-7」から続きます。


自我の錯覚が消えても、自分という実感はある


では、覚りの第1ステージの預流果に達して、「自我はない、実体はない」ということがわかったとします。有身見も消えています。でも、自分という実感はまだあるのです。執着①の欲取は減っていますが、微妙に残っています。

たとえば、「なんとしてでもおいしいものを食べたい」という気持ちは消えて、「まー何か食べれればいい」という気持ちなのです。

2024/03/03

老いるものとは? 老いないものとは?

 

老いるもの 老いないもの


Rūpaṃ jīrati maccānaṃ,

nāmagottaṃ na jīrati;

 

肉体(色)は老い、

名姓は老いません。



何が老いて、何が老いないのでしょうか?

2024/02/28

我語取「自由への突破口③-7」


我論への執着「自由への突破口③-6」から続きます。


無我


無我を言葉で説明すると、パラドックス(逆理)になります。
覚った人が自我を実感したとしましょう。
しかし、実感とは自我です。前提的に「自分がいる」というスタンスが必要なのです。

ですから、無我に達する境地は、言葉の説明範囲を超えているのです。
それで、お釈迦様は「我取」ではなく、「我語取」という言葉を使用されたのです。

2024/02/16

ありのままに見るために欠かせないこと『正見〈正しい見方:Sammā Diṭṭhi〉―八正道 ① 』


問題は、ひとりひとりがみな、

「自分が見ていることや考えていること、感じていることは正しい」
「自分の見方は正しい」
「自分の意見は正しい」

と思っていることです。

知らず知らずのうちに、自分の見方に執着しているのです。


さらには、自分と違う見方や考え方を持っている人にたいして違和感を覚え、

「あなたは間違っている」と思う傾向があります。

そこから意見のぶつかり合いや対立、論争、争いなどが起こってきます。

これが無数の悩みや苦しみを引き起こすのです。



そこで、「この自分中心のものの見方〈主観〉から離れて、真実をありのままに見ましょう」「正しい見方〈正見〉を育てましょう」と教えているのが仏教です。


自分の偏見や先入観、固定概念を取り去って、ものごとを客観的に、ありのままに見られるよう、こころを育てていくのです。