我語取「自由への突破口③-7」から続きます。
自我の錯覚が消えても、自分という実感はある
では、覚りの第1ステージの預流果に達して、「自我はない、実体はない」ということがわかったとします。有身見も消えています。でも、自分という実感はまだあるのです。執着①の欲取は減っていますが、微妙に残っています。
たとえば、「なんとしてでもおいしいものを食べたい」という気持ちは消えて、「まー何か食べれればいい」という気持ちなのです。
我語取「自由への突破口③-7」から続きます。
自我の錯覚が消えても、自分という実感はある
では、覚りの第1ステージの預流果に達して、「自我はない、実体はない」ということがわかったとします。有身見も消えています。でも、自分という実感はまだあるのです。執着①の欲取は減っていますが、微妙に残っています。
たとえば、「なんとしてでもおいしいものを食べたい」という気持ちは消えて、「まー何か食べれればいい」という気持ちなのです。
我論への執着「自由への突破口③-6」から続きます。
無我
無我を言葉で説明すると、パラドックス(逆理)になります。
覚った人が自我を実感したとしましょう。しかし、実感とは自我です。前提的に「自分がいる」というスタンスが必要なのです。
ですから、無我に達する境地は、言葉の説明範囲を超えているのです。
それで、お釈迦様は「我取」ではなく、「我語取」という言葉を使用されたのです。
問題は、ひとりひとりがみな、
「自分が見ていることや考えていること、感じていることは正しい」
「自分の見方は正しい」
「自分の意見は正しい」
と思っていることです。
知らず知らずのうちに、自分の見方に執着しているのです。
さらには、自分と違う見方や考え方を持っている人にたいして違和感を覚え、
「あなたは間違っている」と思う傾向があります。
そこから意見のぶつかり合いや対立、論争、争いなどが起こってきます。
これが無数の悩みや苦しみを引き起こすのです。
そこで、「この自分中心のものの見方〈主観〉から離れて、真実をありのままに見ましょう」「正しい見方〈正見〉を育てましょう」と教えているのが仏教です。
自分の偏見や先入観、固定概念を取り去って、ものごとを客観的に、ありのままに見られるよう、こころを育てていくのです。
第2章 なぜ、ありのままに見られないのか? より
正見〈正しい見方:Sammā Diṭṭhi〉
ありのままに見る智慧―八正道 ①
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】