悪と不善に完成はあるか?
次に「完成」ということについて考えてみましょう。
悪と不善に「完成」はあるのでしょうか?
悪行為は激しく命を破壊し、不善行為は徐々に破壊します。
悪行為の場合、たとえば他人を殺したら、自分の命もそれで終わりです。社会から逃げても隠れても無駄です。自分がやった悪行為が、毎日自分を破壊していくのです。
不善行為とは判断を間違えたり、失敗したり、下手で何をやってもうまくいかず、結果がダメなことで、そうなってくるとじわじわと自分の人格が下がっていきます。
失敗すると、誰でも落ち込むものです。失敗したからといって死ぬわけではありませんが、落ち込むのです。落ち込んだら、さらに能力が低下します。
そこで悪行為の場合も、不善行為の場合も、悪や不善が完成する前に、その人は死んで不幸に陥ります。
ですから悪と不善は完成できません。完成する前に、地獄に堕ちるか不幸に陥るのです。
たとえば殺生を考えてください。殺生を完成するために必要なことは何でしょうか?
自分以外地球上のすべての生命を殺さなければいけないでしょう。これはありえないことです。
では、盗みを完成するために必要なことは何でしょうか?
地球上のすべての人が持っているものを全部盗まなければなりません。できますか?
できません。
悪行為も不善行為も完成することはできません。
不善という言葉には、未完成という意味もあります。未完成とは結局、完成していないということですからね。完成は成り立たないのです。
悪行為や不善行為を始めたら、自分が不幸になり、壊れていきます。他人を殺すといっても一人か二人くらいしか殺せません。テロみたいな組織的な殺人もありますが、他人をずっと殺し続けることは不可能です。その前に、自分が壊れてしまいます。
ですから悪行為や不善行為は長持ちせず、完成することはないのです。
(続きます)
生きとし生けるものが幸せでありますように