悪と不善・功徳と善の関係
図を見てください。
図:スマナサーラ長老 |
左上のギザギザの図が、「悪と不善の関係」です。
「不善」の中に「悪」がありますね。不善行為は悪行為よりも大きいのです。悪行為は悪行為でありながら、不善行為でもあります。でも、不善行為はすべて悪行為になるわけではありません。
右下の円の図が「功徳と善の関係」です。
「功徳」は「善」の中にあります。善行為は功徳行為よりも大きくて、たくさんあるのです。
悪(pāpa)と不善(akusala)の差
悪行為は生命に害を与える迷惑な行為ですから、悪行為をすると、その人は苦しみ、不幸に陥ります。
不善行為をすると、その人は退化します。地獄に堕ちるとは言いません。でも退化の結果として、地獄に堕ちることはあります。
この悪行為と不善行為の差を理解してください。不幸に陥る行為(悪:pāpa)と退化する行為(不善:akusala)は仲間ですが、同じではありません。この二つの違いが理解できれば、理性のある立派な人間になるでしょう。
善行為とは?
善行為について考えてみましょう。善行為って何でしょうか?
自分が成長する行為、巧みな行為、理性でおこなう行為、人格を向上させる行為です。
勉強したり、道徳を学んだりすることも善行為です。
しっかり技術を学んで他人の役に立つ技術者になることも善行為です。自分も成功し、他人も助かりますからね。
したがって、自分の技術能力を毎日磨くことも善行為になるのです。
仏教では、木を植えることもすばらしい善行為だと言っています。私たちは、自分で食べないものは植えないんですね。自分だけのことを考えているなら、それは善行為とは言えません。
自分の畑を作ることはいくらかは善行為なのですが、仏教で言っている限りない善行為にはなりません。
誰が食べてもいいんだという気持ちでどこにでも植えておくなら、それは善行為になります。
功徳行為とは?
功徳行為って何でしょうか?
それは困っている人を助けてあげたり、殺されそうになっている命を救ってあげたりなど特別な行為をすることです。
たとえば養鶏場にいるニワトリはみな殺されます。
そこで管理者に「お願いですからニワトリを一羽だけでもいただけませんか。お金を払いますから」と言って、いっぱいお金を払ってでもニワトリを飼う。
これは殺される運命にある命を一つ救ってあげたことになるのです。
他にもボランティアをするとか、被災地に行って協力するとか、そういうのは善行為でありながら功徳行為でもあります。
そこで、功徳行為だけに集中すると、引っ掛かる可能性もあります。
私は善行為を行なう善い人間であると、自慢したくなる可能性もあります。
また、自分がおこなっている福祉活動にたいして、執着を抱く可能性もあります。
「功徳行為をする人は、死後、天界に生まれる」という話が仏教では盛んです。ですから、功徳をおこなう人は、死後、天界に生まれることを期待する可能性もあります。
解脱の立場から見れば、それも執着というカテゴリーに入ります。
執着は解脱の妨げになります。
ですから功徳行為をおこなう人は、その行為によって心が汚れる恐れもある、ということを理解しなくてはいけません。
しかし、功徳行為を善行為としておこなうならば、その問題は起きません。ですから功徳を積む人は、善行為になるようにしなければならないのです。
やり方は、理性を使うことです。ブッダの教えを理解しているなら、おのずから理性のある人間になります。
たとえば、避難所にいる人々を助けるボランティア行為をするとしましょう。
仏教を知らない人ならば、「この人たちは困っている。私たちには問題がありません」という気持ちになるのです。
一方、仏教を知っている人は、「生きることは苦である」と知っています。ですからボランティアをする自分も、何かの拍子に被害を受けて苦しむはめになる可能性があるということを知っているのです。輪廻のなかにいる限り、安全だとは言えないことを知っています。
この程度の理解があれば、立派な理性人です。功徳行為が善行為になっているのです。
理性を使わずに、人を助けたいという感情だけでボランティアをすると、いろいろトラブルが起こる可能性もあります。
たとえば、張り切って頑張る。結果として自分の体調が崩れる。あるいは、あまりにもやりすぎて家族の迷惑になったり、仕事に不都合が起きたりもします。
ときどき、ものごとが計画どおりに進まないと、怒ったり、人を叱ったり、やる気を失って途中でやめたりすることもあります。
善いことをしたいという気持ちだけで励むと、結果として心が汚れて不善になったり、他人に迷惑をかけることで悪行為になったりもします。
功徳行為を感情ではなく理性でおこなうならば善行為になります。功徳行為が悪行為に変身する恐れもないのです。
(続きます)