「善行為は完成できる」 の続き
功徳から善への進み方
ここで、皆様にちょっと勉強することがあります。
私が教えなくても、皆様は功徳とは何かということを知っているでしょう。
たとえば、教会ではミサが終わるとだいたいみんな寄付をします。その寄付金は教会の維持管理だけではなく、いろいろなボランティア活動に使ったりします。あるいは目が見えない人を助けるためや、恵まれない人を助けるため、また孤児院などどこかの施設の維持管理のために使ったりします。
日本の子供たちも、路上で募金活動をしているのを見かけます。ああいうのは功徳行為なんです。
でも、これって、いくらやってもやりきれません。
ですから、「功徳」を「善」になるようにしなければなりません。パーリ語でいうと、「プンニャ(puñña)」を「クサラ(kusala)」に変えなくてはいけないのです。
このプンニャをクサラに変える方法を、これから説明いたしましょう。
功徳行為にはいろいろありますが、「不殺生」を例にあげて説明します。
不殺生(生命を殺さないこと)を、パーリ語で「Pāṇātiptipātāveramaṇī」といいます。
①とにかく殺生をやめる
「殺したいという意があっても、あるいは殺さなくてはいけない条件に遭遇しても、殺生をしないこと」です。これは、功徳行為になります。
殺したいけれど、殺しません。殺さなければならないときでも、殺しません。
これは功徳行為になります。
②理性を使って徐々に命の意義を理解する
「殺さない」だけではなく、もう少し宿題があります。
殺すということは命を奪うことです。
それで、「命って何か?」ということを理解するのです。
③「生きる権利は皆にある」ことを理解する
誰にでも「生きていきたい、死にたくない」という気持ちがあります。
生きる権利は、アリからゾウまで、微生物からクジラまで、すべての生命にあるのです。
そこで、「生きることは生命の権利であり、尊厳だ。尊厳を守ることはすばらしい」ということを理解し、みんなの生きる権利を守るのです。
周りの人が魚釣りをやっているから自分もやろう、といった殺生の気持ちは、もうありません。命の尊厳や生きる権利を守るのです。
ここで、いきなり「不殺生」のレベルが上がります。
①の「とにかく殺生をやめる」の段階では、かなりストレスがたまります。
たとえば、会社の上司に「一緒に山に行こう」と誘われたとしましょう。「その山の池には魚がたくさんいて、けっこう釣れますよ。その場で塩焼きにして食べるとおいしいですよ。行きましょう」と。
①の「殺生をやめる」レベルの人にとっては、山に行きたいのですが、このプログラムの一つが釣りですからね。行きたくありません。でも、行かなかったらまずい、どうしよう……と悩むんです。
しかし、「命の尊厳を守る」のレベルの人は、ストレスがかかりません。上司や同僚と一緒に山に行き、魚釣りをするときになったら、「魚にも生きる権利はありますから、私は命の尊厳を守って釣りはやりません」と考えて、皆さんが釣りをしているとき、私はボートに乗って池を周っています」などと言ってボートに乗るんです。そこにストレスはありません。
でも、もし「私は殺生しません」と言うと、みんなに嫌がられるでしょう。
「なんだこいつは」というふうに思われるかもしれません。
しかし、善になると、それがありません。「私は命の尊厳を守りたいですから」というと、誰も反対することはできませんからね。それは巧みな行為であり、正しい判断なのです。
ですから、不殺生戒を守る人は「功徳」から「善」に変えると、結構ストレスのない大きな人間になっているのです。
④自然に命の尊厳を守ることができるようになる
そのように生きていると、他の生命の尊厳を守ることが自然にできるようになります。
⑤慈しみを育てる
知らないうちに自分のこころが慈しみにあふれています。歯を食い縛って慈悲で生きようとするのではなく、自動的にそうなっていくのです。
(続きます)