2018-10-09

「善悪」とは? ①‐1

まず善悪の勉強から始める


私たちは善と悪について新たに理解すべきです。みながよく言っている「世界は悪(善)で満ちている」などのセットフレーズに乗るのではなく、実際に「善とは何か、悪とは何か」をちゃんと理性で理解したほうがよいのです。

仏教では、善には二種類あり、悪には二種類あります。それぞれどのような意味なのかを学んでみましょう。


・Puñña(プンニャ)



Puñña は普通の日本語にすれば、「功徳」や「善い行ない」です。

寄付をする、ボランティア活動をする、困っている人々を助ける、道徳を守る、海岸や街をキレイにする、海外ボランティアで植林や井戸掘りに従事するなどの行為です。

自分と家族が生きるために行なう活動と違って、他の生命の幸福のために行なう行為です。

その結果、自分のこころが清らかになって、自我を張る気持ちが弱くなり、優しい人間になるのです。功徳を積む人は、喜びと充実感を感じます。

功徳行為は三種類あります。身体で行なう身行為、言葉を使って行なう口行為と、清らかな思考の意行為です。

意行為とは何でしょうか? 

自我を控えて、慈しみの気持ちを育てるようなことを勉強したり、考えたり、観察したりすることが意行為です。

さらに、自分の身体で慈善行為をするときも、それについて考えなくてはいけないでしょう? それも意行為です。

・Kusala(クサラ)


Kusala はなかなか訳しにくい言葉です。
私は「善」「道」「上手」「巧み」という言葉を考えました
が、英語だと「ability」という言葉も使えます。あとは「expedience」「prudence」「efficiency」などがあり、どれも「善」という意味です。能力があること(ability)も善なのです。
仏教の定義は精密ですから、よく理解してください。

Kusala とは、生き方全体を理性に基づいて管理することです。感情に負けないことです。正しい判断をして生きることです。
功徳行為の場合は具体的なリストを作れますが、クサラの場合は生き方そのものが善い生き方になるように巧みに理性を使わなくてはいけないので、具体的なリストは作れません。

たとえば、自分がご飯を食べることは功徳行為ではありません。

しかし、ご飯を食べるときも、すべての生命に慈しみを抱いて、ご飯が出来上がるまで関わった他の生命に対して感謝の気持ちを抱いて、身体に必要な量を計って、味に執着しないで、貪らないで食べることが、クサラになります。

人が行なうどんな行為も、クサラに変えることができるのです。

・Pāpa(パーパ)


Pāpa は、puñña(プンニャ)の反対で、「悪」や「罪」という意味です。

悪行為も身口意の三種類があります。 

与えられていないものを取ったり、詐欺行為をしたり、人を騙したり、嘘をついたりすることです。
世間で犯罪と言われるすべての行為は、パーパなのです。

悪行為を行なう人は、必ず不幸になります。この世で法律により裁かれます。死後、悪趣に赴くはめになります。これは「悪人」と言われる人の生き方です。

・Akusala(アクサラ)


Akusala は、kusala(クサラ)の反対で、「不善」「不道」「下手」という意味です。いわゆる「能力がない」ことです。能力がないことは仏教では不善なのです。

何をやっても間違いが多い、努力に適った結果を得ることができない、ものごとを正しく理解する能力がないなどの性格です。

生きるための正しいガイドラインを持っていないことです。

「悪」の場合は特定の罪に当たる行為になりますが、「不善」の場合は、生き方が全体的にうまく進まない、という意味になります。

この四種類を理解してください。




悪と不善のリスト


悪とは、俗にいう罪のことです。宗教や社会は罪についていろいろ語っています。私たちはそのリストから「普遍的なリスト」を作ることができます。

各宗教が独自の罪のリストを持っています。その場合、宗教の教理に基づいて善悪のリストをつくるのです。社会状況が変わると、リストが時代遅れになる恐れもあります。その場合、柔軟な宗教であるならば、リストを改良するのです。
宗教同士の道徳リストを調べると、一つの宗教で悪行為だと示す項目が、他の宗教のリストには入っていないこともよくあります。

イスラム教では豚肉を食べることは禁止ですが、他の宗教は気にしません。ユダヤ教とイスラム教では、割礼は大事な行為ですが、他宗教はその習慣を無視します。


「殺してはいけない」という項目は、ほとんどの宗教にありますが、状況によって他の生命を殺すことを認める場合もあります。

仏教とジャイナ教では、条件はなんであろうとも他の生命の命を奪うことは禁止なのです。 

また、文化的にもそれぞれ罪のリストは異なります。
日本人には日本人の考える罪があり、中国人には中国人の考える罪があり、ヨーロッパ人にはヨーロッパ人が考える罪があります。これらは、互いに合わない場合があるのです。
それで仏教は、罪を犯す・善行為を行なうすべての生命のこころの働きを知り尽くして、こころを戒めるために欠かせないリストを作って教えました。

仏教で道徳リストを作る場合は、個人の信仰、個人の迷信などを参考にしません。こころはどのように働くものか、という客観的な事実に基づいて、リストを作るのです。

すべての生命のこころは、あるパターンで活動します。それは、悪に赴くパターンです。

こころが善に赴いて活動するためにはどのように躾けすればよいのかを理解しているのです。

ですから、仏教にある道徳リストは、すべての生命に共通します。個人の信仰・迷信・文化・しきたり・習慣は関係ないのです。

たとえば、神を信仰する人は「神を信じないことは重罪だ」と言います。しかし、世の中ですべての人が神を信じているわけではありませんから、この項目には普遍性が欠けているのです。仏教のリストには、この項目はありません。

一方、 「殺してはならない」ということは、誰も否定できません。どんな宗教も「殺してはならない」と教えています。これは「普遍的なリスト」に入ります。

ただ、宗教によって「どの程度の殺しがよくないか」という違いはあります。その部分は「普遍的なリスト」から外れます。

仏教の道徳リストは、決して他宗教からパクったものではありません。生命のこころの働き方を知り尽くしてから作ったリストなのです。

仏教の悪のリストに偏りはありません。信仰に偏っていませんし、時代にも文化にも偏っていません。普遍的で全人類に共通するリストです。

そうでなければ、理性的で科学的で客観的なリストになりません。

人には偏りのない普遍的な悪のリストが必要です。
たとえば悪のリストのひとつに「盗んではいけない」とあります。盗むことは悪です。どの宗教でも、どの文化でも、盗むことは悪だと知っています。そういうふうに普遍的な共通するリストが必要なのです。(続きます)

スマナサーラ長老