仏教の「悪」の定義
それは、「自分と他の生命にたいして迷惑な行為をすること」です。
ここで理解してほしいのは、仏教では対象は「自分」と「他の生命」だということです。自分に迷惑な行為をすることも、悪であり罪なのです。
皆さんは他の生命をいじめることは罪だと知っているでしょう。自分で自分をいじめたり害を与えたりすることも罪なのです。
このように、仏教の悪の定義とは自分と他の生命に迷惑をかけることです。仏教心理学から、この定義を設定しているのです。
すべての生命は、自分のことしか知りません。自分のためになるならば、どんな行為も正しいと思っています。自分の命を守るためなら、他の命を奪ってもよいと思っているのです。自分という殻の中での判断です。
そこで、「自分と他の生命の迷惑になる一切の行為は悪である」と理解して、迷惑をかけないように生活してみると、自分という殻が破れて、人間的に成長するのです。
ブッダは「十不善(dasa akusala)」のリストを教えました。ここで十不善(dasa akusala)は悪(pāpa)ではなく、不善(akusala)という言葉になっていることに注意してください。
仏教には「不善のリスト」があります。それは何にも偏っていない真理に基づいたリストです。この内容を変えることは誰にもできません。
一般的に初期仏教でも大乗仏教でも使っている「十善十悪」という二十のリストがあります。
しかし、その二十の中に道徳・非道徳の教えすべてが入っていますから、結構むずかしいのです。
それで、ブッダは悪(pāpa)ではなく、不善(akusala)という言葉を使うのです。
罪(pāpa)を犯さないように気をつけると、必ず善い人間になります。
さらに、善(kusala)を行なうように気をつけると、人生が全体的に制御されます。理解能力が現れます。智慧が開発されて、解脱に達することもできます。
ブッダはそこまで考えていたので、十悪ではなく「十不善」と名前を変えたのです。ただ、場合によって、悪という言葉も使っていたのです。
悪(pāpa)とは、人類が皆、否定する悪行為のことです。これはかなり恐いもので、まともな人間ならば、決して犯さないでしょう。
不善(akusala)とは、判断能力が乏しい、判断が間違っている、愚かな行為、成長を妨げる行為、理解能力に障害を与える行為のことです。
そうすると、不善(akusala)のほうが悪(pāpa)よりも範囲が広いのです。悪(pāpa)の場合は狭いのです。
仏教徒であっても、不善(akusala)だと思わずにやっていることがいっぱいあります。
たとえば仏教徒だから、五戒は守っているつもりです。形式的に戒律項目を守ってはいますが、判断を間違えたり、こころの成長を妨げたりすることをいろいろやっているのです。
それでそのような人にたいして、躾けの言葉をかけると、その人は「私は五戒に反することはやっていません」と弁解するのです。
五戒を形式的に守ることは、puñña という功徳行為になります。しかし、五戒を善―kusala として守らないと、智慧が現れません。
ブッダの十種類のリストには、悪と不善の両方がまとめてあります。どちらも入っています。ですから「十悪」とは言わずに「十不善」と言うのです。
【十不善】:殺生・偸盗・邪淫・妄語(嘘)・粗悪語(乱暴な言葉)・悪口・噂話(無駄話)・異常な欲・異常な怒り・邪見
ここで理解してほしいのは、仏教では対象は「自分」と「他の生命」だということです。自分に迷惑な行為をすることも、悪であり罪なのです。
皆さんは他の生命をいじめることは罪だと知っているでしょう。自分で自分をいじめたり害を与えたりすることも罪なのです。
このように、仏教の悪の定義とは自分と他の生命に迷惑をかけることです。仏教心理学から、この定義を設定しているのです。
すべての生命は、自分のことしか知りません。自分のためになるならば、どんな行為も正しいと思っています。自分の命を守るためなら、他の命を奪ってもよいと思っているのです。自分という殻の中での判断です。
そこで、「自分と他の生命の迷惑になる一切の行為は悪である」と理解して、迷惑をかけないように生活してみると、自分という殻が破れて、人間的に成長するのです。
悪と不善の違い
ブッダは「十不善(dasa akusala)」のリストを教えました。ここで十不善(dasa akusala)は悪(pāpa)ではなく、不善(akusala)という言葉になっていることに注意してください。
仏教には「不善のリスト」があります。それは何にも偏っていない真理に基づいたリストです。この内容を変えることは誰にもできません。
一般的に初期仏教でも大乗仏教でも使っている「十善十悪」という二十のリストがあります。
しかし、その二十の中に道徳・非道徳の教えすべてが入っていますから、結構むずかしいのです。
それで、ブッダは悪(pāpa)ではなく、不善(akusala)という言葉を使うのです。
罪(pāpa)を犯さないように気をつけると、必ず善い人間になります。
さらに、善(kusala)を行なうように気をつけると、人生が全体的に制御されます。理解能力が現れます。智慧が開発されて、解脱に達することもできます。
ブッダはそこまで考えていたので、十悪ではなく「十不善」と名前を変えたのです。ただ、場合によって、悪という言葉も使っていたのです。
悪(pāpa)とは、人類が皆、否定する悪行為のことです。これはかなり恐いもので、まともな人間ならば、決して犯さないでしょう。
不善(akusala)とは、判断能力が乏しい、判断が間違っている、愚かな行為、成長を妨げる行為、理解能力に障害を与える行為のことです。
そうすると、不善(akusala)のほうが悪(pāpa)よりも範囲が広いのです。悪(pāpa)の場合は狭いのです。
仏教徒であっても、不善(akusala)だと思わずにやっていることがいっぱいあります。
たとえば仏教徒だから、五戒は守っているつもりです。形式的に戒律項目を守ってはいますが、判断を間違えたり、こころの成長を妨げたりすることをいろいろやっているのです。
それでそのような人にたいして、躾けの言葉をかけると、その人は「私は五戒に反することはやっていません」と弁解するのです。
五戒を形式的に守ることは、puñña という功徳行為になります。しかし、五戒を善―kusala として守らないと、智慧が現れません。
ブッダの十種類のリストには、悪と不善の両方がまとめてあります。どちらも入っています。ですから「十悪」とは言わずに「十不善」と言うのです。
【十不善】:殺生・偸盗・邪淫・妄語(嘘)・粗悪語(乱暴な言葉)・悪口・噂話(無駄話)・異常な欲・異常な怒り・邪見
(続きます)
生きとし生けるものが幸せでありますように