「功徳から善への進み方①」から の続き
功徳から善への進み方(例:不殺生)
①とにかく殺生をやめる
②理性を使って、徐々に命の意義を理解する
③「生きる権利は皆にある」ことを理解する
④自然に命の尊厳を守ることができるようになる
⑤慈しみを育てる
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⑥「自我の錯覚が殺意を引き起こす」と発見して、自我の錯覚をなくす
たとえば蚊やゴキブリを見たとき、私たちはすぐに殺そうとします。
なぜ、殺そうとするのでしょうか?
それは、自我(我)があるからです。
この「自我がある」ということを発見してください。
さらに「自我は錯覚である」ということも発見するのです。
どんな生命を見ても、ただ「生命だ」と見るようにしてください。
そのように見ると、どれほど楽でしょうか。
「あの人は男性だ」とか「あの人は女性だ」「あの人は社長だ」「あの人は医者だ」「あの人は政治家だ」などとあれこれ考えると、ストレスがたまってしまいます。
皆さまは、世界のエリートの方々の前で、壇上に立ってスピーチすることができますか?
もし、「自分も他人もただの生命である」という実感で生きている人だったら、日本の政治家たちが全員来たとしても、ふだんと同じ口調で話せるでしょう。天皇家の方々が来ても、同じです。
ですから、「自我の錯覚」をなくして、善(kusala)で生きていると、ストレスがひとかけらもなく、広い心で、すごく自由を感じるのです。
自分のことも、「私」とか「自分」ではなく、「この生命」と見てください。このように見ることで、「自我の錯覚」が発見できるでしょう。
「生命を殺さない」ことを実践しようとしても、生命は無数に、無限にいます。
ですから、これ(功徳)は完成できません。
しかし、クサラ(善)は完成できるのです。
クサラ(善)の場合、心にもう殺意は起こりません。
それで、「不殺生」が完成して、覚りに達するのです。
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参考のために、「不殺生戒」のフルバージョンを紹介します。
Pāṇātipātaṃ pahāya pāṇātipātā paṭivirato hoti.
Nihitadaṇḍo nihitasattho lajjī dayāpanno
sabbapāṇabhūtahitānukampī viharati.
殺生をやめ、不殺生に基づいた生き方をする。
〔他に苦を与える〕警棒や、〔他を傷つける〕武器を一切持たず、
〔他をいじめることを〕恥じ、やさしい気持ちを育て、
一切の生命にたいして〔幸福を願い〕あわれみを抱いて生きる。
この文を読んでみると、お釈迦様は「不殺生戒」を儀式的に守るのではなく、善を完成するという目的を持って説かれていることが明確に理解できます。
「与えられていないものを盗らない」「淫らな行為をしない」「嘘をつかない」「酒・麻薬を摂らない」などの戒律も、この「不殺生戒(生命を殺さない)」と同じです。
戒律を儀式的に守れば、功徳を積むだけで終わります。
しかし、仏教の戒律は、「善を完成する」という目的で実践しなければなりません。
戒律を守るときには、「功徳を善に変える能力」が必要です。
ですから、ちょっと功徳行為をするだけで人生を終えないでください。
功徳行為を善行為に入れ替えて、それを完成させるのです。
功徳行為は完成できませんが、善行為は完成できるのだから。
(続きます)