「触」によって、「受」が起こる
触れたら、次に感じます。これを因果法則で「触によって、受が起こる」と言っています。
「受」とは感覚のことです。眼で感じ、耳で感じ、鼻で感じ、舌で感じ、身体で感じます。わかりやすいですね。感じることをパーリ語で〝vedanā〞と言います。
触れたら、次に感じます。これを因果法則で「触によって、受が起こる」と言っています。
「受」とは感覚のことです。眼で感じ、耳で感じ、鼻で感じ、舌で感じ、身体で感じます。わかりやすいですね。感じることをパーリ語で〝vedanā〞と言います。
最後は「捨(ウペッカー)」です。
ウペッカーとは、どんな人に出会っても、どんな困難な状況に陥っても、理解し、落ち着いていられる平静なこころのことです。
どんな生命も、「幸せになりたい、安心して楽しく暮らしたい」と願っています。「不幸になりたい、苦しみたい、嫌われたい」と望んでいる生命はいません。
その観点から見れば、生命はみな同じです。
平等なのです。
このことが理解できれば、たとえ苦手な人(生命)がいたとしても、
「この人も自分と同じように幸せを望んでいる」と考えて、落ち着いていることができるでしょう。
嫌悪感はもう生まれません。
この、「みなを平等に観て、落ち着いているこころ」がウペッカーなのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
幸せをつくる15の善習慣「捨(upekkhā:ウペッカー)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
身体に触れるもの(phassa)「自由への突破口①-2」からの続き
・意に法が触れる
五感で知るものは決まっています。色声香味触だけです。
でも、私たちに触れるものはそれだけでしょうか?
過去のことを思い出したり、将来のことを考えたり、怒りや嫉妬、憎しみを感じたり、そういうものは何でしょうか?
習慣は、ある意味、危険なものでもあります。
よい習慣ならいいのですが、悪い習慣の場合には、さまざまな問題を引き起こします。
というのも、人は楽なほうへ楽なほうへ流されやすいのだから――。
ほうっておけば悪い習慣に支配され、苦しみが増大するでしょう。
それで人生は閉ざされてしまうのです。
仏教は人々に、善い習慣を身につけるよう教えています。それによって生き方が調和し、人生がひらけてくるのです。
本章でお話するのは、ブッダが教えた「善い習慣」です。ブッダは善い習慣について具体的に説かれました。
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そこで、この善い習慣を新しく身につけるためには、こつこつ取り組んでいくことがカギになります。
悪いクセが心にしみついている方は、もしかすると身につけるのに時間がかかるかもしれません。
しかし、これは苦労してでも育てる価値があるものです。
人生を幸せにし、悩み苦しみをなくしたければ、善い習慣を身につけることは欠かせないことなのです。
それでは、これから「15の善い習慣」とはどのようなものか、ひとつずつ学んでいきましょう。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
第1章 幸せをつくる15の善習慣「善い習慣が善い性格をつくる」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
自由 vs.執着「自由への突破口①-1」からの続き
・Phassa(触)
Phassa(パッサ)は「触れる」という意味です。
「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根に、「色・声・香・味・触・法」が触れます。
前の説明では「意」と「法」が抜けて、五つの感覚器官と対象でした。
これから六つの感覚器官とその対象について説明しましょう。