渇愛によって執着が生まれる「自由への突破口①-6」からの続き
自分への執着
次のテーマは、「自分に執着する」ことです。
命とは、五蘊のことです。皆様は五蘊(pañcakkhandha)という言葉を聞いたことがありますね。
五蘊とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊という五つのシステムのことです。
私たちが「私」とか「自分」と言っているものを、仏教用語では「五蘊」と言っています。
色蘊は肉体、受蘊は感覚、想蘊は概念、行蘊は「生きていきたい」とか「やりたい」などという衝動、識蘊は認識です。
渇愛によって執着が生まれる「自由への突破口①-6」からの続き
次のテーマは、「自分に執着する」ことです。
命とは、五蘊のことです。皆様は五蘊(pañcakkhandha)という言葉を聞いたことがありますね。
五蘊とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊という五つのシステムのことです。
私たちが「私」とか「自分」と言っているものを、仏教用語では「五蘊」と言っています。
色蘊は肉体、受蘊は感覚、想蘊は概念、行蘊は「生きていきたい」とか「やりたい」などという衝動、識蘊は認識です。
「スワチョー(suvaco)」とは何でしょうか?
適切な人にたいして心をひらき、指導やアドバイスを求めることができること、
また人の話をよく聴き、アドバイスされやすく、教わりやすい性格でいることです。
みなさんは、自分はすでに完璧で、他人からの指導やアドバイスは必要ないと思っていませんか? そのように考えていませんか?
それは、よいメンタリティではありません。
とはいえ、誰からでも指導を受ければいいというものでもありません。
受ける人に気をつけることも大切です。
愚かな人からではなく、善い人から指導を受けることが大切なのです。このことを知っておくとよいでしょう。
ブッダは、こうおっしゃっています。
適切な人に助言やアドバイスを求めるなら、多くのことが学べます。あなたが何か間違ったことをしたときには、それを指摘し、教えてくれるでしょう、と。
これは、人が成長するうえで欠かせないことです。
なぜなら人は誰でも不完全なのだから――。ダメなところや弱いところ、短所、欠点などがいろいろあり、それを直していくことこそ、人がすべきことなのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 :4. 助言を求め、よく聴くこと(suvaco)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
仏教的ビッグバン「自由への突破口①-5」からの続き
渇愛が生じると、執着( upādāna )が生じます。
これです。これが束縛なんです。もう逃げられません。渇愛から、執着が生まれます。これが今回のテーマとなるところです。
渇愛を分析すると、三種類になります。
一番目は、物が欲しいという渇き。「眼耳鼻舌身意」に触れる「色声香味触法」を欲しがることです。この渇きは消えません。
どんな習慣であれ、善い習慣を身につけるためには、チャレンジが欠かせません。努力が必要なのです。
でも、感情がどうしても先立ってしまい、感情に負けてしまうことが多々あります。
たとえば、「怒ることはよくない、誰にたいしても慈しみで接したほうがいい」ということは、みなさんよくご存じだと思います。
でも、実際に何かイヤなことがあったとき、腹が立ち、怒りをそのまま言葉や行動に表わしていませんか?
嫉妬することはよくないことだと知っていますが、実際に嫉妬がわき起こったとき、嫉妬にとらわれ、嫉妬から脱け出せなくなることがありませんか?
そこなのです。
そこで、私たちがすべきことは、苦しみをもたらす感情から離れるようチャレンジすることです。
瞑想しているときだけでなく、職場にいるときでも、家庭にいるときでも、どこにいるときでも、日常生活のなかで感情が生じたとき、それにすぐに気づき、観察して、とらわれないようにするのです。
心を清らかにするためには、精進(viriya)が欠かせません。
もし精進せず、実践もしなければ、いくら仏教を学んでも、学問としての知識に留まるだけでしょう。
学んだことを実生活に活かすことはできません。
知識を得るだけで実践しなければ、現実の生き方が改善することはなく、向上することもありません。
机上の学問は、現実の人生ではないのですから――。
したがって、日々、慈悲を実践し、育てる努力をすることは、欠かせないことなのです。
では、「慈悲喜捨」とはどのようなものかを簡単にご説明しましょう。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 1. 能力がある(sakko)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)