2018/10/26

智慧と善行為⑥

2018年10月26日更新、2012年6月24日作成


意志の汚れ


意志は、重要な働きです。どんな行為も意志から生まれています。問題は、私たちの意志が汚れているということです。




人に会うときには、きれいな服を着てかっこよく見せたいでしょうし、ごはんを食べるときは、よりおいしいものが食べたいでしょう。欲しいものを買う場合は、できるだけ値段が安いものがいいですから店員さんに値切ったりもするでしょう。

私たちには常に意志が働いていますが、その意志は貪・瞋・痴で汚れています。「貪」は欲、「瞋」は怒り、「痴」は無知です。

意志が汚れていますから、私たちの行為はほとんど悪行為になります。貪・瞋・痴で生きているかぎり、行為はすべて悪行為になるのです。


 貪・瞋・痴のブレーキ



皆さまも経験があると思いますが、善い行為をしようとすると、心にちょっとブレーキがかかるということが起こります。あのブレーキはなんでしょうか? 


たとえば、「お年寄りの方が電車に乗ってくると若者はタヌキ寝入りしますよ」と若者に悪口を言う人がいます。私はそう思っていません。

日本の若者はそんなに悪くないんです。では、なぜタヌキ寝入りするのでしょうか? 

どこかでブレーキがかかるのです。「どうぞ座ってください」と言えないのです。ポイントはそこです。あれが貪・瞋・痴です。

他の人が見ていますし、もし「結構です」と断られたら恥ずかしくて立場がないですし、あるいは譲っても座らないでしょうとか、自分も疲れているからこのまま座っていてもいいんじゃないかとか、いろいろ理屈をつくって席を譲らないだけです。

お年寄りなんか知ったことじゃないよ、とそんな気持ちはありませんし、別に悪い人ではないのです。

でも善行為はしません。それは貪・瞋・痴がブレーキをかけているからなのです。

そこで、東日本大震災のような大災害が起こると、もうブレーキがかけられない状態になって、みんな一斉にワーッと善いことをし始めるのです。ブレーキはもう機能しません。

普段はすぐにブレーキをかけます。何か善い行為をしようとすると、恥ずかしくてどこかでためらってしまうということがあるのです。このためらう気持ちが貪・瞋・痴です。

そこで、「善行為をするたびに、自分の貪・瞋・痴を戒めている」ということをおぼえておいてください。

善行為をすることで、自我がなくなって恥ずかしさも消えて、花が咲いたように明るくなります。

お年寄りの方が電車に乗って来たら、「どうぞどうぞ座ってください」とサッと席を譲ることもできます。

声をかけたところで相手の方に「次の駅で降りますから」と断られたら、「そのあいだだけでもどうぞ」と、すごく明るく言ったり、あるいは「私は立ちたくてたまらなかったんです」などと言うと、お年寄りの方も「若いのに、いい方ですね」と楽しくなります。

お互い、すごくやさしい世界が生まれます。それで電車に乗っていた五分間は最高に幸福な五分間になるのです。

そういうわけで、貪瞋痴を戒めなくてはなりません。そのために善行為をする。

善行為をすると、智慧が現れてくるのです。(続きます)


根本仏教講義「智慧と善行為⑥」
スマナサーラ長老法話

2018/10/23

智慧と善行為⑤

2018年10月23日更新、2012年6月24日作成

善悪の行為は意志で決まる



生きるとは、行為をすることです。
行為は、どんな行為であれ、意志(心)がないと起こりません。

「食べたい」という意志がなければ、食べる行為はありません。

呼吸をするときも、ずっと意志が生まれ続けています。息を吐き終わった瞬間に息を吸っていますが、そこにも意志が働いています。すべての行為は意志でおこなっているのです。






生きるとは、行為をすることです。
そして行為はすべて、意志から生まれます。「立ちたい」という意志がなければ立ちませんし、「話したい」という意志がなければ話しませんし、「歩きたい」という意志がなければ歩きません。

それから、意識的にわかる意志もありますし、わからない意志もあります。呼吸の場合は明確で、意識して呼吸をすることもできますし、意識しなくても呼吸はしています。

意識する・しないかにかかわらず、意志はいつでも働いているのです。

心臓も同じです。意志が働かないと、心臓は動きません。
でも私たちがいちいち意識して「はい膨らみましょう」「次は縮みましょう」などと考えていると生きていられませんから、そこはオートモードになっています。意識的にわからないだけで、本当は意志が管理しているのです。

たとえば、何か怖いことが起こると心臓はどうなるでしょうか? 

ドクンドクンとするでしょう。意志が管理しているからです。

すべての細胞の動きは、意志がやっています。また、その行為は心と身体に影響を与えます。

心と身体に善い影響を与えたいと思うならば、当然、善い意志で善い行為をしなくてはいけないのです。

しかし、生命はもともと心が汚れていますから、自然に悪い意志を起こして、悪い結果をだす行為を簡単にしています。


一般的に、「善行為に善果・悪行為に悪果」と言われていますが、お釈迦様は、「善い意志でおこなう行為には善い結果。悪い意志でおこなう行為には悪い結果」がおっしゃっています。

行為そのものよりも、「意志」に注意したほうがよいのです。

たとえば、義捐金として、ホームレスの人が1000円寄付し、大企業の社長が10,000,000万円を寄付したとしましょう。どちらの善行為が、より価値の高いものになるのでしょうか?

この判断は、「善行為をしたい」という意志によって決めなくてはいけないのです。

ホームレスの人の1000円は、もしかするとその人の全財産かもしれません。ごはんも食べられなくなるかもしれません。ですから、寄附行為をするときは、強い意志が必要だと言えるのです。

大企業の社長の場合は、全財産ではないのです。家計が苦しくなることも、飛行機に乗るお金がなくなることもないでしょう。ですから、それほど強い意志が必要ありません。

金額は1000円かもしれませんが、「全財産」をあげたホームレスの人のほうが善行為の価値が高くなるのです。

行為の結果は表面的なかたちではなく、内面的な意志によって決められるのです。

したがって、派手な行為が善い行為というわけではありません。どのくらい財産を持っているか、どのくらい派手なことをしたか、そのようなもので徳の大きさが決まるのではありません。自分の意志で決まるのです。
 (続きます)


 根本仏教講義「智慧と善行為⑤」

2018/10/20

功徳と善に完成はあるか?「善悪とは?③-1」


功徳と善に完成はあるか?


「功徳(puñña)」にも完成はありません。

いわゆる人を助けたり、ボランティアをしたり、お布施をしたりなど功徳行為しても、完成することはできません。

自分が精一杯やっても、もっとできるからです。

たとえば困っている人を助けるとしましょう。何人助けられますか?

限りがあるのです。ですから功徳行為は完成することができません。