人はだれでも、心が貪・瞋・痴でいっぱいですから、間違いをすることは当たり前です。
しかし、「自分は正しい」と錯覚し、傲慢や自我意識が強く、主張が強い人は、他人を正そうとしたり、世直しをしようとしたりします。
結局、自分が大きな苦しみを抱えるはめになるのです。
一方、「生命には貪・瞋・痴がある」「貪・瞋・痴があるから生命だ」と知っている人には、何の問題も起きません。
その人にとって、世の中の悪は問題になりません。
なぜなら、人はみな貪・瞋・痴で生きていて、自分もまた貪・瞋・痴で生きているということを知っているからです。それで、傲慢が消えるのです。
世直しをしようとすることは、ある魚が他の魚の泳ぎ方を非難するようなものです。
魚は種類によってそれぞれ泳ぎ方が違いますね。
たとえば、サメがキンギョに向かって、「おまえの泳ぎ方は間違っている」とか、「君は泳ぎ方が下手だ。そんな泳ぎ方ではダメだ」などと非難するのは愚かなことでしょう。ばかばからしい話です。
「自分は悪行為をしない」と決める
そこで、世直しをしようとするのではなく、こう考えてください。
「世の中の人は悪行為をする。だからこそ、私は悪行為をしない」と。
ブッダの戒めに従って生きるのです。
たとえば、妻が間違っている…、夫が間違っている…、親が間違っている…、子どもが間違っている…、会社の人が間違っている…、友だちが間違っている…、世の中の人はみんな間違っている…、と考えて、「いい加減にしろ」と怒る人がいるとしましょう。
その人は、自分が世直しをしたいのです。
奥さんは旦那さんを直したいんです。でも、いくら言っても聞いてくれませんから、腹が立ちます。
親は子どもの間違いを直したいけれど、子どもはまったく聞いてくれません。
上司は部下を直したいのですが、いっこうに聞いてくれません。
では、どうしますか?
怒って自分が自己破壊するのでしょうか?
ばかばからしいのです。
他の人は性格がだらしなくてもかまいません。
それを直す必要はありません。
直せるなら直しますが、直せないでしょう。
それで、あなたに戒めがあるのです。
「他の人は悪行為をする。だからこそ、私は悪行為をしない」
これは「サッレーカ・スッタ」(削減経)のポイントです。
経典には、
他人は殺生するが、我々は殺生しないように戒めましょう。
他人は与えられていないものを盗るが、我々は与えられていないものを盗らないように戒めましょう。
他人は嘘をつくが、我々は嘘をつかないように戒めましょう。
他人は陰口を言うが、我々は陰口を言わないように戒めましょう……
などとあります。
これで、すべてが解決するのです。
他人は不正をしたり、足を引っ張ったり、落とし穴をつくったり、嫉妬したり、悪口を言ったり、騙したり、盗んだり、非難したり……、きりがありません。
だからこそ、私はそういうことをしませんと決めるのです。
旦那さんが奥さんの言うことをなかなか聞かないなら、奥さんは、「いいですよ、私はしっかりした人間になります」と決めれば、それでその問題は解決するのです。
ここでお釈迦様は「世の中の悪」を、自己完成のために使うことを見事に教えています。
お釈迦様ご自身は使っていませんが、私たちにそのやり方を教えているのです。
「他人は悪行為をする。だから、君は悪行為をしないでください」と。
そう言われると、やる気が出てきます。俗っぽくいえば、悪行為をする人を見て、「あなたみたいな人にはなりません」と決めることです。
そう考える場合、相手を直そうとしていませんね。その人の悪い性格が、自分を直すための助けになっているのです。
(続きます)