四聖諦――四つの聖なる真理 ① からの続き
しかし、人はたいてい「私」という思考に執着しているため、無我を観察したがりません。これが苦しみをもたらすのです。
四聖諦――四つの聖なる真理 ① からの続き
しかし、人はたいてい「私」という思考に執着しているため、無我を観察したがりません。これが苦しみをもたらすのです。
さて、私は長年ブッダの教えを説いてきましたが、私も私なりにいろいろ苦労を重ねてきました。現在、私の僧院ワット・パー・ポンの別院が四〇ほどありますが、今日になっても、瞑想を学びに来る人のなかには教えるのがむずかしい人がいます。
瞑想法を知っていても瞑想しない人もいれば、瞑想法を知らないだけでなく、見いだそうともしない人もいます。このような人にたいして、私はどうすればよいのかわかりません。
どうして人はこうなのでしょうか? 無知でいることはよいことではありません。そのように話しても、いっこうに耳を傾けません。これ以上、私に何ができるでしょうか。
話を聞くときのチェック項目Ⅰ 論理的?「ブッダの聞き上手入門 ②-1」からの続き
どの程度、信頼できるかをチェックします。
特にネットの場合はいい加減に発言するんです。証拠を出さなければいけないという義務は誰にもありません。ありもしないストーリーを作って発表するんです。
それで、読む人はネットにある情報はすべて正しいと思っているんです。
ネットでは、人の役に立つ大事な情報を掲載するサイトもあれば、ただ無駄話だけでフェイクニュースばかり流すサイトもあります。
区別するのは私たちの仕事です。
無駄話の原因は感情「ブッダの聞き上手入門 ①-4」からの続き
これから仏教的な話になります。少々むずかしくなるかもしれません。
ダラダラ話していて、話が止まらない人がいるとしましょう。こちらが時計を見るしぐさを見せても、いっこうに話をやめようとしません。そういう信号を送ると、やめてほしいという意味でしょ。それはわからないんです。その人に話をやめてもらうことは大変なことです。
そこで、仏教徒として相手の話を聞くときには以下のことをチェックしてください。
自分が話すときにはチェックする「ブッダの聞き上手入門 ①-3」からの続き
無駄話の原因は、感情です。
何かを喋りたくて仕方がないでしょう?
感情の柱を3つに分けると、貪瞋痴です。
特に痴(無知)に支配されています。
無知に支配された思考と妄想に、言葉をのせて喋っているのです。

どんな生命も、「食(栄養・エネルギー)」によって支えられ、維持され、管理されて生きています。
「食」を摂り入れなければ生きていられません。
この「食」を、ブッダは4つの要素に分類して教えられました。一般的に「食」や「食べる」といえば、私たちはパンやご飯など物質としての食べ物しか思い浮かばないでしょう。
しかしブッダは、「生命は、物質的な食べ物以外に3つの要素を摂り入れて4つの食で生きている」と説かれました。
4つの「食」とは、
1.段食(kabaliṇkārāhāra)
2.触食(phassāhāra)
3.意思食(manosañcetanāhāra)
4.識食(viññāṇāhāra)
です。
これら4つの食のうち、身体を維持している食が1つ、心の食が3つになります。
4分の3を、心の食が占めているのです。ここで、心がいかに生命の維持に大きく関わっているか、ということがわかりますね。
では、ひとつずつ見ていきましょう。
第2章「避けるべき食」と「摂るべき食」より
聞く自由と言論の自由「ブッダの聞き上手入門 ①-1」からの続き
誰かが話さないと何を聴く
まず、話すという現象について考えてみましょう。
「話し方」についてではなく、「話す」ということについてです。
なぜ、人は話すことが好きなのでしょうか?
世の中には「聞く自由」がありません。
小さい頃から、周りが言うことは必ず聞かなくてはいけないことになっているのです。
大人になっても、周りの話を聞く義務があります。
「聞くか聞かないかはわたしの自由だ」という立場は成り立ちません。