2018/11/16

よい瞑想と悪い瞑想 ②






A:回 答 ―― グナラタナ長老


よい瞑想と悪い瞑想①の続き

怒りを観察する

「怒りを観察する」グナラタナ長老(著)出村佳子(訳)


たとえば怒りが湧き起こった瞬間、気づきを使って、

「怒り、怒り」とか、「これは怒りだ。怒りは心のやすらぎを壊す」とか、「いま、心臓の鼓動が速くなっている」などと、心や身体で起きていることを、あるがままに観察してください。

怒りが生じるとすぐに、脳は、

「心臓の鼓動を早めろ!」
「血圧を上げろ!」

といった指令を身体に送ります。感情は、身体に影響を与えるのです。観察すれば、このことがわかるでしょう。

感情を観察してください。
観察を続けていると、怒りや恐れ、不安、欲がゆっくり消えていくのがわかるでしょう。

もしかすると、すぐには消えず、少し時間がかかるかもしれません。

でも、たえず観察することによって、感情は消えていくのです。


心に生じる諸々の現象を、マインドフルに観察し続けることは、私たちがすべき最も大事なことのひとつです。
ならば、どうしてそれらが悪いものだと言えるでしょうか?

また、あなたは「よい瞑想」と言っていますが、それはどういう意味でしょうか? 

「よい瞑想」とはなんでしょうか?

おそらく心が静かになって、それほど忙しくない状態になっているのかもしれません。

でももしかすると、いわゆる「よい瞑想」をしていると、気持ちがよくなって、だんだん眠くなるかもしれません。

そして「ああ、瞑想がうまくできている……。瞑想がよくできている……」と誤解するかもしれないのです。

でも、それはよい瞑想ではありません! 
それこそ、悪い瞑想なのです(笑)。

眠気を感じたら、その眠気を観察してください。
精進して、なんとか目を覚ますようにし、眠気を取り除くために何かをするのです。

たとえば、深呼吸を3回して、体中の血液に酸素を送るのもよいでしょう。

あるいは姿勢を変えて立つ瞑想をし、眠気を追い払うこともできます。

また、眠くなっているときでも、その眠気に気づき、眠気を観察するなら、それは観察しているのだから、悪い瞑想になりません。

このような理由から、瞑想には「よい瞑想」も「悪い瞑想」もないのです。

これは、あなたが瞬間瞬間、湧き起こる感情をどのように扱うか、ということによります。

感情が生じた瞬間、それに気づくなら、どんな状況も「よい瞑想」になるのです。


暴走する馬車を止めるように、
湧き起こる怒りを制する者、
私はその人を「御者」と呼ぶ。
他の人は、ただ手綱を持つだけである。
(ダンマパダ222

***

Yo ve uppatitam kodham,
Ratham bhantam va dhqraye;
Tam aham sarathm brumi,
Rasmiggaho itaro jano.
(Dhammapada 222)

2018/11/15

希望と欲望③-1


欲と怒りはセット


私たちの心には「檻に入ったトラ(欲)」が住みついています。檻に入っているから大丈夫、危害はない、と思うかもしれませんが、だからといってトラがネコのようなかわいいペットかというと、とんでもありません。

ただ檻に入っているから危害がない、それだけのことです。

檻の扉を開けた瞬間、たとえ毎日エサをあげて面倒をみていたとしても、トラは飼い主に襲いかかってきます。真っ先に誰を殺すかというと、ほかならぬ飼い主なのです。


同様に、異常な欲が生まれたら、真っ先に攻撃され、殺されるのは、欲をだした自分です。ひどいときは周りの人も巻き込んでしまうでしょう。


ですから、異常な欲望は大変危険なものなのです。



欲望のもうひとつの顔



欲望とは言いにくいのですが、強い願望といえる感情がもうひとつあります。


パーリ語で vyāpāda と言い、意味は「異常な怒り」です。これも異常な欲(abhijjhā)と同じで十悪に含まれ、とても罪が重いものです。


Vyāpāda とは、他人に害を与えたくなる気持ち、いわゆる暴力をふるいたいとか、他人を害したい、傷つけたいという気持ちのことです。

それも、異常なほど。異常に他人を壊したくなるのです。

社会にはときどき、突然怒りが爆発して自分と何の関わりもない人を殴るとか殺すとか、そういう異常な怒りを持つ人がいます。

こういう人たちは精神的な病気で、ノーマルレベルを越えています。

怒りを制御することができないため、何でもいいから壊したい、誰でもいいから殺してやりたいと心が絶えずイライラし、ある日突然、常識では考えられないような凶行に走るのです。



欲が強い人ほど、怒りやすい



なぜ異常な怒り(vyāpāda)のことを説明したかといいますと、欲と怒りはセットだからです。

性質は正反対ですが、二つはセットになっています。ですから、欲が強ければ強いほど、人は怒りやすい

たとえば、ある男性が女性のことをものすごく好きになったとしましょう。それで告白したところ、もしふられたら、頭がおかしくなってその女性を殺してしまうかもしれません。

本当に好きなら相手を尊重して大事にすればいいのに、なぜ殺すのかというと、あまりにも欲望と愛着が強く、でも自分の思いどおりにならなかったため、怒りが爆発するのです。



欲と怒りは表裏一体です。欲の裏側には、怒りが潜んでいます。


ですから欲が強ければ強いほど、裏で怒りが繁殖しているのです。


朝から晩まで金儲けのことばかり考えている人がいるとしましょう。

周りの人たちは「この人はお金にしか目がないみたいだけど、まぁそれほど害はないでしょう」と、安心することはできません。何をするかわからないのです。

もしその人にお金が入らなくなったら、突然、怒るでしょう。怒って、自分や周りを破壊するのです。

日本の社会でも、エリート中のエリートが不正を働き、それが見つかって自殺する、ということがときどきあります。

自殺は怒りです。不正行為をしたら、潔く、申し訳ないと謝罪して罰を受けたほうがいいのに、こういう病的な人たちは憤慨して自殺するのです。

飼っていたトラが檻から出た瞬間、真っ先に飼い主を襲うように、常識レベルを超えた欲と怒りは、真っ先に自分を殺すのです。

そういうわけで「異常な欲」が出てきたら、気をつけてください。心の裏側では人を殺すほどの恐ろしい「異常な怒り」が繁殖しているということなのだから。

(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望③』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子

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2018/11/13

希望と欲望②-2


糸が切れた凧


「余計な欲(abhijjhāは「普通の欲」とは異なります。

「普通の欲」とは、もう少し収入があったら家族を楽にしてあげられるとか、もう少し環境のいいところに住めるとか、たまにおいしいものが食べられる、という程度の欲です。


これは小さな欲ですから、すべて崩壊するところまではいかないでしょう。

でも、リミットを越えた瞬間、糸が切れた凧のように、どこまでも、あてもなく、飛んでゆくのです。

 
私たちの心には、ものすごい煩悩がたまっています。欲と怒りと無知(貪・瞋・痴)で、かぎりなく汚染されているのです。



希望と欲望



私たちは、歩く原子爆弾のように大変危険なものです。


日常生活のなかでは爆発しないよう、なんとか抑えて生活していますが、少しでもネジがゆるむと、爆弾が爆発したように、貪・瞋・痴が爆発し、自分や周りを壊し、大きな苦しみをもたらすのです。

 
貪・瞋・痴は、どこまででも成長します。原子爆弾のように、連鎖反応でどんどんどんどん成長するのです。


たとえば、夏休みにどこかへ旅行するとしましょう。
旅行したら、「ああ、よかった。楽しかった。もう充分だ」と満足するのではなく、「次はもっと楽しいところへ行きたい」と思うのです。

それで次の年「楽しいところ」へ行ったら、またその次の年には「さらに楽しいところ」へ行きたくなります。

 
おいしいものが食べたい、という欲が出たら、おいしいものを探して食べ、それを食べてもまた、おいしいものを食べたい、と欲が出ます。

それを食べても満足しませんから、さらにもっとおいしいものを探します。

このように、欲は連鎖して、どんどんどんどん膨らんでいきます。

ですから、欲は危険なものです。しっかり管理することが大切なのです。

(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望②-2』
スマナサーラ長老法話

文責:出村佳子


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