2010/02/21

刺激の奴隷(刺激論3)


なぜ、私たちは「刺激の網」に囚われてしまうのでしょうか?

まずは、この言葉を覚えておいてください。スバニミッタ(subha-nimitta)。

スバ(subha)は「良い、幸福な、好き」という意味です。

ニミッタ(nimitta)は「対象」という意味で、見えるものや聞こえるものなど、感覚の対象(色声香味触法)のことです。

これら2つの語を合わせて、スバニミッタは「好きな対象」という意味になります。


魚を釣るとき、釣竿の糸の針先にミミズなどの餌を付けて、それを水のなかに入れます。

そうすると魚が寄って来て、ミミズをパクリと食べるのです。

しかし食べたらもう終わり。魚には自由がありません。人間に釣られて、殺されて、食べられるのです。生きていられません。

だったら、魚は針先に付いているミミズなんか食べなければいいでしょう。

ちょっと頭を使えば、ミミズが「私を食べて!」といわんばかりに都合よく自分の目の前で泳いでいるはずがない、と分かるだろうに。

でも、魚にはそんなことは考えられません。

目の前にミミズがいると、本能的に食い付くのです。


人間の場合も、何もしていないのに好物の食べ物が、いきなり目の前に現れるということはありません。

たいていの人は何か仕事をして給料を貰い、それで食べ物を買わなければならないのです。

それも、すぐには食べられません。食材を切ったり、煮たり、焼いたり、味付けをして、いろいろ手を加えなければならないのです。

そこで想像してみてください。もし一人暮らしの男性が、会社から帰宅したところで、テーブルの上に豪華な料理が並んでいると、どうでしょうか?「あーよかった、なんて私は恵まれているんだろう」と言って食べるでしょうか?

普通の人なら、これは危険だ、何かおかしい、とすぐに警戒するでしょう。


食わずにいられない目の前の餌


目の前にぶら下がっている餌を食べるのは大変危険です。

しかし魚は目の前にミミズが泳いでいると、食わずにいられないのです。

「餌を見たら、すぐに飛びついて食う」というのが魚の習性です。

これは魚だけでなく、すべての生命に備わっているものです。

どんな生命にも自分にとってのスバニミッタ、つまり「好きな対象」があります。

たとえば、魚にニンジンをあげてみてください。絶対に食べないでしょう。

あるいはきれいだからといって、バラの花をたくさんあげてみてください。何時間たっても食べません。

しかしミミズをあげると、さっと寄って来て食べるのです。


人間の場合、ミミズを見て「おいしそう」とは思いませんが、サンマを見ると「おいしそう、食べたい」と思うのです。

猫にニンジンをあげても食べませんが、魚、それも少し焼いてあげると喜んで食べます。

では、その魚をウサギにあげてみてください。見向きもしないでしょう。

ウサギにはニンジンやキャベツをあげなくてはならないのです。このように、生命にはそれぞれ「好きな対象」、言い換えれば「釣られやすい対象」があるのです。


日本人は西洋文化に釣られている傾向があるように思います。

西洋文化はすばらしいと思い込み、西洋人の真似をすればするほど現代的で進歩していると考えているのではないでしょうか。

たとえばバッグを買うとき、日本製のものは買わずに、西洋のブランド品をわざわざ買うのです。

日本には非常に質の良いバッグがありますし、特別注文をして自分の好きなデザインで作ってもらうこともできます。腕のいい職人さんも結構います。

なのに、日本製のものは買いたがりません。買うとしても値段が安くないと買わないのです。

でも西洋のブランド品なら5万円でも10万円でも平気で出します。

なぜでしょうか? それは「ブランド品を持っていれば自分が優雅で格好よく見える」と思っているからです。

こういう人たちは、いくら周りの人が止めても、お金があれば買ってしまいます。

完全に釣られているのです。


ケーキに釣られる子供


では、この10万円のバッグを子供にあげてみてください。どうでしょうか?

全然相手にしないでしょう。子供はブランド品には釣られません。

子供には子供なりに、どうにも我慢できない、目がないものがあるのです。

以前、あるお母さんが急に用事ができて、子供を叔母さんの家にあずけなくてはならなくなりました。

でも子供は嫌がって、なかなか行きたがりません。

そのとき叔母さんが一言「家にすごくおいしいケーキがあって、帰ってから食べようと思っているんだよ」と言ったとたん、子供はいきなり「じゃあ行く!」と言うのです。

今まで、絶対行かないと踏ん張っていたのに、ケーキがあると言ったとたん、コロッと態度を変えるのです。

メロンが好きな子なら「家にメロンがあるよ」と言えば喜んでついて行くでしょう。

このように、いとも簡単に自分の好物に釣られるのです。ケーキが好きな子はケーキに、メロンが好きな子はメロンに釣られます。

食べ物よりゲームやおもちゃに目がない子もいます。

「何に釣られるか」ということは、時代や年齢、性別、性格などによって異なります。たとえば20歳の人が釣られる餌と、80歳の人が釣られる餌は違うのです。

孫がおばあちゃんを楽しませてあげようと思ってディスコに連れて行っても、おばあちゃんにとっては大変な迷惑。それより、温泉にでも連れて行って、のんびりさせてあげたほうが喜ぶでしょう。


あなたは何に釣られやすいのか?


このように私たちにはどうにもならない「餌」があります。

仏教では、人間には全部で色声香味触法の6種類の餌があると説いています。

私たちはこれらの餌に引っ掛からないよう、注意しなければなりません。

そのためには「自分はどんな餌に釣られやすいのか」「何に引っ掛かりやすいのか」「何に弱いのか」ということを、はっきり知っておくことが大切です。

でも、自分の弱みを他人に知られたら大変です。うまく奴隷にされてしまいますから。

たとえば、ある人が失業してお金にすごく困っているとしましょう。そこへ誰かが親しげに近づいてきて、目の前で札束をちらつかせます。どうなるでしょうか?

心の弱い人なら簡単に奴隷になるでしょう。最悪の場合、お金をくれるなら盗みでも人殺しでもする、というところまで操られてしまうのです。

このように私たちには「弱い対象」があって、それに引っ掛かっています。

いつでも目の前にぶら下がっている餌に釣られて、奴隷になっているのです。

でも「自分が奴隷になっている」ということは、そのときは分かりませんし気づくこともできません。

たとえば、オートバイに夢中になっている若者は、学校をサボってまでオートバイで遊びに行こうとします。

親や先生たちにいくら注意されても全然耳を傾けません。

あるいは、オートバイが欲しいのに親が買ってくれなければ、殴ったり蹴ったり、暴力を振るいます。

ひどいときには親の財布からお金を盗んだり、家の通帳を盗むこともあるでしょう。

この若者にはオートバイ以外のことは見えません。

また、自分がオートバイの奴隷になっていることにも気づかないのです。


大人も同じです。美食家は食べ物の奴隷になっていますし、酒が好きな人は酒の奴隷になっています。

お金が好きな人はお金や仕事の奴隷になっています。

でも自分が「釣られている」ということにはまったく気づいていないのです。


なぜ気づかないのか?


恐ろしいことに、私たちは死ぬまで好きな対象、つまり「餌」に釣られて生きています。

スバニミッタは、率直に言うと「餌」という意味です。

餌と言うと、皆さんは食べ物のことしか頭に浮かばないかもしれませんが、仏教では、見えるものや聞こえるものなど、眼耳鼻舌身意に入るすべてのものを食べ物として考えています。

色声香味触法が、生命の食べ物なのです。

そこで、なぜ私たちは死ぬまで餌に釣られるのでしょうか?

なぜ刺激の網に引っ掛かっていることに気づかないのでしょうか?

それは「釣られる餌」がしょっちゅう変わっているからです。

若いときはオートバイが好きでも、死ぬまで好きかどうかは分かりません。

子供のときはおもちゃに釣られていても、中高生になるとゲームや携帯電話に夢中になるかもしれません。

他にも、音楽や映画、おしゃれ、旅行、グルメ、仕事など、釣られる餌は時間や年齢とともに次々変わるのです。

そのため「自分が餌に引っ掛かっている」ということには気づかないのです。

でも、過去のことなら分かるでしょう。「むかし若いときは馬鹿なことをやっていたなあ」と、40歳や50歳になったときに気づくのです。

そこでその人に「今はどうですか?」と訊いてみると、「今は大丈夫、何も問題ありません」と応えるのですが、それは嘘。今も、他のものに釣られているのです。

ただそれに気づいていないだけで、後になってから分かるのです。

これが生命の愚かさであり弱みなのです。

(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
文責:出村佳子

『刺激論』目次


刺激論:スマナサーラ長老法話




2010/01/21

生ごみより臭い妄想(刺激論2)


宝物か、生ごみか?


六つの感覚器官のなかで最も強烈な刺激の網は「意」です。

私たちは自分の考えや思考、意見に多大な価値を入れ、固くしがみついています。

「私の考えはこうだ」「これが私の見解だ」「私の意見は正しい」「あなたの意見は間違っている」などと。

でも結論を申しますと、自分の考えというものは単なる臭い生ごみで、何の役にも立たないものなのです。

思考も、意見も、見解も、概念も、知識も、どうということはありません。

しかし私たちは、これらを生ごみだと思うどころか、逆に、宝物のように大事に抱え込んでいます。

そしてそこから争いや対立など、あらゆる苦しみが生じているのです。


たとえばお姑さんが「うちの嫁はだらしなくて性格が悪い」と思っているとしましょう。

しかしそれはお姑さんの妄想であって、事実ではありません。

旦那さんは「良い妻だ」と思っているかもしれませんし、子供たちは「いいお母さん」と思っているかもしれません。

「嫁の性格が悪い」というのは、お姑さんの主観であり勝手な妄想なのです。

そしてその妄想が、嫁姑の関係をぎくしゃくさせ、家庭全体の明るい雰囲気を壊しているのです。


宗教間でも対立が絶えません。

同じ宗教のなかでも派閥争いがあり、互いに厳しく睨み合っています。

なぜでしょうか? 

それぞれが「自分の教えこそが正しい、他の教えは間違っている」と自分の教えを固く信奉しているからです。

そのため自分と異なる信仰をもつ人と話しをすると、意見の食い違いから、争いや対立が起こるのです。

たとえばプロテスタントの信者さんが、カトリックの神父さんに「プロテスタントの教えこそが正しい」と言ったなら、即座に追い出されるでしょう。「何を言うのか、あれは悪魔の教えだ」と。

普段は一般の人々に向かって「他人を憎んではいけません、喧嘩してはいけません」と教えている神父さんでも、実際には、自分の信仰や見解、概念の網に捕らえられて、苦しんでいるのです。


そこでこの苦しみを解決するためには「自分の考えは生ごみである」ということを理解して、自分の思考に対する執着を捨てることです。

そうすることで、対立や争いのない、平和で安穏な世界が現れるのです。


刺激論:スマナサーラ長老法話



なぜ、お化けが出るのか?


刺激の世界のことを仏教専門用語では、カーマチャンダ(kâmachanda)と言います。

カーマ(kâma)は「欲」という意味ですが、「欲の対象」という意味もあります。

具体的に言いますと、眼に触れる色や形、耳に触れる音、鼻に触れる香り、舌に触れる味、体に触れる感触、頭のなかで回転する概念のことで、色声香味触法のことです。

チャンダ(chanda)は「好む、気にいる」という意味です。
そこでカーマチャンダとは「色声香味触法が好きで気に入っている」という意味になります。

私たちは色声香味触法が好きで、常に何らかの刺激を追い求めています。

音楽を聴いたり、テレビを見たり、本を読んだり、ご飯を食べたり、仕事をしたり、運動したり。

そこでこれらの感覚の対象がなくなると、すごく寂しくなるのです。

たとえば、見えるものがいっぱいあるときは楽しいのですが、それが少なくなると寂しくなり、何も見えなくなると恐怖を感じるのです。

真っ暗闇は怖くありませんか? お化けはなぜ夜に出るのでしょう? なぜ昼に出てこないのでしょうか?

あれは暗闇から出てくる人間の恐怖感なのです

夜は暗い、暗いところでは何も見えない、見えないから怖い、だからお化けが出る、と思っているのです。

でも本当はお化けが怖いのではなく、眼から刺激が得られなくなったから怖くなったのです。

感覚の対象がなくなると、私たちはものすごく恐怖を覚えるのです。



恐怖の正体


これまで何人もの人に「わたしは恐怖感が強いのですが、どうすれば治りますか」という質問を受けました。

上司が怖い、姑が怖い、学校に行くのが怖い、職場が怖い、あれも怖い、これも怖い、どうすればいいのでしょうかと。

そこで私はまず「なぜ怖いのですか、何が怖いのですか」と聞き返して、本人にその問題を考えさせるようにします。

これで治る場合もありますが、だいたいは、「なぜ怖いのか」分からない人がほとんどです。


なぜ怖いのか、その答えを出しましょう。

この法話の始めにもお話しましたが、刺激を受けるということは、生きるということです。

とすると、刺激がないということは何を意味するでしょうか?

生きられないということです。

生きられないということはどういうことですか?

死ぬということです。

答えはこれです。私たちは死ぬのが怖いのです。

暗闇が怖いといっても、その根底にあるのは、死ぬのが怖いという恐怖感です。

お化けが怖いといっても、お化けに殺された人は一人もいません。

熊や人間に殺された人は大勢いますが、お化けに殺された人は一人もいないのです。

しかし私たちは熊や人間より、お化けが怖いと言うのです。これはまったくの屁理屈です。


本当のところ、私たちは刺激がないこと、つまり死ぬのが怖いのです。

楽しく賑やかにパーティーをしているところにお化けが出るとは誰も言わないでしょう。

でも暗闇の殺風景な墓場にはお化けが出ると言うのです。

刺激がなくなると、私たちは急に寂しくなって怖くなり、お化けが出ると妄想するのです。

しかし実際には、眼耳鼻舌身から刺激が得られなくなったから怖くなったのであり、さらにその根本原因は「死ぬのが怖い」という死の恐怖なのです。

心の一番底に沈んでいるのは「死にたくない」という恐怖です。

これには解決法がありません。

どんなに踏ん張っても、人は必ず死にますから。

他の宗教では「死んでも大丈夫、永遠の天国があるから」と言っていますが、仏教は「生命は必ず死にます」と真実を告げます。

嘘やごまかしは言いません。「みんな死にます」とはっきり言うのです。

そして「死ぬのが怖いなら、闇雲に脅えているのではなく、死んでも大丈夫という生き方をしたらどうですか」と、正しい生き方を教えているのです。

将来のことを妄想して脅えるのではなく「いつ死んでも大丈夫」という生き方をしてはいかがでしょうかと。


死の恐怖を乗り越える


そこで、生きるのが怖いとか、自信がないと悩んでいる人は、「自分は本当は死を怖れている」ということを理解してほしいのです。

人間は誰でも死にます。

私たちは今ほんのちょっとの間、生きているにすぎません。

生きれば生きるほど体が衰えますし、瞬間瞬間、死に近づいているのです。

どんなに良い家族に恵まれていても、仕事で成功して万事うまくいっていても、それはせいぜい80年か90年ぐらいのこと。遅かれ早かれ、必ず死ぬのです。

この事実を正しく観察することによって、私たちは恐怖や不安などの精神的な病気から解放されるのです。

でも私たちは、死の観察はやりませんし、やりたがりません。

死は不幸の象徴であり、不吉なものだと考えています。

誰かが死んだとき「○○さんが死んだ」とは言わないでしょう。「他界しました」とか「天国に行きました」と言うのです。

私たちは「死」という言葉さえ、口に出そうとしないのです。

でも死の恐怖を乗り越えたければ、死を観察するしか方法がありません。


そこで私たちは色声香味触法が好きで、瞬間瞬間何らかの刺激を求めています。「生きる」ということは「刺激を受ける」ということなのです。

ご飯を食べることも、服を着ることも、趣味や娯楽を楽しむことも、芸術や文化、哲学や宗教をつくることも、すべては人間が刺激を得るためにやっていることなのです。

しかし、どんなに刺激を得ても、私たちの心は満足しません。

いつでも「何か足りない、もっと欲しい」という思いが心に残るのです。

何かを得てもそれには満足できませんから、別の刺激を求めます。

それにも満足できませんから、また別の刺激を求めます。

このようにして私たちは限りなく刺激を求め続けるのです。

これが「カーマチャンダ」という病気で、すべての生命は、この網に引っ掛かって苦しんでいるのです。


そこで、超越した智慧の次元に足を踏み入れたい人は、カーマチャンダの網を破らなければなりません。

この網を破ったとき初めて、完全なる自由の世界が現れてくるのです。

(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
文責:出村佳子

『刺激論』目次