2018/11/11

希望と欲望②-1


3種類の「欲」の続き

欲をバネにして人格を向上させることはできません。欲に基づいて行動すると、最終的にはかならず失敗するのです。

そこで、幸福な生き方を目指す人は、欲は有害な毒であると見て、欲から離れることが大切です。

とくに底なしの異常な欲望(abhijjhā)に関しては、修行や瞑想を始める前から離れておかなくてはなりません。


欲があると、「いまあるもの」も失う



ジャータカ物語をひとつ、ご紹介いたしましょう。

ある人が王様のもとを訪れ、このように言いました。

「あなたはすばらしい王様で、強い軍隊をたくさん持っているのに、なぜこのような小さな国を治めることで満足しているのですか? 
希望が小さいのはよいことではありません。
となりの国に侵攻して、自分の国を拡げてはどうですか」

それを聞いた王様の心に、巨大な欲(mahicchatā)が生まれました。

「よし、わかった。となりの国を攻めて、私の国にしよう!」

そう言って、すぐに軍隊を集め、戦いに出ようとしたのです。


ところで、王様には、知識のある優れた大臣たちがそばにいました。

そのなかで、もっとも智慧のある偉い大臣が、
「戦争はやめたほうがいい。落ち着いて平和でいたほうがいい」と、戦争にまったく賛成しないのです。

しかし、王様はこの大臣の言葉にはまったく耳を傾けませんでした。

智慧のある大臣は、王様のことが心配になりました。
そこで戦争には反対でしたが、あまりにも心配ですから、軍隊といっしょに出かけることにしたのです。


ちょうどその頃、インドは雨季に入り、毎日、雨が降り続いていました。

しかし王様は軍隊に、「前に進みなさい。たとえ雨が降っても引き返してはならない」と命じました。

ある日のこと、森で野宿しているとき、馬のエサとして、栄養のある豆を小分けにし、あちこちに置いておいたところ、それを見ていたサルが、「おいしそうな食べものだ」とばかりに、木から降りてきました。そして、手で豆をひとつかみ握ったのです。

でも、まだ豆はたくさんあります。
それで、反対の手でもう一つかみ握りました。

見ると、豆はまだたくさんあります。それで今度は口いっぱいに豆を頬張りました。

口と両手いっぱいに豆を持ち、木の上に登ろうとしました。

しかし、両手は使えませんから、足で登るしかありません。

どうにかこうにか木の上に登ったところ、手から豆が一粒、ポトンと地面に落ちました。

サルは「キャー」と鳴き、あわててその一粒の豆を拾うために木から降りたのです。

鳴いた瞬間、口から豆が全部落ち、さらに両手の豆も全部落ちてしまったのです。

たった一粒の豆のために、サルはすべての豆を失ったのです。

その様子を見ていた王様が、
「あー、バカなサルだ。一粒ずつ手で取って食べればいいのに。欲深いなぁ。欲が深いから、全部なくしてしまったんだ」と言いました。

それを聞いた智慧のある大臣は、
「欲深いのはサルだけではありませんよ。あのサルと同じことをやっている人がこちらにもいるのではないでしょうか」と言いました。

王様が「なんのことか」と言うと、大臣は、

「これまで王様は自分の国を治めることだけで充分満足していました。なのにいまは隣国に侵攻して、自分のものにしようとしています。それもこの雨季の時期に。ゾウや馬は風邪をひいて熱をだし、となりの国に着くころには身体が弱っているでしょう。軍隊も雨で衰弱し、疲れ切っていますから、戦う力はありません。私たちは簡単に相手軍に殺されるでしょう。ですからいま王様がやろうとしていることは、あのサルがやっていることよりもひどいことではないでしょうか」

王様はようやく目が覚めました。
「わかりました。国へ帰りましょう」
そう言って、引き返したのです。

この話は「欲をだしたら、いま持っているものも失う」という話です。


欲は崩壊のもと



これは社会を見るといくらでも例があります。
日本でも、ある偉い方が、わずかなお金に欲をだしたために、地位も権力も失って逮捕された、というニュースをときどき聞くことがあります。

毎月高い給料をもらい、そのうえ国や会社から住宅や車などを安く貸してもらい、外国に行くときには旅費や滞在費が全部おりますから、お金のかかるものはほとんどありません。奥さんの服代や子供の養育費ぐらいです。

なのに、もう少し裏でお金をもらおうではないかと欲をだし、不正行為をしたため、逮捕され、結局は職も、地位も、立場もすべて失うはめになるのです。

ですから、理解してください。
欲はネガティブで、暗い思考です。英語で言えば、productiveではなくdestructiveです。
いわゆる有効的・効果的ではなく、破壊的ということです。

会社は、経営者が欲をだせば、倒産しますし、家庭は、家族の誰かが欲をだせば、崩壊するでしょう。

国は、国の権力者が欲をだせば、すぐに崩壊するのです。

1990年、イラクが隣国のクウェートを奪おうと欲をだし、たった1日でクウェート全土を支配下に収めたということがありました。

それでどうなったかというと、米英軍によってハイテク兵器がイラクに投入され、その劣化ウラン弾の影響で、いま多くのイラクの子供たちが、ガンや白血病、奇形の病気にかかって大量に死んでいるのです。

また、経済制裁のために食料が不足していますから、栄養失調や飢餓でも苦しみ死んでいます。

これからどのくらいこの国の人々が死んでいくかわかりません。

これは、当時のイラクの大統領が自分の国だけでは満足せず、「となりの国を奪って自分のものにしよう」と、とんでもない欲をだしたことによります。

その結果、国民を苦しみの泥沼に落とし入れたのです。
        

(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望②-1』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子



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③欲は破壊のもと



2018/11/09

希望と欲望①-2

〈2018年11月9日更新、2008年4月26日作成〉

3種類の「欲」


・余計な欲(Abhijjhā:アビッジャー)


Abhijjhā は、簡単にいうと「余計な欲」という意味です。

なぜ欲の上に「余計」という言葉を付けるのかというと、一般的にどんな人にも欲はありますが、そのような日常生活のなかで生まれるごく普通の欲は、「余計な欲」と言いません。

でも、限度を超えてきりがなく欲が出てくると、それは「余計な欲」となるのです。


「普通の欲」の場合は、修行しない限りコントロールすることがむずかしいのですが、「余計な欲」の場合は、修行や瞑想をする前から、あるいは仏教を学ぶ前から、抑えておかなければならないものです。


十悪は、仏教徒であろうかなかろうか、人なら誰でも避けなければならないものであり、犯したら必ず罪になります。

これは普遍的な法則ですから、宗教や信仰には関係がありません。仏教徒も、キリスト教徒も、イスラム教徒も、無宗教の人も、どんな人も、十悪の行為をしたら罪になるのです。


たとえば他人の物を盗んだ場合、仏教徒は罪になりますが仏教徒以外の人は罪にならない、ということはありません。

どんな人でも盗みをしたら罪になるのです。

動物も同じで、盗むと、罪になるのです。



https://sukhi-hotu.blogspot.com/p/blog-page_38.html




・巨大な欲(Mahicchatāマヒッチャター)


Abhijjhā のほかに、欲望を表す言葉として「mahicchatā」があります。これは mahā と icchatā の二つの語からなっています。Mahā は大きい、 icchatā は希望という意味です。

希望といっても、ここでは悪い意味で使っていますから「欲望」となります。

この二つの語を合わせて mahicchatā は「大きな欲」「巨大な欲」という意味になります。



・悪い欲(Papicchatā:パーピッチャター)



これは pāpa と icchatā からなり、pāpa は罪や悪。 icchatā は欲しがること、という意味。ですから、「罪・悪」と「欲しがる」ことで「罪になる欲」「悪い欲」という意味です。 



埋められない欲



いま「abhijjhā」「mahicchatā」「pāpicchatā」の3種類の欲を説明しましたが、なぜこれらは悪いもので、罪になるのでしょうか? これから考えてみましょう。  


世の中には、人が成長し成功するためには、ある程度の欲望が必要、という考え方があります。


事業で成功したい、お金を儲けたい、地位や名誉、権力が欲しいなど、そういう欲望をバネにして、それに向かって邁進することによって人は成長できると考えているのです。


これは正しい考え方でしょうか?


仏教から見ると、「あれも欲しい、これも欲しい……」ということばかり考えている人の心のなかは、大きな穴がぽっかりあいています。いわゆる空っぽ。悪い意味での空っぽです。精神的に満たされていないのです。


さらに悪いことに abhijjhā と mahicchatā には、欲の穴に底がありません。底なしの穴なのです。


ですから、モノをいくら入れても穴は埋まりません。埋められないのです。


欲望には、そのような特色があります。いくらあっても足りない、満足しない、これが欲望なのです


お金持ちでも心は貧乏


欲の深い人は、明るい性格ではありません。思考も暗いし、性格も暗いです。皆さんは日常生活のなかでいろんな人とおつきあいしているでしょうから、本当かないか、ご自分で調べてみるといいでしょう。


欲深い人の顔や生き方を見てください。機会があれば、そういう人の家を訪ねてみてください。ものすごく暗い影があることが見えると思います。


四六時中、儲けたいとか、出世したいとか、誰かに勝ちたいとか、強くなりたいとか、美しくなりたいとか、おいしいごちそうを食べたいとか、常に心が「~が欲しい」「~したい」という感情でいっぱいになっていますから、心には落ち着きや明るさがないのです。

このような欲の深い人たちが何をするのかというと、破壊行為です。

たとえば、お金にたいして貪欲な人は、とにかくどんな方法を使ってでもお金を得ようとします。手段は選びませんし、相手の気持ちも考えようとしません。

相手のことはどうでもいいから自分がなんとしてでも儲けたい、と考えます。

社会の秩序や道徳、平和といったことはまったく考えません。

自分にお金が入ればいい、自分や自分の会社さえ儲かればいい、としか考えないのです。そうするとどうなるでしょうか? 


当然、社会の調和やバランスが崩れてしまうのです。


それから、その人はお金をいっぱい儲けたからといって、明るく活動するかというと、それもしようとしません。

なぜかというと、いつも「足りない、足りない」という気持ちでいますから、いくらあっても「足りない」と感じるのです。それでさらにため込もう、儲けようとするのです。

ですから、貪欲な人が社会にひとりでもいるということは、社会全体の調和を崩し、迷惑になります。

そういうわけで、欲望は罪になるのです。

                     (続きます)
              
 根本仏教講義『希望と欲望①-2』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子