3つの感覚「自由への突破口②-3」からの続き
感覚(楽・苦・不苦不楽)にたいする例外もある
在家のヴィサーカ居士が次にこう質問しました。
「すべての感覚を戒めるべきですか?」
ダンマディンナー長老尼は答えます。
「いえ、例外があります。苦の感覚、楽の感覚、不苦不楽の感覚の場合、欲、怒り、無知をなくすべきです。しかし、サマーディから生まれる楽の感覚は例外です」
3つの感覚「自由への突破口②-3」からの続き
在家のヴィサーカ居士が次にこう質問しました。
「すべての感覚を戒めるべきですか?」
ダンマディンナー長老尼は答えます。
「いえ、例外があります。苦の感覚、楽の感覚、不苦不楽の感覚の場合、欲、怒り、無知をなくすべきです。しかし、サマーディから生まれる楽の感覚は例外です」
まず、ナンディウィサーラ神が語った「身体にある4つの車輪」とは何でしょうか?
それは、私たちが身体でおこなうあらゆる姿勢のことです。
姿勢には4つあります。
「歩く・立つ・座る・横になること(行・住・坐・臥)」の4つです。
『四念処経(Satipaṭṭhāna Sutta:サティパッターナ・スッタ)』をご存じでしょうか?
身体で感じる感覚は3種類あります。楽(sukha vedanā)と、苦(dukkhā vedanā)と、不苦不楽(adukkhamasukha vedanā)です。
感じるものが3つのカテゴリーに入ります。人生は楽しいことだけではありません。データを明確に分けると、3つの感覚があるのです。
身体があるかぎり、老いや病は私たちにいつでもつきまとい、苦しみをもたらします。
どんな人も、1日1日歳をとり、「老い」ていきます。
また、かぜをひいたり、熱が出たり、あちこち痛んだりなど「病気」になることもあります。ケガをすることもあります。
最終的に、身体は壊れます。心臓が止まり、呼吸が止まり、機能がすべて停止します。これが、「死」というものです。
老いて、病気になり、死を避けることは、だれにもできません。これら「老・病・死」はどこから生じるのでしょうか?
では、この身体とどのようにつきあっていけばよいのでしょうか? 身体がもたらす苦しみから逃れることはできるのでしょうか?
ご紹介する経典は『ナンディウィサーラ経(Nandivisāla Sutta)』です。身体の苦しみを解き放つ方法について説かれた経典です。
みなさんのなかには、「自分の身体からどうやって逃れることができるのか、できるはずがない」と思っている方もいらっしゃるでしょう。
たとえば思考であれば、考え方をかえることによって、ある種の思考から逃れたり、離れたりすることはできるかもしれません。
でも、身体からどうやって逃れることができるでしょうか? 身体から離れることもできませんし、別の身体に取りかえることもできません。
ちょっとやっかいですね。
死ぬまで、生まれたときに構成された身体とつきあっていかなければならないのです。
しかし、ブッダは「身体の苦しみから逃れることができる」とおっしゃいました。
その方法は、結局のところ、心(精神)に関連しており、完全に苦しみを滅するためには、涅槃(Nibbāna)に達するしかありませんが、ブッダはこの『ナンディウィサーラ経』において「身体(輪廻における個々の “生” で構成される身体)の苦しみから脱出する方法」を説かれたのです。
『身体の苦しみの手放しかた:ナンディウィサーラ経』
「はじめに:〈老い・病気・死〉をもたらすもの」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
次に、別の経典を紹介します。
これは阿羅漢に覚っていたダンマディンナー比丘尼と、在家の男性信者ヴィサーカ居士との対話です。ヴィサーカ居士も、預流果か一来果くらいに覚っていました。
ヴィサーカ居士がダンマディンナー比丘尼に質問しました。
「五蘊が執着ですか? 執着は五蘊と別のものですか?」
「どこへ行こうと、何をしようと、柔和であるように」
とブッダはおっしゃいました。
柔和であるためには、心に柔軟性がなければなりません。相手のことを知り、理解することが大切です。
相手はどのような見方や考えを持っていますか?
たとえ意見や立場が違っても、相手のことを尊重し、理解していれば、人間関係はスムーズに運びます。
反対に、家族や友人など親しい人のあいだでも、もし相手の意見や立場を尊重せず、自分のわがままを押しとおし、適切な接し方を知らなければ、トラブルが起こるでしょう。
自分が間違っていたり、意見や考えを変える必要があることを知りながらも、それを変えずにいることは、柔軟性に欠けています。その結果、家族や友人から疎まれてしまうのです。
ブッダは私たちに、柔和で柔軟になるようすすめています。
柔和な人は穏やかで、精神的に安定しています。
それで、相手やまわりの状況、環境の変化にたいして効果的に対応することができるのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 5. 心の柔和さ(mudu)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
渇愛によって執着が生まれる「自由への突破口①-6」からの続き
次のテーマは、「自分に執着する」ことです。
命とは、五蘊のことです。皆様は五蘊(pañcakkhandha)という言葉を聞いたことがありますね。
五蘊とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊という五つのシステムのことです。
私たちが「私」とか「自分」と言っているものを、仏教用語では「五蘊」と言っています。
色蘊は肉体、受蘊は感覚、想蘊は概念、行蘊は「生きていきたい」とか「やりたい」などという衝動、識蘊は認識です。
「スワチョー(suvaco)」とは何でしょうか?
適切な人にたいして心をひらき、指導やアドバイスを求めることができること、
また人の話をよく聴き、アドバイスされやすく、教わりやすい性格でいることです。
みなさんは、自分はすでに完璧で、他人からの指導やアドバイスは必要ないと思っていませんか? そのように考えていませんか?
それは、よいメンタリティではありません。
とはいえ、誰からでも指導を受ければいいというものでもありません。
受ける人に気をつけることも大切です。
愚かな人からではなく、善い人から指導を受けることが大切なのです。このことを知っておくとよいでしょう。
ブッダは、こうおっしゃっています。
適切な人に助言やアドバイスを求めるなら、多くのことが学べます。あなたが何か間違ったことをしたときには、それを指摘し、教えてくれるでしょう、と。
これは、人が成長するうえで欠かせないことです。
なぜなら人は誰でも不完全なのだから――。ダメなところや弱いところ、短所、欠点などがいろいろあり、それを直していくことこそ、人がすべきことなのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 :4. 助言を求め、よく聴くこと(suvaco)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
仏教的ビッグバン「自由への突破口①-5」からの続き
渇愛が生じると、執着( upādāna )が生じます。
これです。これが束縛なんです。もう逃げられません。渇愛から、執着が生まれます。これが今回のテーマとなるところです。
渇愛を分析すると、三種類になります。
一番目は、物が欲しいという渇き。「眼耳鼻舌身意」に触れる「色声香味触法」を欲しがることです。この渇きは消えません。