このように、ブッダでさえ非難されることがありました。
私たちも生きているかぎり、非難されることは普通のこととしてあるでしょう。
また、称賛されることも普通のこととしてあります。
時代に関係なく、人は非難にも称賛にもさらされるものなのです。
ですから、どんな場合でもそうしたものに振りまわされず、
落ち着いていられるよう、こころを育てることが大切なのです。
『こころの平穏 - ウペッカー〈upekkhā〉
偏見を超え、客観的に見る智慧』
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
このように、ブッダでさえ非難されることがありました。
私たちも生きているかぎり、非難されることは普通のこととしてあるでしょう。
また、称賛されることも普通のこととしてあります。
時代に関係なく、人は非難にも称賛にもさらされるものなのです。
ですから、どんな場合でもそうしたものに振りまわされず、
落ち着いていられるよう、こころを育てることが大切なのです。
『こころの平穏 - ウペッカー〈upekkhā〉
偏見を超え、客観的に見る智慧』
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
物質的な幸せであれ、精神的な幸せであれ、
世俗的な幸せであれ、出世間的な幸せであれ、
何かしら幸せを享受するためには、
心や感情、煩悩を管理することが欠かせません。
怒ったり、嫉妬したり、欲張ったりしない心、
そうした善い心や行為によって、
私たちはおのずと幸せへと導かれていくのです。
生命を殺すのではなく、殺さないことによって、
生命を傷つけるのではなく、傷つけないことによって、
怒るのではなく、怒らないことによって、
嫉妬するのではなく、他者の成功を喜ぶことによって、
物惜しみをするのではなく、施すことによって、
傲慢になるのではなく、謙虚になることによって、
問うべきことを問わないのではなく、問うべきことを問うことによって、
善い原因がつくられ、条件がそろったとき、おのずと善い結果が現れてくる、
とブッダは教えられました。
この因果法則としての〈業の法則〉を理解し、
執着のない善い心で、日々淡々と善い行為をおこない、
さらに心を清らかにしようと精進するなら、
やがて一切の苦しみを乗り越える智慧が現れるでしょう。
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
どんな生命も、「栄養(食)」によって支えられ、維持されて生きています。
「食」を摂り入れなければ生きていられません。
この「食」を、ブッダは4つの要素に分類して教えられました。
一般的に「食」や「食べる」といえば、私たちはパンやご飯など物質としての食べ物しか思い浮かばないでしょう。
しかしブッダは、「生命は、物質的な食べ物以外に3つの要素を摂り入れて4つの食で生きている」と説かれました。
4つの「食」とは、
1.段食(kabaliṇkārāhāra)
2.触食(phassāhāra)
3.意思食(manosañcetanāhāra)
4.識食(viññāṇāhāra)
です。
これら4つの食のうち、身体を維持している食が1つ、心の食が3つになります。
4分の3を、心の食が占めているのです。
ここで、心がいかに生命の維持に大きく関わっているか、ということがわかりますね。
では、ひとつずつ見ていきましょう。
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
「怒りから心をまもる」より
2番目は、怒り(vyāpāda:ビャーパーダ)から心をまもることです。
怒ると、心はどうなるでしょうか? 苦しくなりませんか?
怒りは、他人を傷つけ、自分を傷つけ、周りの雰囲気を暗くする破壊的なエネルギーです。
ですから、ささいなことで怒らないよう、心をしっかりまもったほうがよいのです。
そこで、怒りが生じたときはいつでも、できるだけ早く、その怒りから離れるようにしてください。
怒りに気づいて、すぐに手放すのです。
もし、怒りがなかなかおさまらなければ、頭のなかで怒りを繁殖させないよう、自分にこう言い聞かせるとよいでしょう。
「怒りは自分の心を傷つけ、相手の心も傷つける。怒りは苦しみをもたらす。怒りを引き起こすようなことを、もう考えないようにしよう。これ以上、怒りを膨らませないようにしよう。怒りにエネルギーを与えないようにしよう。怒りから離れよう」と。
このように理性を使って考え、怒りから離れることが、2番目の善い思考(不瞋)です。
「怒りは苦しみをもたらす破壊的な感情であり、危険なものだ」ということを理解して、怒りをサッと手放すのです。
『セルフケア:ブッダが教えた〈心〉と〈言葉〉と〈身体〉のととのえ方』
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
「どこへ行こうと、何をしようと、柔和であるように」
とブッダはおっしゃいました。
柔和であるためには、心に柔軟性がなければなりません。相手のことを知り、理解することが大切です。
相手はどのような見方や考えを持っていますか?
たとえ意見や立場が違っても、相手のことを尊重し、理解していれば、人間関係はスムーズに運びます。
反対に、家族や友人など親しい人のあいだでも、もし相手の意見や立場を尊重せず、自分のわがままを押しとおし、適切な接し方を知らなければ、トラブルが起こるでしょう。
自分が間違っていて、自分の考えを変える必要があることを知りながらも、それを変えずにいることは、柔軟性に欠けています。結果として、家族や友人、周りの人から疎まれてしまうのです。
ブッダは私たちに、柔和で柔軟になるようすすめています。
柔和な人は穏やかで、精神的に安定しています。
それで、相手やまわりの状況、環境の変化にたいして効果的に対応することができるのです。
「ブッダが説いた〈15の善い習慣〉」
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
Sabbe Sattā Bhavantu Sukhitattā
「第2章 正思惟を育てるには?」より
「正思惟」を育てるためにはどうすればよいのでしょうか?
それは、まず自分の思考に気づくことです。
自分の思考がどんな状態なのか?
何を考えているのか?
どんな思考や感情が生まれているのかを観察してみましょう。
もしその中で悪い思考や感情があれば、それを手放していきます。
欲や怒り、害意がこころに生まれたら、すぐにそれに気づくようにしてください。
気づくことによって、そこから離れられるのです。
正思惟〈正しい思考:Sammā Saṅkappa〉
欲・怒り・害意の手放し方―八正道 ② より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
Sabbe Sattā Bhavantu Sukhitattā
第1章 苦しみから解放される道「八正道」より
生きることには苦しみや不満がつきものです。
苦しみにはまず、「生」「老」「病」「死」の4つの苦があります。
さらには
「愛する人と別れる苦しみ」
「嫌いな人に会う苦しみ」
「求めるものが得られない苦しみ」
「五蘊がある苦しみ」
があります。
よく観察してみれば、人生は苦しみや不満の連続だということがわかるでしょう。
生きているかぎり、この苦しみからは、逃げることも避けることもできません。
生きているあいだ、苦しみはずっとつきまとってきます。
苦しみを経験することなく生きることはできないのです。
では、こうした苦しみの原因は何でしょうか?
なぜ、苦しみが生じるのでしょうか?
それは、こころに渇愛があるからです
渇愛が、さまざまな苦しみや不満を引き起こすのです。

正見〈正しい見方:Sammā Diṭṭhi〉
ありのままに見る智慧―八正道 ①
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
Sabbe sattā bhavantu sukhitattā
「第2章 自己への慈しみを育てる5つのステップ」より
「愛」ということに関して、多くの方は他の人を愛そうとしますが、実際はなかなかうまくいきません。
愛するどころか、逆にストレスがたまったり、いらだったり、落ち込んだりしているようです。
なかには、「こんなに愛しているのに……」「こんなに尽くしているのに……」と疲れ果てて自分を傷つけてしまう人もいるほどです。
だからこそブッダは私たちに、
「他人を愛そうとする前に、まず自分を慈しんでください」
とおっしゃったのです。
では、「自分への慈しみ」を育てるには、どうすればよいのでしょうか?
5つのステップをご紹介いたしましょう。
『第3章 言葉と思考』より
Vitakka(ヴィタッカ)は「尋」と訳され、対象にこころを向ける/乗せる働きをします。
対象とのあいだに橋をかけ、こころと対象を結びつける働きをするのです。
Vicāra(ヴィチャーラ)は「伺」と訳され、ヴィタッカの後に続いて生じ、対象をつかまえている働きをします。
ヴィタッカでこころが対象に向けられた後、その対象について持続して思考する働きをするのです。
たとえるなら、飛んでいるミツバチが花にとまるのが「ヴィタッカ」、
その花に留まって蜜を吸ったり、花の周りを飛びまわったりするのが「ヴィチャーラ」です。
『正語〈正しい言葉:Sammā Vācā〉
~幸・不幸をつくる言葉の法則 ― 八正道➂』より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
『第3章 言葉と思考』より
「言葉」をつくるのは「思考」
話を先に進めましょう。
私たちが理解すべきことは、
「話す〈言葉〉は〈思考〉から生じている」
ということです。
どのような思考が働いているのでしょうか?
その働きは2つあります。
◎ vitakka(ヴィタッカ:尋)
◎ vicāra(ヴィチャーラ:伺)
です。
言葉の行為(語行:vacī saṅkhāra)とは何かということについて、
『中部経典』にはこのようにあります。
「言葉をつくるのは思考」
『正語〈正しい言葉:Sammā Vācā〉
~幸・不幸をつくる言葉の法則 ― 八正道➂』より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
親子で実践するマインドフルネス実践ガイド。
全世界100万部突破のベストセラー。(紹介文より)
拙訳書『親と子どものためのマインドフルネス』が新装版で刊行されました。
2013年に英語版 “Sitting Still Like a Frog ”が出版されて以来、世界中に広がり、
いまでは「全世界100万部突破のベストセラー」となっているようです。
日本語の初版は、2015年8月に出版されました。
新装版にあたり、早稲田大学文学学術院教授の越川房子先生より、ご推薦いただきました。ありがとうございます。
よろしければ、ぜひお手にとってご覧いただければ幸いです。
早稲田大学文学学術院教授 越川房子先生ご推薦
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ジョン・カバット-ジン博士(マサチューセッツ大学医学部名誉教授【まえがき】
出村佳子【訳】
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第6章 喜び(ムディター)の瞑想
では、どのように喜びを育てるのでしょうか?
経典には次のように説かれています。
第一の方角を、喜び(ムディター)のこころで満たします。
第二の方角を、喜び(ムディター)のこころで満たします。
第三の方角を、喜び(ムディター)のこころで満たします。
第四の方角を、喜び(ムディター)のこころで満たします。
このようにして、上の方角を、下の方角を、横の方角を、すべての方角を、一切処を、あまねく全世界を、広大で、大いなる、限りのない、怨みのない、怒りのない、喜び(ムディター)のこころで満たして住みます。
たとえば、力強いホラ貝吹きは、四方にその音を容易に響かせます。
そのように、修行者は四方に、あますことなく、喜び(ムディター)のこころを育て、広げるのです。
喜び(ムディター)を育てると、こころは嫉妬の束縛から解き放たれ、明るく清らかになっていきます。こころに大きなやすらぎが得られるでしょう。
『喜び〈Mudita〉 ー 他人の幸せを喜ぶ人は幸せになる:嫉妬の手放し方』より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
Sabbe sattā bhavantu sukhitattā
「⑬ 高ぶらない(appagabbho)」より
善い習慣の13番目は、appagabbho(アッパガッボー)です。
これは「高ぶらない」という意味です。
高ぶらないとは、どういうことでしょうか?
驕らないこと、見栄を張らないこです。
人はたいてい「この人はこういう人だ」「あの人はああいう人だ」などと、他人やものごとを一方的に判断して決めつける傾向があります。
傲慢で、自分の意見や見方を押しつけがちなのです。
ブッダは、「驕らず、批判的にならないように」とおっしゃいました。
なぜなら人は全体像を正しく見ることができないのですから――。
見えるのは、ほんの一側面だけなのです。
したがって、高ぶらないという善い習慣を身につけるようにしてください。
「ブッダが説いた〈15の善い習慣〉」
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
Sabbe Sattā Bhavantu Sukhitattā
「おわりに:ネガティブな思考からの解放」より
人は知らず知らずのうちにネガティブな思考パターンに囚われてしまうものです。
怒りや嫉妬、競争心、不安、恐怖、落ち込みといった思考や感情は、自分を苦しめるだけでなく、周りの人にも悪い影響を与えます。
そこで、「正しい思考(正思惟)」を実践していくことで、こうしたネガティブな思考に気づき、思考を管理できるようになるのです。
日々、思いやりや慈しみ、施し、理解、智慧に基づいた思考を選択し、実践することによって、思考が清らかになっていくでしょう。
その結果、より安穏で幸福な人生を送り、こころを悩ませている悩みや不満、苦しみは消えていくのです。
正思惟〈正しい思考:Sammā Saṅkappa〉
欲・怒り・害意の手放し方―八正道 ② より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
Sabbe Sattā Bhavantu Sukhitattā
他人の人生を基準にしない
嫉妬する人の多くは、「なぜ他人は幸せで、自分は不幸なのか」と考えがちです。
でも、人生は人それぞれで、同じ人生を送っている人はいません。みな異なります。これは美しいことでもあります。
もし、みながみな、それぞれの分野において同じレベルだったらどうでしょうか?
つまらないですし、社会は成り立ちませんね。
ですから、他人の人生を基準にして自分の人生を評価しないようにしてください。
比べたり判断したりするのをやめるのです。
なぜなら一見、成功しているように見えたとしても、その人がほんとうに成功しているのかどうか、ほんとうに幸せなのかどうかは、わからないからです。
若くして昇進しても、もしかすると責任が増えすぎてストレスを感じているかもしれません。
何かでトップになったとしても、プレッシャーにさいなまれ、悩んだり心配したりして夜眠れずにいるかもしれません。
他人のことはわからないものです。
そこで他人ではなく、自分自身に目を向けてください。
自分にできること、得意なこと、上手なこと、得ているもの、持っているものに目を向けるのです。
そして、それを活かしていくようにしてください。
他人と自分とを比べないとき、幸せを感じることができるでしょう。
『喜び〈Mudita〉 ー 他人の幸せを喜ぶ人は幸せになる:嫉妬の手放し方』より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
Sabbe sattā bhavantu sukhitattā
5 自分と他人を理解する
自分中心にものごとを見ない
まず、ものごとを自分中心にとらえないことです。
落ち着いて客観的に観察するようにしてください。
その力を養うことが大切です。
また、なんでもかんでも自分のこととして受けとるのをやめ、
必要なものだけを受けとるようにしてください。
世の中にはネガティブな情報や 役に立たない情報、
暴力的な情報もたくさんありますね。
あれもこれも自分のこころに引き入れて、
問題を増やさないよう気をつけてください。
『こころの平穏 - ウペッカー〈upekkhā〉
偏見を超え、客観的に見る智慧』
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
「⑨忙しくしすぎない(appakicco)」より
・頭のなかもシンプルに
また、何もしていないのに頭のなかであれこれ考えて忙しくしている人もいます。
すべきことにあまり身を入れず、人生をよりよいものにしようともしていないのに、ただ「あれをしなければ、これをしなければ」と考えて、頭のなかだけで忙しくしているのです。
日常生活であれ、頭のなかであれ、ブッダは「忙しすぎることは善行為をする妨げになる」とおっしゃいました。
もし、「善行為をするのに忙しい」と言うなら、それは悪いことではありません。
ただ、その場合でも、執着しないよう気をつけなければなりません。
執着することなく淡々と善行為をしていれば、そのときは忙しいというよりも、心に喜びや充実感を感じるでしょう。
「ブッダが説いた〈15の善い習慣〉」
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老【著】
Sabbe Sattā Bhavantu Sukhitattā
続けて、ブッダはこのように説かれました。
Rūpaṃ jīrati maccānaṃ,
nāmagottaṃ na jīrati;
肉体(色:rūpa)は老い、
名姓(名:nāma)は老いません。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
何が老いて、何が老いないのか?
私たちはみな肉体を持っています。
この肉体は、生まれたときから徐々に老いて、衰え、やがて滅びます。
生命は死すべきもの(mortal)であり、例外なく死ぬのです。
これが生命の本質です。
一方、生きているあいだ、道徳的で、善いおこないをし、
社会や世の中に多大な貢献をしているなら、その人の名と姓は死にません。
老いることも、滅びることもありません。
たとえばブッダがよい例ですね。
肉体は2550年以上も前に滅びましたが、名前とブッダが説かれた真理の教えは、現代になっても生き続けているのです。
このように、ブッダは「老いるもの」とは肉体であり、「老いないもの」とは名と姓である、と説かれました。
涅槃への道を妨げるもの『老いない経(ナジーラティ・スッタ)』より
人はみな、ひとりひとり違います。
ですから他人と比べても、意味がありません。
比べるのではなく、
自分の長所や得意なこと、
誰かの役に立てることを見つけて、
それを活かしていきましょう。
そうすれば、何かしら幸せを感じ、
慈しみが育っていくでしょう。
第6章 害をもたらす感情「五蓋」の対処法
五蓋のたとえ
⑤「疑」は砂漠で迷っているようなもの
疑(vicikicchā)とは、疑いや迷いのことです。
「疑」のある人は、砂漠で迷子になっている人のようなものです。
砂漠には目印がありません。自分の位置を示すコンパスがないと、どの方向に進めばよいかわかりませんから迷ってしまいます。
「疑」とはこのようなものです。「この道は本当に正しいのか……」「間違っているのではないか……」「あっちの道のほうが正しいのではないか……」などと心が揺れ動き、優柔不断になっている状態です。
これはちょうど砂漠で迷子になっているようなものなのです。
『こころの栄養―5つの蓋と7つの悟りの要素〈五蓋と七覚支〉
ありのままに見る智慧』より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)