2019/03/13

相対論(智慧ある人は愉しんで生きる②)


相対論

相対論を最初に発見したのは仏教です。相対論は、言い換えれば因果論のことです。では相対論とはどのようなものか、考えてみましょう。次の図1を見てください。

(図1)——


「この線は長いです」と言うと、皆さんどう思いますか?

「はいそうですね、この線は長いです」と何かわかったような気がするのではありませんか。それは「長い」というものが実体として有ると思っているからです。でも、ほんとうにこの線は「長い」のでしょうか。次の図2を見てください。

(図2)———————


実は図1を見ただけでは、図1の線が長いとは言えないのです。長いと言えるのは、図1と図2の二つの線を比べたときです。つまり長いという言葉は、二つ以上のものを比較したときに初めて成り立つ言葉であって、一つだけでは成り立たないのです。これが相対論です。


他のどんな言葉もこのようなものです。大きい・小さい、高い・低い、美しい・醜い、上手・下手など、すべてのものは相対的に成り立っています。しかし、私たちは相対的ということを知りませんから、何に対しても固定的、実体的に「有る」と錯覚し、わかったような気持ちでいるのです。


日常生活のなかで人と喋っているとき、ほんとうは互いに何も意味が通じていないのに、私たちは意味が通じていると思い込んでいます。たとえば二人の女性が喋っているとしましょう。どちらか一人が話しているとき、もう一人は聞いているはずですが、実は聞いていないのです。もちろん本人は聞いているつもりですし、相手の話しに合わせて頷いたりもします。しかし頭のなかは自分の妄想でいっぱいなのです。


たとえば一人が「太い」と言ったとしましょう。するともう一人は「私のことを太いだなんて失礼な人だ」と勝手に妄想して、腹を立てたりするのです。でも相手は「太い」と言っただけで、何が太いのかは言っていません。犬を見て「太い」と言ったのかもしれませんし、近くの木を見て「太い」と言ったのかもしれません。なのに聞いているほうは「太い」という言葉を実体としてとらえ、さらに自分勝手に妄想して、気分を悪くするのです。

『智慧ある人は愉しんで生きる』スマナサーラ長老 文責:出村佳子







それに対し、智慧のある人は、人が何を言おうとも、怒ったり舞い上がったり落ち込んだりしません。相手が言う言葉に意味があるかないかを客観的に判断して、意味がある場合はその意味を理解して終わります。上の例で「図1の線は図2の線より長い」と言えば、それで終わるでしょう。何も問題は生じないのです。


それから、意味が無い場合も悩みません。しかし普通の人は悩むのです。たとえば「あなたはAさんより太っている」と言われると、女性ならたいてい悩むでしょう。



でも智慧のある人はこう考えるのです。「Aさんと比べると太っているという結果になるが、Bさんと比べると痩せているという結果になる」などと。柔軟に考えて、愉しむことができるのです。ですから、すべてのものは相対的であると理解する人に、悩みはありません。(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
『智慧ある人は愉しんで生きる2 -1』文責:出村佳子







2019/03/11

正直に自分の幸せを願う

人生改良計画④-2

正直に自分の幸せを願う


仏教では、まず偽善を取り除くことから始めます。そのためには、「私が幸せでありますように」と自分の幸せを正直に願うことです。「私は幸せで、楽しく、清らかな気持ちで生きていきたい。悩んだり苦しんだりすることなく生きていきたい」と念じるのです。


その気持ちをもって、家族に接したり、仕事をしたりしてみると、すごく気楽にできるでしょう。たとえば子供にしつけをするとき、お母さん方はいきなり、「勉強しなさい、ゲームばかりして!」などと感情をぶつけがちです。その場合、子供は聞いてくれるでしょうか?


ほとんど聞いてくれません。そうではなく、自分の気持ちを正直に伝えればよいのです。
「ゲームばかりしていると、お母さんが心配になりますよ。そんな調子だったら、あなたのことをかわいいと思えないし、面倒をみるのも楽しくありません」

そう言うと、子供は耳を傾けようとするのです。それで性格も直っていくと思います。


前回の不登校の例の場合には、このように言うこともできるでしょう。「学校に行かないんですね。お母さんには別に関係ありませんよ。あなたが本当にそれでいいと思うなら、どうぞ好きなようにしてください。あなたが学校に行かなくても、お母さんの頭が悪くなるわけではありませんから」と。
子供の問題を、自分の問題にしないことです。


そうすると、子供は「やばい、勉強ができなくてバカをみるのは自分だ。やっぱり学校に行かなくちゃ」と考えるものです。自分で考えて理解したことなら、もう不登校になることはないでしょう。なぜなら、誰でも自分のことが一番大切で、好きで、かわいいのだから。(続きます)

スマナサーラ長老

根本仏教講義『人生改良計画④-2』文責:出村佳子








2019/03/09

悟りに至るための7つの要素


悟ることは不可能なこと? の続き


A:回 答 ―― グナラタナ長老



実践と経験が深まれば深まるほど、ブッダが説いた「七覚支」――悟りに至るための7つの要素――を育てるよう、精進するようになるでしょう。この7つの要素は、順番に育っていきます。ひとつの要素が育つと、次の要素が育つのです。


まず、気づき(sati:念)を育てることから始めます。

気づきが育つと、択法(dhamma-vicaya)が育ちます。
(択法:明晰に見ること、分析すること)

択法が育つと、精進(viriya)が育ちます。

精進が育つと、喜び(pīti:喜)が育ちます。

喜びが育つと、軽安(passaddhi)が育ちます。
(軽安:心身が軽やかで安らかになること)

軽安が育つと、心が統一(samādhi:します。

心が統一すると、平静(upekkhā:捨)が育つのです。


正直に決意して、真摯に実践しているとき、これらのことを、ほんのわずかかもしれませんが、垣間見ることができるでしょう。
実践が深まれば深まるほど、悟りへの理解も深まっていくのです。

ただ、私たちにとっていま大切なことは、実践(気づきの実践)を始めること、そして心を清らかにするよう、精進を続けることです。


 五蘊(色受想行識)の生と滅を、
 瞬間瞬間、智慧で洞察するとき、
 その人は喜悦を味わい、
 不死(涅槃)を見る
 ~ダンマパダ374

グナラタナ長老
仏教Q&A『悟ることは不可能なこと?』翻訳:出村佳子

2019/03/04

悟ることは不可能なこと?







A:回 答 ―― グナラタナ長老




悟りに達するための最もシンプルな方法があります。それは、欲と怒りと無知を取り除くことです。それだけです。それ以外、することはないのです!(笑)


グナラタナ長老著 出村佳子訳


悟ることが大変だと感じるのは、事実だと思います。しかし、このような疑念を抱くのは、無知があるからです。心の最も根底にある、無知から生じているのです。


私はいま、「無知」という言葉を使いましたが、どうか気分を悪くしないでください。どんな人にも無知はあります。無知が強い人もいれば、弱い人もいます。無知が強ければ、「悟りに達するのはむずかしい、無理だ」と思うでしょう。


しかし、無知を取り除くにつれ、だんだん「悟りは不可能なことではない」ということがわかってくるのです。心を育てるにつれ、悟りとはどのようなものかということがだんだん見えてくるでしょう。


そこで、いますぐに悟らなければならない、などと考えないようにしてください。焦らないように! 私たちがすべきことは、まず「心を清らかにしよう」と実践を始めること、そして、ひとつずつ段階的に進んでいくことです。


この道に、近道はありません。 精進して、欲と怒りと無知をひとつひとつ取り除き、このように実践していくのです。

2019/02/27

偽善者に幸福は来ない

2011-07-26 Tue 人生改良計画4 -1

「〇〇に尽くす」という偽善


私たちは、「自分が幸福になりたい」ということさえ、はっきり知りません。「私は自分を犠牲にして家族に尽くしている」と言う人もいますが、それは嘘だと思います。


もし、本当に家族のために尽くしているなら、なぜ文句を言ったりするのでしょうか? 旦那に尽くした、家族に尽くした、会社に尽くしたなら、それで十分でしょう。なのに、心のなかは不満だらけなのです。


ですから、「あなたに尽くしています」というのは嘘です。事実は、自分のこと、自分の幸福のことしか考えていないのです。


でも、「自分が幸福になりたい」と考えることは悪いという意味ではありません。悪いのは、その本音を隠して、「あなたのために尽くしています」と偽善ぶることです。


たとえば、自分の子供が引きこもりになって不登校になったとしましょう。親は子供のことをとても心配します。しかしそれは外見上のことで、本当は子供が学校に行かないと自分が不安で心配でたまらない、それがいやなのです。


ひどい母親は、「うちの子が不登校になった。学校に行かないでぶらぶらしている。近所の奥さんたちのうわさになるのではないか。恥ずかしい」と、自分の世間体やメンツを気にしま。それで感情的になって、子供に「なんで学校に行かないの!」と怒鳴ったり責めたりし、おまけに「私はあなたのために言っているのよ」と大嘘まで言うのです。






これは、子供のために言っているのではなく、正直なところ、母親は自分が大切で、自分のために子供に学校に行ってほしい、と考えているのです。


そこでポイントは、自分が大切だと思うなら、それを正直に認めることです。「子供が学校に行かないで引きこもっていると、自分が心配だ」「自分が恥ずかしい」ということを認めるのです。


しかし私たちは自分の本当の気持ちに気づかずに、子供にあれこれ命令します。偽善で、言っていることは無茶苦茶ですから、子供は母親の言うことを聞かないのです。


「自分が幸福になりたい」というのは事実であり、真理です。真理を無視して、どうやって正しい生き方ができるでしょうか? ですから「自分の幸せ」をしっかり念じることが大切なのです。(続きます)

スマナサーラ長老

根本仏教講義『人生改良計画④-1』文責:出村佳子




2019/02/24

【重版】『マインドフルネスの原点』


★当ブログにて少しずつ公開していきます。

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私たちの身体は不安定であり、絶えず変わり続けています。髪は変化し、爪は変化し、歯は変化し、皮膚は変化しています。あらゆるものが変化しています。心も、常に変化しています。したがって、心は……

アチャン・チャー法話集2巻 マインドフルネスの原点 出村佳子訳

2月にアチャン・チャー法話集 第二巻 『マインドフルネスの原点』が重版になり、第2刷になりました。読んでいただけて、よかったです。心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

2019/02/23

「慢」とは何か?

「慢」とのつきあい方①-1

第1章 「慢」とは何か?


今回のテーマは「慢とのつきあい方」です。「慢」は、なかなか消えない煩悩です。慢にはいくつかの種類がありますが、大きく分けると「慢」「卑下慢」「同等慢」の3つになります。パーリ語で「mana」(マーナ)と言います。日本語の意味は、「はかる」ことです。これには「測る、量る、計る」などいくつかの漢字が当てられます。



何を測るのか?



「慢」というのは、自分を測ることです。体重計に乗って身体の重さを量ることではありません。自分の存在を測ることです。

天秤というハカリがありますが、これは物の重さを比較して重さを測定するものです。竿(さお)の中点を支点にして両端に皿をつるし、一方に分銅を、他方に測定するモノを乗せて測ります。

自分の存在を測る場合には、天秤の一方の皿に分銅としての「自分」を乗せ、もう一方の皿には「他人」を乗せます。このとき、誰を乗せるのかは不確定です。たいてい人を乗せます。イヌやネコは乗せないでしょう。他人を乗せて、測るのです。

この自分と他人を測ることを「慢」といいます。自分のエゴや存在感を測ります。私とはいったい何者かと、自分の存在感を他人と比較して測るのです。これが「慢」です。



慢とのつきあい方 スマナサーラ長老 文責:出村佳子




誰と測るのか?


では、誰と測るのでしょうか?
 
「会う人」と測ります。私たちはいつでも「会う人」と「自分」とを測っているのです。だから大変です。きりがなく、終わりがありません。人と会うたびに、ハカリにのせて、「自分はこの程度」と測っているのです。



3つのカテゴリー


次に、測ったものを3つのカテゴリーに入れます。自分の存在を「重い・等しい・軽い」という3つのカテゴリーに測って決めるのです。ここではハカリの例で説明していますから、「重い・等しい・軽い」という言葉を使いますが、自分の存在を測る場合は物質的なハカリは使いませんから、この言葉も使いません。それに合う適切な言葉を使うのです。

たとえば「美しさ」を測る場合は、「自分よりも美しい・自分と同じ・自分よりたいしたことない」などの言葉を使います。

学会やシンポジウムで意見を発表したり討論したりするときには、他人を見て「あの人はどのくらい頭がいいのか」と頭の能力を測ります。このとき別に、ネクタイはどんなメーカーか、服はどんなブランドか、高価か、安いか、といったことは全然気にしません。その人の知識能力はどの程度か、頭がいいか悪いか、ということを測ります。この場合、「自分より頭がいい・自分と同じ・自分よりたいしたことない」の三つのカテゴリーで測るのです。



測る相手は不特定多数


このように、値(あたい)は、大きく分けると3つになります。この値も、けっして一定しているものではありません。
「自分」という一つの品物を一方の皿に乗せ、もう一方の皿には、その都度その都度「不確定多数の人」を乗せるのですから、そのたびに自分の値は変わっていきます。これにはきりがありません。

家族だったらメンバーは決まっていますから、「自分の価値はこの程度」とはっきりしています。「私の価値はこのくらい」とバーコードで貼っているため、測る必要はありません。それで誰でも家族のなかにいると落ち着くのです。

そこで、学校に行くと友だちがたくさんいますから、入学当初は測りっぱなしの状態になります。不安で、緊張します。でも、友だちの数には限りがあるため、一か月や数か月たつと、だいたい自分の値が出てきます。それで落ち着いて、学校が楽しくなるのです。

しかし、いつまでも学校のような狭い環境で生きていられるわけではありません。やがて卒業して社会に出なければなりませんし、社会には不特定多数の人がいるのです。

そういうわけで、私たちはずっと測って、測って、もうくたびれるのです。基準値はありませんし、一定していません。常に揺れています。測るたびに、自分の値が変わるのです。(続きます)



A. スマナサーラ長老 法話
Patipada(パティパダー)根本仏教講義
「慢」とは何か?(慢とのつき合い方①-1)



☆慢とのつき合い方


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2019/02/20

無駄な思考を瞬時に消す方法

2011-07-26 Tue 人生改良計画3 -2


そこで、無駄な思考をするという私たちの性格を直すために、お釈迦様は「慈悲の思考で生きてみなさい」とおっしゃいました。

慈悲の思考で頭が満たされると、無駄な妄想や屁理屈はすべて消えていきます。ですから、たとえ何か嫌なことがあっても、悩んだり落ち込んだりせず、努力して、強引にでも、慈悲の思考をつくってみてください。妄想するのではなく、いろいろ工夫をしながら、慈悲の思考を回転させるのです。

仏教が紹介しているのは、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という言葉です。この一行を繰り返し繰り返し心のなかで念じ、慈しみの気持ちで心をいっぱいにするのです。この一行を念じるだけで、頭のなかにある無駄な妄想がサーッと消えてなくなり、頭のなかがきれいになります。これは最もスピーディで効果的な方法です。これによって、今ここで、幸福をつくることができるのです。


『人生改良計画』スマナサーラ長老(文責:出村佳子)


「生きとし生けるものが幸せでありますように」というのは妄想ではありません。事実です。なぜなら、誰でも幸せになりたいのだから。

でも、それを忘れている人がいます。まれですが、幸せになりたくないという人が、たまにいるのです。

しかしその人の話をよく聞いてみると、会社が倒産したとか、大きな失敗をしたとか、夫婦間や親子間で重大なトラブルがあったとか、なにか心に大きな傷を負っています。

それでもそういう人たちに、「そんなに幸せが嫌なら、私は不幸でありますようにと真剣に念じてみてください。不幸になりますように、あらゆる苦しみに遭いますようにと、そういう気持ちで生きてみてください」と言うと、その人は「あれっ」と、自分の矛盾に気づくのです。

ときどきいます。自分は嫌いだとか、お金がなくても気にしませんとか、仕事をやりたくないとか、勉強したくない、と言う人たちが。

でも彼らに、「私が不幸になりますようにと念じて、堂々とそのように生きてみてください」と言うと、「あれっ、おかしい。不幸になるのは嫌だ!」ということに気づくのです。(続きます)
スマナサーラ長老

根本仏教講義『人生改良計画③-2』文責:出村佳子

2019/02/16

脳細胞を元気にする(人生改良計画③-1)

2011-07-26 Tue 人生改良計画3 -1

妄想は時間の無駄


役に立たない思考、実行できない思考、自分を悲しませる思考、落ち込ませる思考、混乱させる思考など、思考にはいくらでもあります。これらをまとめて、妄想といいます。データに支えられていないから妄想というのです。


たとえば「自分はダメな人間だ」と思っている人がいるとしましょう。なぜ「ダメだ」と考えるのでしょうか?
何かをやってそれがうまくいかなかった。それで、私はダメだと考えるからです。

でも、その「ダメ」というのはその人のすべてでしょうか?

何か失敗したといっても、それは長い人生のなかの、ある一つの出来事にすぎません。それに、自分がやることはなんでも成功するのでしょうか? 私たちはいろんなことにチャレンジしますが、実際に成功するのは千分の一、いや一万分の一ぐらいではないでしょうか。

なのに、ある一つの失敗だけを見て、「自分はダメだ」とすべてを否定して悩むのです。ですから、いかにこの思考が屁理屈で非合理的な思考かということがお分かりになるでしょう。

現実的に考えるなら、「これをやりましたが失敗しました。次にこれをやったらまあまあで、これがまたダメで、これはなんとかうまくいきました。でも次はまたダメで……」と、この連続なのです。

たとえば、仕事で大きなミスをしたとしましょう。たいていの人は「大変だ。取り返しのつかないことをやってしまった。やばい、どうしよう」とあれこれ悩んで混乱します。これでは落ち着いて問題に対処することなどできません。大騒ぎして何の役に立つでしょうか。

そこで、論理的にこう考えてみるのです。もしその問題が解決できるものなら、心を落ち着けて、解決できるよう努力すればいいでしょうし、もし解決できないものなら、「この仕事はうまくいかなかった。今はもうどうすることもできません。では、次の仕事にいきます」と瞬時に頭を切り替えて、次の仕事をしっかりやればよいのです。

このように、余計なことを考えずに、自分はダメだと妄想せずに、事実のところできれいにストップするなら、心は混乱しませんし、時間もずいぶん残るのです。思考を極力ケチると、ものすごく時間が残るのです。

「忙しい、時間がない」という人は、なぜ時間がないのかというと、たいてい妄想ばかりして時間を無駄に使っているからです。

たとえば、「あれもやらなくちゃ、これもやらなくちゃ。毎日、掃除と洗濯と料理だけで一日が終わってしまう」と、不平ばかりこぼしている家庭の奥さんは、なぜそんなに忙しいかというと、四六時中、無駄な妄想をしているからです。そのため、一つのことにあまりにも時間がかかってしまうのです。何も妄想せずに淡々と料理を作るのと、あれこれ妄想しながら作るのとでは、どちらが早いでしょうか? 当然、妄想しない方です。


『人生改良計画』スマナサーラ長老法話(文責:出村佳子)


どんな人でもスピーディに手際よく物事をやりたいでしょう。妄想さえしなければ、ものすごいスピードが生まれてきます。無駄が消え、仕事が早く進むのです。

そこで考えてみましょう。なぜ私たちは無駄なことをするのでしょうか? なぜ失敗するのでしょうか? なぜやり直しになるのでしょうか? なぜ一回できちんとできないのでしょうか?

すべて妄想のせいなのです。たとえば、ある会社に長年勤務している50歳の男性が、会社の改良のため、今まで一度もやったことのない仕事の分野にまわされたとしましょう。そうすると、はじめての仕事ですから、当然、何一つ分かりません。それでも今までの仕事の経験がありますから、たとえ仕事の内容が違っても、少々頑張れば一週間ぐらいで慣れるはずなのです。

しかし、そうはなりません。妄想して、前の仕事に戻りたいとか、こんな歳になってなんで新しい仕事を憶えなくてはいけないのかとか、もとの部署に戻りたいとか、あれこれ妄想します。

ですから一週間で憶えられる仕事が、何か月間もかかるのです。新しい仕事に適応できなければ、会社はいい顔をしません。だんだんお荷物扱いするようになるでしょう。


スピーディーな人


自分には能力がない、仕事ができない、新しいものを身につけることができないなど、いろいろ問題があるのは、自我をつくって妄想しているからです。妄想で、頭がクタクタに疲れているのです。脳細胞が全部使用済みで、もう使えない状態です。それもほとんど役に立たないことばかりに使ってしまったため、能力がないのです。

スピーディーな人は、無駄な思考をしません。それで成功するのです。「今晩のおかず、何にしようか」と一分で考えるのと一時間かけるのと、どちらが有効でしょうか? 

当然、一分で考えるほうです。その余った五十九分の時間で何か役立つことをし、そのようにして毎日を生きているなら、人生が成功しないはずはないでしょう。

すべてのものは無常です。変化するのです。この「あらゆるものはすべて変化する」ということを理解するなら、私たちはいろんなことを身につけることができるでしょう。(続きます)

2019/02/11

『智慧への道』気づきと正知による心の観察


★このブログにて少しずつ公開していきます。

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『アチャン・チャー法話集』全3巻をすべて訳し終えられたことに、いま、ほっとしております。肩の荷がおりました。

2008年より数年間、『Patipada』にてアチャン・チャー法話の翻訳を始め、その後、出版社より翻訳出版のお話をいただきました。

長年、アチャン・チャーの法話に触れてきました。

このように続けてこられたのも、読んでくださる皆さまの、あたたかいお声かけと励ましがあったからこそです。

この場を借りて、心よりお礼を申し上げます。ありがとうございます。


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【新刊のお知らせ】

智慧はどのように現れ、私たちを覚りに導くのでしょうか?

アチャン・チャー法話集 第三巻『智慧への道――気づきと正知による心の観察』が刊行されます。

智慧と思考の関係は? 正見とは? 無執着とは? など、第三巻には "智慧" に関する法話が収められています。よろしければ、ぜひその智慧に触れてみてください。



アチャン・チャー法話集 第三巻『智慧への道―気づきと正知による心の観察』アチャン・チャー著、出村佳子訳
アチャン・チャー法話集 第三巻
『智慧への道――気づきと正知による心の観察』


1970 年代から80 年代初頭にかけて、アチャン・チャーが、タイやイギリスの出家者・在家者に語った法話の中から、珠玉の16 法話を収録。
20 世紀を代表するタイ森林派の名僧は、出会った人々の心に寄り添い、その瞬間ごとにダンマを説かれてきました。
ものごとをあるがままに見ること、そして、無執着の実践をくり返し強調し、苦しみを滅する道を指し示してきた賢者の智慧に触れる一冊


目 

23 「観察」とは何か?
24 ダンマの性質
25 コブラを扱うように
26  心の「中道」
27 やすらぎを超えて
28 「世俗」と「解脱」
29 変わらないものはない
30 正見――落ち着きの場
31 本当の家
32 四聖諦―四つの聖なる真理
33 「トゥッチョー・ポーティラ」中身のない長老
34 聖者の基準―「確かなものはない」
35 静かに流れゆく川
36 超越
37 「無条件」へ
38  エピローグ
用語解説、注、出典
訳者あとがき
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生きとし生けるものが幸せでありますように