2019/01/13

善悪とは?④-2


功徳から善への進み方」から の続き

 功徳から善への進み方例:不殺生)

 ①とにかく殺生をやめる
 ②理性を使って、徐々に命の意義を理解する
 ③「生きる権利は皆にある」ことを理解する 
 ④自然に命の尊厳を守ることができるようになる
 ⑤慈しみを育てる


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⑥「自我の錯覚が殺意を引き起こす」と発見して、自我の錯覚をなくす


たとえば蚊やゴキブリを見たとき、私たちはすぐに殺そうとします。

なぜ、殺そうとするのでしょうか?

2019/01/11

希望と欲望⑤-2


ワンパターン思考


どの国でも、若者たちはだいたいおしゃれをするのが好きなものです。

でも彼らのおしゃれはつまらないと思います。なぜかというと、みんな同じことをやっているのだから。男性で長い髪が流行すると自分も髪を伸ばし、金髪が流行すると金髪に染め、そうやって町はみるみるうちに金髪の若者であふれていきます。

若者なら何か新しいこと、いくらか大胆なことをしたほうがいいのに、それはやろうとしません。新しく前進しようとしないのです。

正精進の4番目では「今までやったことがない善行為を、勇気を持ってやること」です。

おしゃれは善行為ではありませんが、「みながやっているから自分もやる」という態度は、よいことではありません。

仏教は、会社で毎日ワンパターン的に仕事をしている人のことを頑張っている人だとみなしません。

出社時間に会社へ行き、いつもと同じパターンで仕事をし、帰宅時間に退社する、この決まったパターンで定年まで仕事をするのは、それほど称賛できることではないのです。

自分で何か新しいことを考えて、常に新しくしていこうとすることが大切です。そうでないと、人生は死んでしまうのです。

とくに日本では何でも「パターン化する」「マニュアル化する」という傾向があるようです。マニュアルや決まりを作り、「これは決まりだから必ず守らなくてはなりません」と言うのです。

でも、そもそもその決まりを決めたのも会社の人ですし、完璧な人でも、全知全能者でもありません。
ですから、たとえ決まりでも、それが無意味なことなら変えたほうがよいのです。

常に進歩して前向きに行動すること、これが正精進の4番目、いわゆる4番目の希望です。

仏教を実践するには、かなりの勇気とインスピレーションが必要です。常に新しい意見を持ち、新しいことを考えて行動することが大切なのです。



「希望と欲望」スマナサーラ長老




日々、前進する


なぜ仏教はそういうことを教えているのでしょうか?

それは、「すべてのものは無常で流れていく」からです。停止しているものはひとつもありません。

なのに、私たちはいつでも「止まろう、止まろう」としています。

会社で何か品物を作っているなら、そればかり作りっぱなしの毎日です。それで、「自分は日々頑張っている」と言うのです。

しかし仏教から見れば、それはただ機械的に作業を繰り返しているだけで、たとえ遅くまで残業していたとしても、頑張っていないとみなします。

インスピレーションもなく、ただ機械的に仕事をすることは、自慢できることではありません。

そうではなく、何か工夫して残業にならないように努力したほうがよいのです。

そうすれば、最低でも電気の使用量ぐらいは節約できますし、自然破壊も減らすことができますから。

でも、皆さんの中には、残業すれば上司に褒められるとか、残業手当てが入るから残業があったほうがいいなどと考えている人もいると思います。それは仕事を怠けていることです。

そうではなく、その日の仕事が終わったらサッと帰ったほうが賢明です。これが、仏教でいう正精進なのです。

私たちは日々、自分の生き方を改めて、向上させなければなりません。




よりベターに生きる


これまで話してきたように、4つの項目で正精進は完成します。

・今までやってきた悪行為をやめる

・今までやったことがない悪行為はこれからもやらない

・今やっている善行為を完成させる

・今までやったことがない善行為をやる

これを簡単に言うと、
「日々、昨日よりも、もう少しよくなるように努力する」ということです。

毎日毎日、精進しなくてはなりません。「昨日よりも今日、今日よりも明日、よくなるように精進します」と自分を改善し、向上させ、成長させるのです。ですから、正精進には終わりがありません。

悟りを開いて解脱したら修行は終わりますが、解脱した人は解脱しても怠ることはありません。

お釈迦様は完全なる悟りを開いたとき、「やるべきことはすべてなしおえた。修行は完成した」と堂々とおっしゃいました。

でも、その後の人生も、寝る時間は1日に2時間程度。それも身体がガタガタに疲れたときだけ休み、それ以外のときはずっと頑張っていました。自分のためではなく、人々のため、社会のために頑張っていたのです。

このように、仏教では、よりよいことをしようではないか、より役に立つことをしようではないか、と死ぬ瞬間まで努力することを、とても大切にしています。

よりよくなろうと正しく精進努力することが、仏教がすすめる正しい希望です。

仏教は希望を持つことを否定していません。それどころか、「希望を正しく持って修行し、修行を完成して、悟りを開いてください」と励ましています。

お釈迦様はいつでも比丘たちにこうおっしゃっていました。

「怠けてはなりません。睡眠に耽ってはなりません。精進しなさい」

世間では、寝ることは自然の行為であり、健康にいいと言っていますが、お釈迦様は、「必要以上に睡眠をとることは時間の無駄です」と教えているのです。
(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望⑤-2』

2019/01/07

善友②


善友①からの続き






A:回 答 ―― グナラタナ長老



「善友」とは、心が慈悲で満たされ、あなたの精神的な成長を助けてくれる人のことです。

ここでいう「精神的な成長」とは、やすらぎと調和のなかで心を育てる、ということです。善友は、あなたが心を育てられるよう、さまざまなやり方協力してくれるのです。






「善友」は、先生だったり、親戚だったり、善き友人だったりします。彼らは見返りを求めずに、進んであなたをサポートしてくれるでしょう。「心を育てたい」というあなたの気持ちと意欲を理解して、自分の時間を割いてでも、あなたが穏やかで幸せになれるよう、協力してくれるのです。

善友は、大きな忍耐と献身をもって力を尽くしてくれます。いつでも話を聞いてくれたり、助言を与えたりしてくれます。あなたが怠けないかぎり、背をそむけることはしないでしょう。

善友は優れた聞き手であり、優れた指導者でもあります。あなたの幸せを壊すような方向には、けっして導きません。現在も、将来にわたっても、苦しみをもたらす悪行為をすすめることは、けっしてしないのです。

「善友」と「先生」のあいだに、大きな差はありません。善友は、先生でもあります。精神的な成長においては、ひとりで両方の役割を果たすのです。

精進する人にとって、解脱に達するまで善友はなくてはならない存在です。

善友は、あなたが精進しているかぎり、見離すことはありません。「私は苦しみを滅しました。あなたはひとりで頑張ってください。さようなら」とは言いません。

そうではなく、「手助けが必要なときは、いつでも来てください。質問があれば、いつでもしてください。何か問題があったときは、私がいますからね。ひとりだと思わないでください。私はここにいますから」などと言います。このように、善友は安心感を与えてくれるのです。
 
あなたは、「自分の心の成長に協力し、注意を払ってくれる人がいる」と感じるでしょう。精進しているかぎり、善友はあなたを無視しません。いつでもあなたを正しい方向に導いてくれるでしょう。

『善友②』
グナラタナ長老
(パティパダ―「仏教Q&A⑨」より)