2018/11/22

人生改良計画①-1

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「改良」の問題点 


人はよく「自分を向上させたい」「改良したい」と言っています。では、どのように「向上しよう、改良しよう」と考えているのでしょうか?


一般的に私たちはなんでも「合理的に」「より便利に」「より快適に」することが改良だと思っています。


より便利に、よりスピーディーに、より快適に生活したいと考えて、さまざまな機械や電化製品を開発しているのです。

このようなことを「改良」と呼んでいるのです。


しかし、ここには大きな問題があります。それは、自分を改良しないことです。


モノや機械はどんどん合理的になっていくものの、人間は非合理的なままですから、非合理的な人間が合理的な機械を使いこなせない、という問題が出てくるのです。


たとえば医療の世界をみると、技術が進歩すればするほど医療ミスが多くなるという傾向があります。


進歩が激しいため、医者たちは機器の使い方がわからず、十分に使いこなせないのです。


たとえば1千万円かけて最新機器を導入しても、その機器をうまく使えないまま、数か月経つと、また新しい機器が発売されます。


医療機関は、医者の腕だけでは現代のさまざまな病気に対処することができないということを知っていますから、最新の機器を買いたがりますが、なにしろ最新ですから、導入するたびに使い方を覚えなくてはなりません。


このような状態では、医療関係者は新しい機器に慣れることに精一杯で、患者のことを考える余裕がなくなってしまいます。


このように、自分はそのままで、機械だけが合理的になると、問題が生じるのです。



改良の中身は?



私たちは「自分を改良したい」と考えていますが、その中身はどのようなものかというと、たいしたことではありません。


男性なら「よりかっこよく」「より力強く」「よりもてるように」、女性なら「より美しく」「よりきれいに」「よりスリムに」ということが自己改良だと考えています。


自分を向上させたいという若い男女が何を考えているかというと、そういうことに頑張っているのです。

それで、あらゆる美容法を試みたり、流行を追いかけたり、ダイエットをしたり、男性なら、身体を鍛えたり、お金がないのに見栄を張って車やバイクを買ったりするのです。


中年になると、「より元気に」「より健康に」という目的が出てきます。

いろんな健康法が次から次へと出てきますし、健康食品やサプリメントはきりがなくあります。


仕事の世界では「上達」や「スキルアップ」「キャリアアップ」というものを目指しています。そのためのスクールやセミナーがどれほどあるでしょうか。

マニュアル本もいくらでもありますし、アドバイザーたちもたくさんいます。


食べ物の分野では「よりおいしく」「より手軽に」「より安く」ということに頑張っています。ファーストフードのお店などは、その結果できたものでしょう。


また、現代人、とりわけ都会に住む人たちは、より利便性を求めてスーパーやコンビニで冷凍食品や加工食品を買って食べるようになっています。

でも、そういうものには何が含まれているかわかりません。着色料、香料、酸化防止剤、漂白剤、保存料などたくさんの添加物が入っていますから、決して身体にいいとはいえません。

ときどき、「こんなものを食べたらどうかなあ」と思うものもあります。おいしいと思って食べているものが、身体を壊す場合もあるのです。それを私たちは毎日のように食べています。

なかには、身体がものすごく拒絶反応を起こすものもあります。(続きます)
スマナサーラ長老

根本仏教講義『人生改良計画①-1』文責:出村佳子

2018/11/20

希望と欲望④-1



正しい希望の持ち方



これまで「希望と欲望」のうち「欲望」について説明してきました。
今回は、「希望」についてお話しましょう。 


仏教は希望を持つことを否定しているのかというと、そうではありません。それどころか、「希望を持って頑張りなさい、励みなさい」と、大いに応援しているのです。





八正道のなかに「正精進」という言葉があります。パーリ語で Sammā vāyāma(サンマー・ワーヤーマ)といいます。

Sammāは「正しい」、vāyāmaは「精進する、努力する」という意味で、「正しく努力する」という意味になります。


そこで、私たちは希望がないと、なかなか努力しません。
なぜ努力するのかというと、何らかの希望や目的があって、それを実現させるために努力するのです。


希望のない人は、何も努力しようとせず、ただ怠けているだけです。仏教はこの「怠け」や「怠ること」をものすごく嫌っています。


お釈迦様は怠ける人のことをきつく批判しました。とくに出家者にたいしては厳しいですから、出家者が怠けたら、もう人間扱いしないのです。




学ぶことの少ない者は
牛のように老いる。
肉は増えるが、智慧は増えない。
(ダンマパダ 152)

Appassutāyam puriso, 
Balibaddho'va jîrati;
Mamsāni tassa vaddhanti,
paññā tassa na vaddhati.




怠け者は、食べて楽をして、老いていくだけです。智慧はまったく成長しません。お釈迦様は怠ける人のことを牛のように見て、人間扱いしなかったのです。



正しく頑張る


 
仏教は高度な道徳である「精進・努力」を高く評価しています。

しかも、ただ努力すればいいという、なまやさしいものではなく、「瞬間も怠けてはなりません」と厳しく教えています。

精進・努力というのは、わかりやすくいえば、「頑張る」という意味です。

でも、なんでもかんでも頑張るというのではなく、正精進(Sammā vāyāma)をするということです。


正精進とは、「道徳的で立派な人間になるために、正しくコントロールして頑張る」という意味です。
(続きます)


根本仏教講義『希望と欲望④-1』
スマナサーラ長老法話


2018/11/18

希望と欲望③-2


カッとなる子供


現代の子供たちはなぜカッとなってキレやすいのかといいますと、おそらく途轍もない欲望と誘惑で心がいじめられていると思います。


一流の学校に進学したい、いい成績をとりたい、勉強しなくてはいけない、でも遊びたい、ゲームをやりたい、サッカーもやりたい、あれをやらなくてはいけない、これもやらなくてはいけない、ああだこうだと、ありとあらゆる欲望と、さらには親の過剰な期待や要望がのしかかってきて、子供たちの心が病んでいます。


欲望が強いと、それは逆の性質の怒りとして表面に現れます。それでカッとなったり、キレたりするのです。



猛獣(欲)の管理



お釈迦様は、ノーマルな欲に関しては、それほど厳しく言っていませんが、異常な欲に関しては厳しく戒めています。異常な欲は、猛獣のようなものです。


そこで、猛獣をどうしても自宅で飼いたいというなら別に飼ってもいいのですが、そのときはかなり気をつけなければなりません。

たとえば毒ヘビを飼うときは、首に巻いて飼ってはなりません。自分が殺されます。毒ヘビと遊んではならないのです。


そうではなく、どうやって飼えば安全か、エサをあげるときはどうすればよいか、万一噛まれたときはどうすればよいかなど、どのように扱えばよいのかを十分調べて、慎重に扱う必要があります。

そうすると、危険が低い状態で毒ヘビを飼うことができるのです。もし、格好いいから、美しいから、珍しいからといって、何も注意せず、毒ヘビと遊んでしまったら、その人の命は危ないでしょう。
(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望③-2』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子


2018/11/16

よい瞑想と悪い瞑想 ②






A:回 答 ―― グナラタナ長老


よい瞑想と悪い瞑想①の続き

怒りを観察する

「怒りを観察する」グナラタナ長老(著)出村佳子(訳)


たとえば怒りが湧き起こった瞬間、気づきを使って、

「怒り、怒り」とか、「これは怒りだ。怒りは心のやすらぎを壊す」とか、「いま、心臓の鼓動が速くなっている」などと、心や身体で起きていることを、あるがままに観察してください。

怒りが生じるとすぐに、脳は、

「心臓の鼓動を早めろ!」
「血圧を上げろ!」

といった指令を身体に送ります。感情は、身体に影響を与えるのです。観察すれば、このことがわかるでしょう。

感情を観察してください。
観察を続けていると、怒りや恐れ、不安、欲がゆっくり消えていくのがわかるでしょう。

もしかすると、すぐには消えず、少し時間がかかるかもしれません。

でも、たえず観察することによって、感情は消えていくのです。


心に生じる諸々の現象を、マインドフルに観察し続けることは、私たちがすべき最も大事なことのひとつです。
ならば、どうしてそれらが悪いものだと言えるでしょうか?

また、あなたは「よい瞑想」と言っていますが、それはどういう意味でしょうか? 

「よい瞑想」とはなんでしょうか?

おそらく心が静かになって、それほど忙しくない状態になっているのかもしれません。

でももしかすると、いわゆる「よい瞑想」をしていると、気持ちがよくなって、だんだん眠くなるかもしれません。

そして「ああ、瞑想がうまくできている……。瞑想がよくできている……」と誤解するかもしれないのです。

でも、それはよい瞑想ではありません! 
それこそ、悪い瞑想なのです(笑)。

眠気を感じたら、その眠気を観察してください。
精進して、なんとか目を覚ますようにし、眠気を取り除くために何かをするのです。

たとえば、深呼吸を3回して、体中の血液に酸素を送るのもよいでしょう。

あるいは姿勢を変えて立つ瞑想をし、眠気を追い払うこともできます。

また、眠くなっているときでも、その眠気に気づき、眠気を観察するなら、それは観察しているのだから、悪い瞑想になりません。

このような理由から、瞑想には「よい瞑想」も「悪い瞑想」もないのです。

これは、あなたが瞬間瞬間、湧き起こる感情をどのように扱うか、ということによります。

感情が生じた瞬間、それに気づくなら、どんな状況も「よい瞑想」になるのです。


暴走する馬車を止めるように、
湧き起こる怒りを制する者、
私はその人を「御者」と呼ぶ。
他の人は、ただ手綱を持つだけである。
(ダンマパダ222

***

Yo ve uppatitam kodham,
Ratham bhantam va dhqraye;
Tam aham sarathm brumi,
Rasmiggaho itaro jano.
(Dhammapada 222)

2018/11/15

希望と欲望③-1


欲と怒りはセット


私たちの心には「檻に入ったトラ(欲)」が住みついています。檻に入っているから大丈夫、危害はない、と思うかもしれませんが、だからといってトラがネコのようなかわいいペットかというと、とんでもありません。

ただ檻に入っているから危害がない、それだけのことです。

檻の扉を開けた瞬間、たとえ毎日エサをあげて面倒をみていたとしても、トラは飼い主に襲いかかってきます。真っ先に誰を殺すかというと、ほかならぬ飼い主なのです。


同様に、異常な欲が生まれたら、真っ先に攻撃され、殺されるのは、欲をだした自分です。ひどいときは周りの人も巻き込んでしまうでしょう。


ですから、異常な欲望は大変危険なものなのです。



欲望のもうひとつの顔



欲望とは言いにくいのですが、強い願望といえる感情がもうひとつあります。


パーリ語で vyāpāda と言い、意味は「異常な怒り」です。これも異常な欲(abhijjhā)と同じで十悪に含まれ、とても罪が重いものです。


Vyāpāda とは、他人に害を与えたくなる気持ち、いわゆる暴力をふるいたいとか、他人を害したい、傷つけたいという気持ちのことです。

それも、異常なほど。異常に他人を壊したくなるのです。

社会にはときどき、突然怒りが爆発して自分と何の関わりもない人を殴るとか殺すとか、そういう異常な怒りを持つ人がいます。

こういう人たちは精神的な病気で、ノーマルレベルを越えています。

怒りを制御することができないため、何でもいいから壊したい、誰でもいいから殺してやりたいと心が絶えずイライラし、ある日突然、常識では考えられないような凶行に走るのです。



欲が強い人ほど、怒りやすい



なぜ異常な怒り(vyāpāda)のことを説明したかといいますと、欲と怒りはセットだからです。

性質は正反対ですが、二つはセットになっています。ですから、欲が強ければ強いほど、人は怒りやすい

たとえば、ある男性が女性のことをものすごく好きになったとしましょう。それで告白したところ、もしふられたら、頭がおかしくなってその女性を殺してしまうかもしれません。

本当に好きなら相手を尊重して大事にすればいいのに、なぜ殺すのかというと、あまりにも欲望と愛着が強く、でも自分の思いどおりにならなかったため、怒りが爆発するのです。



欲と怒りは表裏一体です。欲の裏側には、怒りが潜んでいます。


ですから欲が強ければ強いほど、裏で怒りが繁殖しているのです。


朝から晩まで金儲けのことばかり考えている人がいるとしましょう。

周りの人たちは「この人はお金にしか目がないみたいだけど、まぁそれほど害はないでしょう」と、安心することはできません。何をするかわからないのです。

もしその人にお金が入らなくなったら、突然、怒るでしょう。怒って、自分や周りを破壊するのです。

日本の社会でも、エリート中のエリートが不正を働き、それが見つかって自殺する、ということがときどきあります。

自殺は怒りです。不正行為をしたら、潔く、申し訳ないと謝罪して罰を受けたほうがいいのに、こういう病的な人たちは憤慨して自殺するのです。

飼っていたトラが檻から出た瞬間、真っ先に飼い主を襲うように、常識レベルを超えた欲と怒りは、真っ先に自分を殺すのです。

そういうわけで「異常な欲」が出てきたら、気をつけてください。心の裏側では人を殺すほどの恐ろしい「異常な怒り」が繁殖しているということなのだから。

(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望③』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子

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2018/11/13

希望と欲望②-2


糸が切れた凧


「余計な欲(abhijjhāは「普通の欲」とは異なります。

「普通の欲」とは、もう少し収入があったら家族を楽にしてあげられるとか、もう少し環境のいいところに住めるとか、たまにおいしいものが食べられる、という程度の欲です。


これは小さな欲ですから、すべて崩壊するところまではいかないでしょう。

でも、リミットを越えた瞬間、糸が切れた凧のように、どこまでも、あてもなく、飛んでゆくのです。

 
私たちの心には、ものすごい煩悩がたまっています。欲と怒りと無知(貪・瞋・痴)で、かぎりなく汚染されているのです。



希望と欲望



私たちは、歩く原子爆弾のように大変危険なものです。


日常生活のなかでは爆発しないよう、なんとか抑えて生活していますが、少しでもネジがゆるむと、爆弾が爆発したように、貪・瞋・痴が爆発し、自分や周りを壊し、大きな苦しみをもたらすのです。

 
貪・瞋・痴は、どこまででも成長します。原子爆弾のように、連鎖反応でどんどんどんどん成長するのです。


たとえば、夏休みにどこかへ旅行するとしましょう。
旅行したら、「ああ、よかった。楽しかった。もう充分だ」と満足するのではなく、「次はもっと楽しいところへ行きたい」と思うのです。

それで次の年「楽しいところ」へ行ったら、またその次の年には「さらに楽しいところ」へ行きたくなります。

 
おいしいものが食べたい、という欲が出たら、おいしいものを探して食べ、それを食べてもまた、おいしいものを食べたい、と欲が出ます。

それを食べても満足しませんから、さらにもっとおいしいものを探します。

このように、欲は連鎖して、どんどんどんどん膨らんでいきます。

ですから、欲は危険なものです。しっかり管理することが大切なのです。

(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望②-2』
スマナサーラ長老法話

文責:出村佳子


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2018/11/11

希望と欲望②-1


3種類の「欲」の続き

欲をバネにして人格を向上させることはできません。欲に基づいて行動すると、最終的にはかならず失敗するのです。

そこで、幸福な生き方を目指す人は、欲は有害な毒であると見て、欲から離れることが大切です。

とくに底なしの異常な欲望(abhijjhā)に関しては、修行や瞑想を始める前から離れておかなくてはなりません。


欲があると、「いまあるもの」も失う



ジャータカ物語をひとつ、ご紹介いたしましょう。

ある人が王様のもとを訪れ、このように言いました。

「あなたはすばらしい王様で、強い軍隊をたくさん持っているのに、なぜこのような小さな国を治めることで満足しているのですか? 
希望が小さいのはよいことではありません。
となりの国に侵攻して、自分の国を拡げてはどうですか」

それを聞いた王様の心に、巨大な欲(mahicchatā)が生まれました。

「よし、わかった。となりの国を攻めて、私の国にしよう!」

そう言って、すぐに軍隊を集め、戦いに出ようとしたのです。


ところで、王様には、知識のある優れた大臣たちがそばにいました。

そのなかで、もっとも智慧のある偉い大臣が、
「戦争はやめたほうがいい。落ち着いて平和でいたほうがいい」と、戦争にまったく賛成しないのです。

しかし、王様はこの大臣の言葉にはまったく耳を傾けませんでした。

智慧のある大臣は、王様のことが心配になりました。
そこで戦争には反対でしたが、あまりにも心配ですから、軍隊といっしょに出かけることにしたのです。


ちょうどその頃、インドは雨季に入り、毎日、雨が降り続いていました。

しかし王様は軍隊に、「前に進みなさい。たとえ雨が降っても引き返してはならない」と命じました。

ある日のこと、森で野宿しているとき、馬のエサとして、栄養のある豆を小分けにし、あちこちに置いておいたところ、それを見ていたサルが、「おいしそうな食べものだ」とばかりに、木から降りてきました。そして、手で豆をひとつかみ握ったのです。

でも、まだ豆はたくさんあります。
それで、反対の手でもう一つかみ握りました。

見ると、豆はまだたくさんあります。それで今度は口いっぱいに豆を頬張りました。

口と両手いっぱいに豆を持ち、木の上に登ろうとしました。

しかし、両手は使えませんから、足で登るしかありません。

どうにかこうにか木の上に登ったところ、手から豆が一粒、ポトンと地面に落ちました。

サルは「キャー」と鳴き、あわててその一粒の豆を拾うために木から降りたのです。

鳴いた瞬間、口から豆が全部落ち、さらに両手の豆も全部落ちてしまったのです。

たった一粒の豆のために、サルはすべての豆を失ったのです。

その様子を見ていた王様が、
「あー、バカなサルだ。一粒ずつ手で取って食べればいいのに。欲深いなぁ。欲が深いから、全部なくしてしまったんだ」と言いました。

それを聞いた智慧のある大臣は、
「欲深いのはサルだけではありませんよ。あのサルと同じことをやっている人がこちらにもいるのではないでしょうか」と言いました。

王様が「なんのことか」と言うと、大臣は、

「これまで王様は自分の国を治めることだけで充分満足していました。なのにいまは隣国に侵攻して、自分のものにしようとしています。それもこの雨季の時期に。ゾウや馬は風邪をひいて熱をだし、となりの国に着くころには身体が弱っているでしょう。軍隊も雨で衰弱し、疲れ切っていますから、戦う力はありません。私たちは簡単に相手軍に殺されるでしょう。ですからいま王様がやろうとしていることは、あのサルがやっていることよりもひどいことではないでしょうか」

王様はようやく目が覚めました。
「わかりました。国へ帰りましょう」
そう言って、引き返したのです。

この話は「欲をだしたら、いま持っているものも失う」という話です。


欲は崩壊のもと



これは社会を見るといくらでも例があります。
日本でも、ある偉い方が、わずかなお金に欲をだしたために、地位も権力も失って逮捕された、というニュースをときどき聞くことがあります。

毎月高い給料をもらい、そのうえ国や会社から住宅や車などを安く貸してもらい、外国に行くときには旅費や滞在費が全部おりますから、お金のかかるものはほとんどありません。奥さんの服代や子供の養育費ぐらいです。

なのに、もう少し裏でお金をもらおうではないかと欲をだし、不正行為をしたため、逮捕され、結局は職も、地位も、立場もすべて失うはめになるのです。

ですから、理解してください。
欲はネガティブで、暗い思考です。英語で言えば、productiveではなくdestructiveです。
いわゆる有効的・効果的ではなく、破壊的ということです。

会社は、経営者が欲をだせば、倒産しますし、家庭は、家族の誰かが欲をだせば、崩壊するでしょう。

国は、国の権力者が欲をだせば、すぐに崩壊するのです。

1990年、イラクが隣国のクウェートを奪おうと欲をだし、たった1日でクウェート全土を支配下に収めたということがありました。

それでどうなったかというと、米英軍によってハイテク兵器がイラクに投入され、その劣化ウラン弾の影響で、いま多くのイラクの子供たちが、ガンや白血病、奇形の病気にかかって大量に死んでいるのです。

また、経済制裁のために食料が不足していますから、栄養失調や飢餓でも苦しみ死んでいます。

これからどのくらいこの国の人々が死んでいくかわかりません。

これは、当時のイラクの大統領が自分の国だけでは満足せず、「となりの国を奪って自分のものにしよう」と、とんでもない欲をだしたことによります。

その結果、国民を苦しみの泥沼に落とし入れたのです。
        

(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望②-1』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子



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③欲は破壊のもと



2018/11/09

希望と欲望①-2

〈2018年11月9日更新、2008年4月26日作成〉

3種類の「欲」


・余計な欲(Abhijjhā:アビッジャー)


Abhijjhā は、簡単にいうと「余計な欲」という意味です。

なぜ欲の上に「余計」という言葉を付けるのかというと、一般的にどんな人にも欲はありますが、そのような日常生活のなかで生まれるごく普通の欲は、「余計な欲」と言いません。

でも、限度を超えてきりがなく欲が出てくると、それは「余計な欲」となるのです。


「普通の欲」の場合は、修行しない限りコントロールすることがむずかしいのですが、「余計な欲」の場合は、修行や瞑想をする前から、あるいは仏教を学ぶ前から、抑えておかなければならないものです。


十悪は、仏教徒であろうかなかろうか、人なら誰でも避けなければならないものであり、犯したら必ず罪になります。

これは普遍的な法則ですから、宗教や信仰には関係がありません。仏教徒も、キリスト教徒も、イスラム教徒も、無宗教の人も、どんな人も、十悪の行為をしたら罪になるのです。


たとえば他人の物を盗んだ場合、仏教徒は罪になりますが仏教徒以外の人は罪にならない、ということはありません。

どんな人でも盗みをしたら罪になるのです。

動物も同じで、盗むと、罪になるのです。



https://sukhi-hotu.blogspot.com/p/blog-page_38.html




・巨大な欲(Mahicchatāマヒッチャター)


Abhijjhā のほかに、欲望を表す言葉として「mahicchatā」があります。これは mahā と icchatā の二つの語からなっています。Mahā は大きい、 icchatā は希望という意味です。

希望といっても、ここでは悪い意味で使っていますから「欲望」となります。

この二つの語を合わせて mahicchatā は「大きな欲」「巨大な欲」という意味になります。



・悪い欲(Papicchatā:パーピッチャター)



これは pāpa と icchatā からなり、pāpa は罪や悪。 icchatā は欲しがること、という意味。ですから、「罪・悪」と「欲しがる」ことで「罪になる欲」「悪い欲」という意味です。 



埋められない欲



いま「abhijjhā」「mahicchatā」「pāpicchatā」の3種類の欲を説明しましたが、なぜこれらは悪いもので、罪になるのでしょうか? これから考えてみましょう。  


世の中には、人が成長し成功するためには、ある程度の欲望が必要、という考え方があります。


事業で成功したい、お金を儲けたい、地位や名誉、権力が欲しいなど、そういう欲望をバネにして、それに向かって邁進することによって人は成長できると考えているのです。


これは正しい考え方でしょうか?


仏教から見ると、「あれも欲しい、これも欲しい……」ということばかり考えている人の心のなかは、大きな穴がぽっかりあいています。いわゆる空っぽ。悪い意味での空っぽです。精神的に満たされていないのです。


さらに悪いことに abhijjhā と mahicchatā には、欲の穴に底がありません。底なしの穴なのです。


ですから、モノをいくら入れても穴は埋まりません。埋められないのです。


欲望には、そのような特色があります。いくらあっても足りない、満足しない、これが欲望なのです


お金持ちでも心は貧乏


欲の深い人は、明るい性格ではありません。思考も暗いし、性格も暗いです。皆さんは日常生活のなかでいろんな人とおつきあいしているでしょうから、本当かないか、ご自分で調べてみるといいでしょう。


欲深い人の顔や生き方を見てください。機会があれば、そういう人の家を訪ねてみてください。ものすごく暗い影があることが見えると思います。


四六時中、儲けたいとか、出世したいとか、誰かに勝ちたいとか、強くなりたいとか、美しくなりたいとか、おいしいごちそうを食べたいとか、常に心が「~が欲しい」「~したい」という感情でいっぱいになっていますから、心には落ち着きや明るさがないのです。

このような欲の深い人たちが何をするのかというと、破壊行為です。

たとえば、お金にたいして貪欲な人は、とにかくどんな方法を使ってでもお金を得ようとします。手段は選びませんし、相手の気持ちも考えようとしません。

相手のことはどうでもいいから自分がなんとしてでも儲けたい、と考えます。

社会の秩序や道徳、平和といったことはまったく考えません。

自分にお金が入ればいい、自分や自分の会社さえ儲かればいい、としか考えないのです。そうするとどうなるでしょうか? 


当然、社会の調和やバランスが崩れてしまうのです。


それから、その人はお金をいっぱい儲けたからといって、明るく活動するかというと、それもしようとしません。

なぜかというと、いつも「足りない、足りない」という気持ちでいますから、いくらあっても「足りない」と感じるのです。それでさらにため込もう、儲けようとするのです。

ですから、貪欲な人が社会にひとりでもいるということは、社会全体の調和を崩し、迷惑になります。

そういうわけで、欲望は罪になるのです。

                     (続きます)
              
 根本仏教講義『希望と欲望①-2』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子