2019/04/03

自分自身を戒める

善悪とは?⑧-1

だからといって、すべての人がこの「対話」の手段を使えるかというと、そうではありません。対話形式で話し合い、相手のことを理解して、互いに納得して合意に達することは、心が落ち着いている人でなければ出来ないことです。

普通の人はいきなり、「あ、それ、おかしいですよ」などと言って、すぐに判断してしまいます。でも、これはやめなければなりません。

対話をするためには、けっこう能力が必要です。判断せずに、話し合わなければなりません。対話ができれば、最終的に自動的に合意に達することができるでしょう。

では、対話ができない場合はどうしましょうか?

できなかったら、それはそれでよいのです。代わりに、自分を直すことに頑張るのです。人の能力はさまざまですから、対話をしたり、他人を諭したりする能力がない人も、たくさんいます。その場合、自分自身が悪行為をしないよう、戒めればよいのです。

自分自身を戒めましょう。自分を戒めることで、他人の役に立つことができるのです。


善悪とは?




生命の本能は悪(貪・瞋・痴)



悪はやりやすく、善は行い難いものです。
善行為をする人は、自分の本能と闘っています。皆様もときどき何か善いことをしようとするとき、「恥ずかしい」と思うことがあるでしょう。あれは本能と闘っているからです。

電車でちょっと席を譲るだけでも、恥ずかしいと思うでしょう。ほんのわずかな善行為をするためでも、やはり本能と闘わなければならないのです。


成功の度合いによって、人格が向上する



このように、ちょっとした善行為をするためにも、私たちは自分の本能と闘わなければなりません。

能に勝てば、成功したことになります。本能に勝ったということは、貪・瞋・痴の悪に勝ったということです。人格が向上したということなのです。


周りの真似をする人の人生


周りがやっていることを真似する人は、人格がなかなか成長しません。そのままで止まってしまいます。
皆がやっているからやりましょうと真似することは、ある意味、危険なことなのです。だって、その「皆」は覚っているのでしょうか? 智慧があるのでしょうか? 

多くの人はたいてい感情的で、簡単に人を騙したり、人に騙されたりするものです。ですから「皆がやっているから私もやります」というのは危険なことです。

皆がやっているかいないかは、どうでもよいことです。善いことなら、周りに関係なく、自ら進んで実践することが大切です。勇気を出して、前に進まなくてはならないのです。
(続きます)

A. スマナサーラ長老 
善悪とは?⑧-1『自分自身を戒める』
文責:出村佳子


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善悪とは?

2019/03/29

すべての生命の幸せを願う

人生改良計画④-3

自分の幸せをしっかり願うことができたら、次に両親、家族、親戚、先生、友人など、親しい人たちの幸せを願います。


自分がいま生きているのは、周りの人たちのおかげです。周りの人たちに助けてもらったり、面倒をみてもらったり、いろいろ教えてもらったから、今の自分があるのです。ですから慈しみの気持ちを込めて、「私の親しい人たちが幸せでありますように」と念じてください。

『生命の幸せを願う』スマナサーラ長老、文責:出村佳子

自分の幸せを願い、親しい人たちの幸せを願うことができたなら、次にすべきことは、生きとし生けるものの幸せを願うことです。


私が幸せになりたいのと同じように、あの人もこの人も、近くにいる人も遠くにいる人も、虫も鳥も動物も神々も、あらゆる生命が「幸せになりたい」と思っています。誰も苦しみたくないのです。

ですから、自分が生きる場合は、「すべての生命が幸せになりますように」と思わなくては、とんでもない法則違反を犯していることになるのです。


たとえば犬を飼っているなら、犬は人間にエサをもらったり、遊んでもらったり、散歩に連れて行ってもらったり、いろいろ楽しみたいと思っています。それで、飼い主が愛情をもって親切に飼ってあげれば、犬も楽しいですし、自分も楽しい。お互いに楽しいのです。


でも、その楽しみを捨てている人がいます。「人間は犬よりも偉い」という傲慢な態度で犬を飼っている人たちがいるのです。そうすると、犬は惨めでしょうし、飼い主もその傲慢さのために、とても苦しむのです。


仏教は、人間やペットだけでなく、すべての生命にたいして、幸福を願います。そうすると苦しみが消えて、すごく幸福に生活できるのです。


常に自分の幸福と、生命の幸福を考えて、行動してください。これはすごく楽しいことです。


また、すべての生命の幸福を願うことによって、ほとんどの問題が解決するのです。「生きとし生けるものが幸せでありますように」と考えることで、親子の問題、夫婦の問題、人種問題、宗教間の争い、環境問題、自然の問題など、あらゆる問題が解決するでしょう。


それから、すべての生命の幸福を願えるということは、自分の心が成長したということでもあります。心が成長するにつれて、幸福感もどんどん増えていきます。ですから無駄な思考をして苦しむのではなく、幸福を目指して頑張った方がいい、というのが仏教の世界なのです。(続きます)


スマナサーラ長老法話
根本仏教講義『人生改良計画⑤-1』文責:出村佳子






2019/03/23

自分は悪行為をしないと決める「善悪とは?⑦-1」


人はだれでも、心が貪・瞋・痴でいっぱいですから、間違いをすることは当たり前です。

しかし、「自分は正しい」と錯覚し、傲慢や自我意識が強く、主張が強い人は、他人を正そうとしたり、世直しをしようとしたりします。

結局、自分が大きな苦しみを抱えるはめになるのです。



一方、「生命には貪・瞋・痴がある」「貪・瞋・痴があるから生命だ」と知っている人には、何の問題も起きません。

その人にとって、世の中の悪は問題になりません。

なぜなら、人はみな貪・瞋・痴で生きていて、自分もまた貪・瞋・痴で生きているということを知っているからです。それで、傲慢が消えるのです。



世直しをしようとすることは、ある魚が他の魚の泳ぎ方を非難するようなものです。

魚は種類によってそれぞれ泳ぎ方が違いますね。

たとえば、サメがキンギョに向かって、「おまえの泳ぎ方は間違っている」とか、「君は泳ぎ方が下手だ。そんな泳ぎ方ではダメだ」などと非難するのは愚かなことでしょう。ばかばからしい話です。



「自分は悪行為をしない」と決める



そこで、世直しをしようとするのではなく、こう考えてください。

「世の中の人は悪行為をする。だからこそ、私は悪行為をしない」と。

ブッダの戒めに従って生きるのです。


たとえば、妻が間違っている…、夫が間違っている…、親が間違っている…、子どもが間違っている…、会社の人が間違っている…、友だちが間違っている…、世の中の人はみんな間違っている…、と考えて、「いい加減にしろ」と怒る人がいるとしましょう。

その人は、自分が世直しをしたいのです。

奥さんは旦那さんを直したいんです。でも、いくら言っても聞いてくれませんから、腹が立ちます。

親は子どもの間違いを直したいけれど、子どもはまったく聞いてくれません。

上司は部下を直したいのですが、いっこうに聞いてくれません。

では、どうしますか?

怒って自分が自己破壊するのでしょうか?

ばかばからしいのです。


他の人は性格がだらしなくてもかまいません。

それを直す必要はありません。

直せるなら直しますが、直せないでしょう。

それで、あなたに戒めがあるのです。


「他の人は悪行為をする。だからこそ、私は悪行為をしない」

これは「サッレーカ・スッタ」(削減経)のポイントです。

経典には、

他人は殺生するが、我々は殺生しないように戒めましょう。 

他人は与えられていないものを盗るが、我々は与えられていないものを盗らないように戒めましょう。 

他人は嘘をつくが、我々は嘘をつかないように戒めましょう。 

他人は陰口を言うが、我々は陰口を言わないように戒めましょう……

などとあります。

これで、すべてが解決するのです。


他人は不正をしたり、足を引っ張ったり、落とし穴をつくったり、嫉妬したり、悪口を言ったり、騙したり、盗んだり、非難したり……、きりがありません。

だからこそ、私はそういうことをしませんと決めるのです。


旦那さんが奥さんの言うことをなかなか聞かないなら、奥さんは、「いいですよ、私はしっかりした人間になります」と決めれば、それでその問題は解決するのです。


ここでお釈迦様は「世の中の悪」を、自己完成のために使うことを見事に教えています。

お釈迦様ご自身は使っていませんが、私たちにそのやり方を教えているのです。

「他人は悪行為をする。だから、君は悪行為をしないでください」と。


そう言われると、やる気が出てきます。俗っぽくいえば、悪行為をする人を見て、「あなたみたいな人にはなりません」と決めることです。

そう考える場合、相手を直そうとしていませんね。その人の悪い性格が、自分を直すための助けになっているのです。


(続きます)


生きとし生けるものが幸せでありますように


2019/03/21

対話と理解「善悪とは?⑦-2」


親が子どもを正そうとするとき…、妻が夫を正そうとするとき、夫が妻を正そうとするとき、上司が部下を正そうとするとき、私たちは一方的に説教するということがよくあります。

ですが、説教してあまり意味がありません。効き目はほとんどないのです。

そこで、説教するのではなく、相手の意見を聞いて、理解しながら、客観的に事実を語る「対話」が、有効的で、役に立ちます。

私たちの悪いところは、一方的に話すということです。

対話をしようとしないのです。

私も講演するときはいろいろ工夫をしています。

くだらないことや冗談を言ったりして、皆さまの頭のなかだけでもいっしょに対話しましょうという感じで話すのです。

話すときは、相手が理解して納得がいくよう、努力しなくてはなりません。

また、相手に「どう思いますか?」と聞いたり、相手の話にたいして「そうですか」「なるほど」などと言ったりして、対話をするのです。

もし、ちょっと間違ったところが見えたら、「ここはこうしたらどう?」とか言い、そうやってお互いに話し合って対話することが必要です。


「善悪とは? 対話と理解」スマナサーラ長老 文責:出村佳子

これが人を育てる方法です。

自分が上に立って人を育てるのではありません

人に指図するのではなく、互いに対話し、話し合って、合意に達するのです。

これは結構、自分がしっかりしていないとできることではありませんが、心が成長すればするほど、相手のことを理解することができるでしょう。

理解があれば、いつでも相手と合意に達することができるのです。


(続きます)


生きとし生けるものが幸せでありますように


2019/03/14

慈悲の瞑想 ~病に苦しんでいる方へ


病に苦しむ人、病院にいる人たちが、
安穏でありますように。
幸せでありますように。
痛み、苦しみ、落ち込み、失望、不安、恐怖が
なくなりますように。
慈しみで包まれますように。
心と身体が慈しみで満たされますように。


慈悲の瞑想
Sabbe sattā bhavantu sukhitattā