2018/11/29

人生改良計画②-1

適応能力を育てる からの続き


改良すべきものは何か?


ある食べ物を見て「これはどうすればおいしくなるか」と考えるのではなく、おいしく感じられるように自分の身体を適応させることが大切です。

そうすると、身体の能力が成長するのです。

顔の肌が荒れて困っている人は、いろんな化粧品を塗って肌の荒れを隠すのではなく、肌が環境に適応するように肌を改良すればよいのです。

化粧品にはけっこう刺激の強い物質が入っていますから、そういうものを毎日顔に塗っていると肌が痛み、老化しやすくなります。

ですから、自分の肌を強くしたほうがよいのです。
寒さや暑さなどの自然の問題に適応するのはあなたの仕事だよ、と身体に教えてあげてください
そうすると、細胞が生き返って元気になるでしょう

化粧をしない女性は、歳をとっても比較的、肌がきれいなものです。若いときに化粧をしない人を見たら「ひどい」と皆さんは思うかもしれませんが、そういう人は歳をとったとき、しわは出ますが肌が荒れることがなく、きれいなままでいられるのです。

私たちは自分の身体の適応能力を育てるべきなのに、それはおいておいて外のモノに頼っています。そうすると、当然身体の能力は弱まっていきます。これは改良ではなく、逆の方に向かっているということです。


俗世間でよくいわれる「合理的にする」という考え方は別に悪いことではありません。

便利にしたい、快適にしたいという考え方は別に悪いことではないのです。

ただ、それだけでは足りません。
ものごとを合理的にしたいなら、何が必要でしょうか?
合理的に考えるのは誰ですか? 

自分です。ですから、改良すべきものは「自分の思考」なのです。つまり「非合理的な思考はしない」という性格を育てるのです。




正しい改良とは「自分が合理的になる」ことです。合理的というのは「理屈っぽい」という意味ではありません。

ものすごく理屈っぽい人もいますが、そういう人たちは非合理的で、非論理的で、他人を侮辱したり、非難したりして凶暴です。頭が混乱し、「これはどうか……、あれはどうか……」とあれこれ考え続けて悩みますから、大変苦しんでいるのです。


合理的な思考


では、合理的な思考とはどのようなものでしょうか?

これは、無駄をなくして「この問題にはこれが答えです」とちゃんと問題と答えを発見できることです。

データに基づいて客観的に考え、結論をだし、きれいに終わることです。

逆に「引きずる思考」はよくない思考で、論理的ではなく、無駄な思考です。

何らかの考えを引きずって、なかなか忘れられないでいるなら、それは妄想であり、自分をダメにします。

ですから何があってもサッと考えて、終わりにしてください。無駄な思考をやめるのです。


「合理的な生き方」はお釈迦さまが推薦する正しい生き方です。外のモノに合理性を求めるのではなく、自分が無駄な思考をしない、役に立たない思考をしないという生き方をすることが大切なのです。(続きます)
スマナサーラ長老

根本仏教講義『人生改良計画②-1』文責:出村佳子





2018/11/26

人生改良計画①-2


「改良」の問題点からの続き


このように私たちは「よくなりたい」「改良したい」と考えていますが、このような改良では、自分を改良するどころか、逆の結果になってしまいます。


「より美しくなりたい」「よりスリムになりたい」ということを望んでダイエットをする若い女性たちは、逆に健康をそこない、摂食障害(拒食症や過食症)など、どうにもならない精神病にまでおちいることがあります。

摂食障害に苦しむ女性たちは、もともと精神的にトラブルがあったわけではありません。

元気に明るく遊んでいたかわいい女の子たちなのですが、年頃になってくると、まだ身体が小さいのに「痩せなくちゃいけない」と考えてダイエットをするのです。

他人から見ればかわいくてきれいだし、それ以上痩せたら体力がなくなって勉強も仕事もできなくなるだろうし、見るかぎり「もうちょっと食べなさい」と言いたくなるような女の子たちなのに、本人は「自分は太っている、痩せなければならない」と言うのです。

それでごはんを食べず、栄養失調になり、体力がなくなって、仕事もできなくなるのです。

栄養が不足するとどうしてもイライラしますから、怒りっぽい性格になってしまいます。
こうして人生が苦しくなっていくのです。


「よくなりたい」という気持ちが、悪い結果をもたらしています。よくなろうと頑張っていますが、結果はすべてあだ。そうするとやけになり、さらに踏ん張ろうとします。そうやって、苦しみを増やしているのです。



健康を追い求めつつ



私たちは「もっとおいしく食べたい」と思って、食べ物が持っている「維持する部分」を捨てています。

たとえばリンゴなら皮ごと食べればいいのに、かたいとか、おいしくないとか、食感が悪いという理由で、皮を剥いて捨てています。

でも、リンゴの栄養分は皮のすぐ内側に多く含まれています。真ん中はほとんど水分と糖分だけ。リンゴは、外部のものから身を守らなくてはなりませんから、健康を維持し、身を守り、細胞を守る成分はすべて皮のすぐ内側にあるのです。

なのに、皆さんは皮を厚く剥いて捨てているでしょう。見栄えがよいようにとか、食べやすいようにといって、栄養を全部捨てているのです。

私たちは「健康、健康」と言いながらも、実は健康を壊す道を歩んでいるのです。



適応能力を育てる



では、どうすればよいのでしょうか?
「もっとおいしいものを食べたい」なら、食べものを改良するのではなく、環境や食べ物に適応できるよう、自分の身体を改良することです。

身体は結構すぐに慣れるものです。人間には「自然に適応する能力」があります。パンダとは違って、かなり適応能力があるのです。

しかし私たちはその適応能力を放棄して、パンダと同じ状態になっています。

今のパンダは完全に守ってあげて人工的に繁殖しないと子供をつくれない状態にあります。
中国では、絶滅の危機からパンダを救おうとよい環境のなかで育て、人工的に繁殖させていますが、結局のところ、自分で自然に繁殖する力がなかったらダメでしょう。このようなやり方では、救ったことにならないと思います。

同様に、人間もパンダと同じ状態になっていて、人工的な環境でないと生きていられなくなっているのです。(続きます)
スマナサーラ長老

根本仏教講義『人生改良計画①-2』文責:出村佳子


2018/11/24

希望と欲望④-2

正精進(Sammā vāyāma)には4つあります。


正精進① 今ある悪いところをなくす






ひとつ目は「自分の悪いところやダメなところ、いけないところを直すために努力する」ことです。

この「悪いところ」とはどういう意味かというと、お釈迦様が使われた言葉は、不善(akusala)で、「巧みではない、上手ではない、下手」という意味です。

何か不善の性格があるなら、それを努力して直さなくてはなりません。

不善にはいろいろありますが、とくにお釈迦様が厳しくおっしゃったのは「怠けてはならない」ということです。



■ 朝早く起きる


朝早く起きられない人は、努力して、その怠けの性格を直したほうがよいでしょう。徹夜で仕事をした場合は例外ですが、一般的に私たちは夜寝て朝起きて活動します。朝早く起きれば、仕事がたくさんできます。

とくにスリランカなどの南の国では、朝4時ごろに起きるとかなり元気に能率よく仕事ができます。

10時や11時ごろになると気温が上がって暑くなり、身体が疲れて仕事のスピードが落ちてしまうのです。それで日中、長めに休んだあと、また仕事を再開し、夜の7時か8時ごろまで仕事をします。

日本は気候や環境が違いますが、それでも朝早く起きれば時間を有効に使うことができますし、効率よく1日を過ごすことができるでしょう。


■ 浪費ぐせ


お金の管理が下手な人は、頑張ってそれを直すように努力しなくてはなりません。

お釈迦様は在家の方にたいして、「財産の管理は家庭のあるじである奥さんにまかせてください」と教えられました。

旦那さんは外で仕事をしてお金を持ってくる。奥さんがそのお金を管理して家計のやりくりをするのです。

そこで、もし奥さんが贅沢好きで、旦那さんの稼いだお金をすべて自分の欲しいものに使っているなら、当然、その家庭は崩壊するでしょう。贅沢もお金の浪費も、不善な生き方です。

そういう性格のある人は、努力して戒めて、心を直さなくてはなりません。

といっても、もし奥さんが精神的に弱くて、浪費ぐせの性格を改めることができず、品物を見たら買い物せずにはいられない、買物症候群とよばれるような病気を持っているなら、奥さんにお金の管理をまかせることはやめてください。そのほうが家族のためになるでしょう。


誰にでも弱点や欠点はあるものです。

そこで、そうした自分の悪いところを見て、その悪いところを直す努力をすること、これが幸福への道です。

私たちには悪いところやだらしないところがいっぱいあります。ですから、日々、努力精進しなければなりません

ひとつ悪いところを直すと、別のものが顔をだします。隠れていて、さっと顔をだすのです。

それを直すと、また別のものが顔をだします。

ですから常に努力して、自分の悪いところを直していかなければならないのです。



正精進② やったことのない悪いことを、これからもやらない


正精進の2番目は、今までやったことがない悪い行為を、これからもやらないように努力することです。


世の中には悪行為や破壊行為がいっぱいあります。
たとえば、一度も麻薬に手をだしたことがないのに、悪い友達に誘われて、じゃあ一回だけやってみようと興味本位で手をだす人もいるかもしれません。

麻薬を使用することは、悪行為です。

そこで仏教は、「あなたは今までやったことがないのだから、これからも頑張って、どんなに誘惑されても、やらないことを守りとおしてください」と教えます。

その点では、徹底的に頑固になってもかまいません。


一度も酒を飲んだことがないとしましょう。会社の上司や同僚に誘われて居酒屋に連れていかれ、みんなに「まあいいじゃないか、一杯だけ飲みなさい」と誘われても、断るべきです。

私は一度も酒を飲んだことがないのだから、これからも絶対に飲みません、という態度をしっかり守ったほうがよいのです。

このように、今までやったことのない悪い行為はこれからもやらないよう、自分を戒めなくてはなりません。

世の中は誘惑だらけです。社会を見ると、何十年もまじめに生きてきた人が突然悪いことをする、ということがあります。50歳までまじめに仕事をしてきたのに、51歳でお金を盗んだとか、不正をしたとか……。

それで、今までこつこつ積み上げてきた成果も信頼も、全部消えてなくなってしまうのです。

ですから「今までやったことのない悪行為は、これからもやらないように努力すること」が大切なのです。


あるやり手の若い営業マンが自分の会社に入ってきたとしましょう。その人はうまい口調で人を騙し、何かちょっと不正をしたりして、顧客をたくさん獲得していきました。

自分はこつこつ正直に営業をやってきたのに、その人に先を越されてしまいます。それでどんどん悔しくなるのです。

おまけにその人はブランドのネクタイを締め、ブランドのカバンを持ち、ブランドの腕時計を身につけています。
でも、自分は3千円の時計。なんで自分はこんなに苦労しなくちゃいけないのか……、まじめに働いているのがばからしい……、とみじめな気持ちになったりします。
これも一種の誘惑です。

お釈迦様は、「あなたはそれでいい。悪いことはやらないでください。あなたは今まで悪いことをやらなかったのだから、いくら誘惑されても、頑張って、歯を食い縛って、自分のポリシーをつらぬいてください。勇気を持ってください。間違ってでも悪いことをしてはなりません」と教えているのです。

これが幸福への道です。


(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望④-2』

2018/11/22

人生改良計画①-1

New

「改良」の問題点 


人はよく「自分を向上させたい」「改良したい」と言っています。では、どのように「向上しよう、改良しよう」と考えているのでしょうか?


一般的に私たちはなんでも「合理的に」「より便利に」「より快適に」することが改良だと思っています。


より便利に、よりスピーディーに、より快適に生活したいと考えて、さまざまな機械や電化製品を開発しているのです。

このようなことを「改良」と呼んでいるのです。


しかし、ここには大きな問題があります。それは、自分を改良しないことです。


モノや機械はどんどん合理的になっていくものの、人間は非合理的なままですから、非合理的な人間が合理的な機械を使いこなせない、という問題が出てくるのです。


たとえば医療の世界をみると、技術が進歩すればするほど医療ミスが多くなるという傾向があります。


進歩が激しいため、医者たちは機器の使い方がわからず、十分に使いこなせないのです。


たとえば1千万円かけて最新機器を導入しても、その機器をうまく使えないまま、数か月経つと、また新しい機器が発売されます。


医療機関は、医者の腕だけでは現代のさまざまな病気に対処することができないということを知っていますから、最新の機器を買いたがりますが、なにしろ最新ですから、導入するたびに使い方を覚えなくてはなりません。


このような状態では、医療関係者は新しい機器に慣れることに精一杯で、患者のことを考える余裕がなくなってしまいます。


このように、自分はそのままで、機械だけが合理的になると、問題が生じるのです。



改良の中身は?



私たちは「自分を改良したい」と考えていますが、その中身はどのようなものかというと、たいしたことではありません。


男性なら「よりかっこよく」「より力強く」「よりもてるように」、女性なら「より美しく」「よりきれいに」「よりスリムに」ということが自己改良だと考えています。


自分を向上させたいという若い男女が何を考えているかというと、そういうことに頑張っているのです。

それで、あらゆる美容法を試みたり、流行を追いかけたり、ダイエットをしたり、男性なら、身体を鍛えたり、お金がないのに見栄を張って車やバイクを買ったりするのです。


中年になると、「より元気に」「より健康に」という目的が出てきます。

いろんな健康法が次から次へと出てきますし、健康食品やサプリメントはきりがなくあります。


仕事の世界では「上達」や「スキルアップ」「キャリアアップ」というものを目指しています。そのためのスクールやセミナーがどれほどあるでしょうか。

マニュアル本もいくらでもありますし、アドバイザーたちもたくさんいます。


食べ物の分野では「よりおいしく」「より手軽に」「より安く」ということに頑張っています。ファーストフードのお店などは、その結果できたものでしょう。


また、現代人、とりわけ都会に住む人たちは、より利便性を求めてスーパーやコンビニで冷凍食品や加工食品を買って食べるようになっています。

でも、そういうものには何が含まれているかわかりません。着色料、香料、酸化防止剤、漂白剤、保存料などたくさんの添加物が入っていますから、決して身体にいいとはいえません。

ときどき、「こんなものを食べたらどうかなあ」と思うものもあります。おいしいと思って食べているものが、身体を壊す場合もあるのです。それを私たちは毎日のように食べています。

なかには、身体がものすごく拒絶反応を起こすものもあります。(続きます)
スマナサーラ長老

根本仏教講義『人生改良計画①-1』文責:出村佳子

2018/11/20

希望と欲望④-1



正しい希望の持ち方



これまで「希望と欲望」のうち「欲望」について説明してきました。
今回は、「希望」についてお話しましょう。 


仏教は希望を持つことを否定しているのかというと、そうではありません。それどころか、「希望を持って頑張りなさい、励みなさい」と、大いに応援しているのです。





八正道のなかに「正精進」という言葉があります。パーリ語で Sammā vāyāma(サンマー・ワーヤーマ)といいます。

Sammāは「正しい」、vāyāmaは「精進する、努力する」という意味で、「正しく努力する」という意味になります。


そこで、私たちは希望がないと、なかなか努力しません。
なぜ努力するのかというと、何らかの希望や目的があって、それを実現させるために努力するのです。


希望のない人は、何も努力しようとせず、ただ怠けているだけです。仏教はこの「怠け」や「怠ること」をものすごく嫌っています。


お釈迦様は怠ける人のことをきつく批判しました。とくに出家者にたいしては厳しいですから、出家者が怠けたら、もう人間扱いしないのです。




学ぶことの少ない者は
牛のように老いる。
肉は増えるが、智慧は増えない。
(ダンマパダ 152)

Appassutāyam puriso, 
Balibaddho'va jîrati;
Mamsāni tassa vaddhanti,
paññā tassa na vaddhati.




怠け者は、食べて楽をして、老いていくだけです。智慧はまったく成長しません。お釈迦様は怠ける人のことを牛のように見て、人間扱いしなかったのです。



正しく頑張る


 
仏教は高度な道徳である「精進・努力」を高く評価しています。

しかも、ただ努力すればいいという、なまやさしいものではなく、「瞬間も怠けてはなりません」と厳しく教えています。

精進・努力というのは、わかりやすくいえば、「頑張る」という意味です。

でも、なんでもかんでも頑張るというのではなく、正精進(Sammā vāyāma)をするということです。


正精進とは、「道徳的で立派な人間になるために、正しくコントロールして頑張る」という意味です。
(続きます)


根本仏教講義『希望と欲望④-1』
スマナサーラ長老法話


2018/11/18

希望と欲望③-2


カッとなる子供


現代の子供たちはなぜカッとなってキレやすいのかといいますと、おそらく途轍もない欲望と誘惑で心がいじめられていると思います。


一流の学校に進学したい、いい成績をとりたい、勉強しなくてはいけない、でも遊びたい、ゲームをやりたい、サッカーもやりたい、あれをやらなくてはいけない、これもやらなくてはいけない、ああだこうだと、ありとあらゆる欲望と、さらには親の過剰な期待や要望がのしかかってきて、子供たちの心が病んでいます。


欲望が強いと、それは逆の性質の怒りとして表面に現れます。それでカッとなったり、キレたりするのです。



猛獣(欲)の管理



お釈迦様は、ノーマルな欲に関しては、それほど厳しく言っていませんが、異常な欲に関しては厳しく戒めています。異常な欲は、猛獣のようなものです。


そこで、猛獣をどうしても自宅で飼いたいというなら別に飼ってもいいのですが、そのときはかなり気をつけなければなりません。

たとえば毒ヘビを飼うときは、首に巻いて飼ってはなりません。自分が殺されます。毒ヘビと遊んではならないのです。


そうではなく、どうやって飼えば安全か、エサをあげるときはどうすればよいか、万一噛まれたときはどうすればよいかなど、どのように扱えばよいのかを十分調べて、慎重に扱う必要があります。

そうすると、危険が低い状態で毒ヘビを飼うことができるのです。もし、格好いいから、美しいから、珍しいからといって、何も注意せず、毒ヘビと遊んでしまったら、その人の命は危ないでしょう。
(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望③-2』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子


2018/11/16

よい瞑想と悪い瞑想 ②






A:回 答 ―― グナラタナ長老


よい瞑想と悪い瞑想①の続き

怒りを観察する

「怒りを観察する」グナラタナ長老(著)出村佳子(訳)


たとえば怒りが湧き起こった瞬間、気づきを使って、

「怒り、怒り」とか、「これは怒りだ。怒りは心のやすらぎを壊す」とか、「いま、心臓の鼓動が速くなっている」などと、心や身体で起きていることを、あるがままに観察してください。

怒りが生じるとすぐに、脳は、

「心臓の鼓動を早めろ!」
「血圧を上げろ!」

といった指令を身体に送ります。感情は、身体に影響を与えるのです。観察すれば、このことがわかるでしょう。

感情を観察してください。
観察を続けていると、怒りや恐れ、不安、欲がゆっくり消えていくのがわかるでしょう。

もしかすると、すぐには消えず、少し時間がかかるかもしれません。

でも、たえず観察することによって、感情は消えていくのです。


心に生じる諸々の現象を、マインドフルに観察し続けることは、私たちがすべき最も大事なことのひとつです。
ならば、どうしてそれらが悪いものだと言えるでしょうか?

また、あなたは「よい瞑想」と言っていますが、それはどういう意味でしょうか? 

「よい瞑想」とはなんでしょうか?

おそらく心が静かになって、それほど忙しくない状態になっているのかもしれません。

でももしかすると、いわゆる「よい瞑想」をしていると、気持ちがよくなって、だんだん眠くなるかもしれません。

そして「ああ、瞑想がうまくできている……。瞑想がよくできている……」と誤解するかもしれないのです。

でも、それはよい瞑想ではありません! 
それこそ、悪い瞑想なのです(笑)。

眠気を感じたら、その眠気を観察してください。
精進して、なんとか目を覚ますようにし、眠気を取り除くために何かをするのです。

たとえば、深呼吸を3回して、体中の血液に酸素を送るのもよいでしょう。

あるいは姿勢を変えて立つ瞑想をし、眠気を追い払うこともできます。

また、眠くなっているときでも、その眠気に気づき、眠気を観察するなら、それは観察しているのだから、悪い瞑想になりません。

このような理由から、瞑想には「よい瞑想」も「悪い瞑想」もないのです。

これは、あなたが瞬間瞬間、湧き起こる感情をどのように扱うか、ということによります。

感情が生じた瞬間、それに気づくなら、どんな状況も「よい瞑想」になるのです。


暴走する馬車を止めるように、
湧き起こる怒りを制する者、
私はその人を「御者」と呼ぶ。
他の人は、ただ手綱を持つだけである。
(ダンマパダ222

***

Yo ve uppatitam kodham,
Ratham bhantam va dhqraye;
Tam aham sarathm brumi,
Rasmiggaho itaro jano.
(Dhammapada 222)