2019/01/23

自己を観察し、平等を理解する

善悪とは?⑤-1

差別することは悪行為です。世の中の人は他人を差別し、指をさして、非難合戦ばかりしています。でも、相手に指をさすとどうなりますか? 


1本の指を向ければ、3本の指は自分に向いています。「悪いのはお前だ」と言って相手をさすと、残りの3本は自分をさしています。ですから、他人を非難することはあまりにも愚かな行為です。



「生命」の定義



生命には貪瞋痴があります。その貪瞋痴によって、生命は輪廻転生しています。これは生命の定義でもあります。貪瞋痴があるものを「生命(sattā)」といい、貪瞋痴がなければ「生命」ではありません。


ですから聖者は「生命(sattā)」とはいいません。聖者には特別な仏教用語があり、「ariya」という言葉を使っています。これは「乗り越えた」という意味です。


「sattā」は、日本語では「衆生」や「有情」という訳語になります。感情があること、つまり貪瞋痴があるという意味です。



貪瞋痴の強度によって、区別が現れる


 
貪瞋痴の量は、生命によって異なります。貪瞋痴が働くためには、身体が必要ですからね。身体で貪瞋痴が制限されるのです。


たとえばアリが怒っても、人を殺すことはできませんし、スズメが怒っても、人を殺せません。


でも、人が怒ると、アリやスズメの巣をまるごと壊して、潰すことができるのです。この差です。貪瞋痴を動かす能力によって、貪瞋痴の強弱やランクが異なるのです。私たち人間の貪瞋痴と、アリやスズメの貪瞋痴の強さや量は違うのです。




他の生命を非難するのは愚かな行為



だからといって、人がアリやスズメを非難し、ばかにするのは間違っています。「生命みなに貪瞋痴がある」ということは、すべての生命に共通していることです。ですから、貪瞋痴で生きている生命が、他の生命に指をさして、ばかにすることは、とんでもない愚かな行為です。


たとえばアリに向かって、「お前は小さいからたいしたことができない」とか、ヘビやコブラにたいして、「身体が小さいのに瞬時に人を殺して、お前はとんでもないやつだ。殺される前に、お前を殺してやる」などと考えることは愚かなことです。


アリも、ヘビも、コブラも貪瞋痴で生きています。人も、貪瞋痴で生きています。みな同じ貪瞋痴で生きているのです。そこに差はありません。





自己を観察し「平等」を理解する



私たちはみな平等です。この平等ということを理解するために、自己観察をしなければなりません。


自分のこころを観察してみてください。そうすると、欲があること、怒りがあること、嫉妬や怠けがあること、無知があることが見えてくるでしょう。このとき「あー、気持ち悪い」と見るのではなく、「みな同じだ」と見るのです。誰だって貪瞋痴があります。強弱やレベルの差があるだけです。


それから、「私は嫉妬深い。なんて情けないか」と見るのも、正しい自己観察ではありません。そうではなく、「私に嫉妬がある。嫉妬がちょっと強い。嫉妬はどんな生命にもある……」とそのように自己を観察すると、落ち込むことがなくなります。「生命は平等だ」ということがわかるのです。


これが「区別はあるが、平等」ということです。差があるのに、平等だとわかるのです。差異があって平等なんです。区別があって平等なんです。これは現代社会で言われている、いい加減な平等ではありません。



こころの広い人になる



こころの広い人は他人に指をさしません。「あー、そういうことか」と理解して落ち着いています。


とえば自分の子供が万引きして警察につかまっても、混乱したり、焦ったり、大声で怒鳴ったりしません。落ち着いていると、子供のこころの中が見えてきます。この子はこころに何か怒りがあってやったんだ、ということが。


だいたい子供が万引きするのはカネやモノが欲しいからではありません。それは大人です。子供の場合、中学生や高校生になるとだんだん勉強についていけなくなって、学校がいや
になって、遊びたくなるんです。でも遊ぶカネがなくて万引きしてしまうというのが本当なんです。子供はカネそのものが欲しいわけではありません。こころに何か別の問題があるのです。社会にたいして、親にたいして、学校にたいして反発したい、暴動を起こしてやりたいという別な衝動があるのです。


しかしまだ子供ですから、悪い行動をしたら自分が破滅するということは理解できません。親や学校に迷惑かけたいと思って万引きして、わざとつかまるのです。


学校はそれなりにうまくごまかすかもしれませんが、子供の人生はそれでかなり苦しくなるのです。


そこで、こころが広い親だったら、子供の本当のこころがわかります。そうすると、解決策が見えてきます。子供をいきなり怒鳴ったり、非難したりしません。


落ち着いたこころで、「もし今度何か問題があったら言ってください。私はあなたの味方です。私に言いたくなかったら、信頼できるだれか年上の人に言ってください。学校に相談しやすい先生がいるなら、その先生に相談してください」と言います。それで、何か解決策が見えてくるのです。


このように、「平等」ということを正しく理解すれば、世の中のさまざまな問題は解決できるです。(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
善悪とは?⑤-1『自己を観察し、平等を理解する文責:出村佳子






2019/01/19

何を「目的」にするか?(希望と欲望⑥-2)



第一に持つべき目的とは?



私たちは、希望や目的がなければ、なかなか努力しようとしません。だからといって、なんでもいいから目的を持てばいいというのではなく、「正しい目的」を設定することが大切です。

そこで、私たちの一番悪いところは、心です。心が汚くて考え方が正しくないから、さまざまな悩みや苦しみが生まれてくるのです。

ですから、ものごとを正しく考えて、正しく判断できるよう、日々、自分の思考を直すこと、そして、欲や怒り、嫉妬、怠けなど悪い感情を取り除き、心を清らかにすること、これを第一の目的にして、精進することが大切です。

これが、人類が持つべき普遍的な目的です。








世俗社会における目的



それから、私たちは生きる上で、そのときそのとき世俗的な目的を設定しなければならないことがあります。


たとえば、学生なら卒業前に就職先を決めなければなりません。会社の経営者なら会社をいかにうまく存続させていくか、目的を持って行動しなければなりません。


そこで、目的を作るときに考慮すべきポイントが3つあります。





(1) 実行可能かどうか



まず、「自分に実行できるかどうか」ということを計算することです。


自分に実行できそうな具体的な目的を作ることが大事です。実行できない目的をわざわざ作って自己破壊する必要はありません。


私たちには夢や希望、やりたいことがいっぱいあります。だからといって、全部実現できるはずがありません。ですから、自分に実行できる具体的な目的を作ってください。そして、その目的に達するよう、しっかり頑張るのです。


それを達成したら、次にまた新しい目的を作ればよいのです。


たとえば、物理や工学が苦手な人は、エンジニアになろうと思わないほうがいいでしょうし、生物が分からない人は、医者になろうと思わないほうがいいでしょう。


エンジニアも、医者も、世間から見ればかっこいいかもしれません。だからといって「自分もなりたい」と思ったら大間違いです。自分が本来持っている能力もなくなってしまうでしょう。


科学よりも文学に強い人は文学で頑張ればよいですし、文学や歴史、政治が苦手な人は、理工系で頑張ればよいのです。かっこいいからとか、いま流行っているから、みんながやっているからといった理由で決めるのはよくありません。



日本でサッカーが流行りだした頃、男の子たちはみんなサッカーボールを蹴って遊んでいました。お母さんたちも「自分の子供をサッカー選手にする!」と張り切っていました。私はそれを見ておかしくて笑っていたのです。あれはマスコミが人気を作っただけです。人は何でも鵜呑みにする傾向がありますから、お母さんたちはマスコミが宣伝する人気に引かれて「息子をサッカー選手にする」と考えるようになったのです。

だからといって、簡単にサッカー選手になれるでしょうか? 

なるには、走るのが速くて、体力があり、筋力や瞬発力、持久力、ボールを上手にコントロールする能力などさまざまな能力が必要です。

ですから、いくらサッカー選手がかっこよく見えても、自分がなれるかというと、それは雲の上の話です。


人気があるからとか、みんながやっているから自分もやりたい、という目的はよくありません。誰にでも、自分にできることがひとつぐらいはあるはずです。その自分にできることを見つけて、目的にすればよいのです


スポーツや勉強が苦手でも料理が上手なら、料理の腕を磨いて専門家になればよいのです。プロになれば、それなりに社会に役立つことができます。ですから、まず、自分に実行可能なことを目的に設定してください。






(2)道徳的かどうか



次に、「道徳的な目的」を持つことです。いくら目的が自分に実行可能であっても、それが「道徳的かどうか」ということを考えなくてはなりません。

つまり、他の生命に害を与えてはならない、ということです。

たとえば、声がきれいだから声楽家になりたいといって、昼夜、大声で発声練習をしていると、それは周りの人に迷惑です。声楽家になりたいなら、他人に迷惑をかけずに目的を達成することが大切です。






(3)自然や環境を破壊しないかどうか



利益を増やしたいとか、会社を発展させたいと考えて、自然や社会のシステムを破壊するような目的を作ってはなりません。

たとえば、現代はごみの問題や二酸化炭素の問題などがあります。いろいろな家電メーカーが、とにかく自社の製品を売って儲けることを目的にして、新しい製品を次から次へと大量に生産しています。消費者もそれに合わせて新しい物へ買い換えていきます。

生活が便利になることは悪いことではありませんが、新しい製品を作れば、当然、古い製品の廃棄の問題が出てきます。

古い製品はどこに捨てるのでしょうか? どのように処分するのでしょうか? 

自然や環境のことは何も考えていないのです。ただ自分の会社の利益のみを考えて物を生産すると、それは自然を破壊し、結局、生活環境を汚染することになるのです。





地球スケールと個人スケール



仏教は、自分勝手に目的を決めることは認めていません。私たちは生きる上で何らかの目的が必要ですが、その目的は「自然、社会、人類に害を与えないこと」でなくてはならないのです。


害を与えない商売なら、決して倒産しません。なぜ会社が倒産するかというと、会社の目的が間違っているか、あるいは作る品物が人々に必要ないかのどちらかです。


多くの場合、必要のない物を作っています。仏教では「人類に必要な物、なければ困る物を作ってください」と教えています。そうすれば、わざわざ誇大宣伝して強引に物を売るという問題は出てきませんし、いくら経済状況が悪くてもみんな買いますから、会社が倒産することはないのです。ですから正しい目的を持って正しく頑張ると、倒産する恐れがないのです。


目的には「個人スケール」と「地球スケール」の二つがあります。


「個人スケール」とは、たとえば旦那さんが「家族が楽に、生活できるよう、正しく頑張って仕事をして稼ごう」と小さなスケールで考えることです。家族のことしか考えていないからといって、これはわがままな考えではありません。


しかし、三菱やソニーなどの大企業が「自分の会社だけ儲かればいい」と小さなスケールで考えると、それは自然破壊につながります。


また、国家が自分の国だけよければいいと思ったら、その国は崩壊してしまうのです。


個人や家族の場合は小さな目的でもよいのですが、大企業や国家レベルになると、地球スケールで物事を考えなくてはならないのです。


(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望⑥-2』
スマナサーラ長老

2019/01/17

希望と欲望⑥-1


最上の希望は「悟り」

    


寝ずに精進したチャックパーラ長老Ven. Cakkhupala Thero



むかし、年配のお坊様が出家しました。このお坊様は、

「私は年をとっている。私には時間がない。だから寝るのがもったいない。雨安居の3か月間は絶対、横になりません」

と決意し、歩く瞑想や立つ瞑想、坐る瞑想に励んで、全然横になって寝ようとしなかったのです。

2日や3日なら大丈夫でしょうが、身体はだんだんもたなくなってきます。一般の人なら「ちょっとやり過ぎ」と思うでしょう。

ところがお釈迦様は「やめなさい」と修行を止めることはしなかったのです。


1か月ほどたつと、お坊様は病気になりました。目が痛くなり、充血して真っ赤になったのです。ある日、お医者さんが来て、即効性のある一番いい薬をお坊様にあげました。

でも、このお坊様はあまりにも必死に修行しているものですから、薬を目に入れるとき、横にならずに座ったまま入れるのです。

当然、薬は目の奥まで入りません。それで病気はなかなか治らなかったのです。


ある日、お医者さんがお坊様の目の具合を見に来ると、症状は前と全然変わっていません。そこで、また薬をあげました。でも、治りません。あげても、あげても、いっこうに治りません。お医者さんは考えました。

「私は目の病気に一番よく効く薬をあげているのに、どうしてこのお坊様には効かないのか」

そこでお坊様に、「薬をどのように入れていますか?」と聞くと、「座って入れています」と言うのです。

お医者さんは、「それでは薬が効くはずがありません。横になって入れてください」と言いました。

しかし、お坊様は横になりません。

お医者さんは、もうやりきれないとばかりに、

「これ以上の薬は他にないですよ。なのにお坊様は薬を正しく使用しません。これでは病気は治るはずがありません。ですから私は治療をやめます」

と言って帰ってしまったのです。


このときお坊様が何を考えたかというと、さらに自分を戒めたのです。

「自分は医者から見放された。もう誰も自分の面倒をみてくれない。だから解脱することにもっと精進しよう」

そう考えて、次の月も頑張ったのです。


頑張った結果、雨安居の3か月間が終わると、悟りを開いたのです。

しかし、悟ったと同時に両目の視力を失いました。失明したのです。

このことを知ったお釈迦様は、チャックパーラ長老のことを愚か者だとか、やり過ぎだなどと否定しませんでした。それどころか、

「すばらしい。とにかく頑張って精進して最高の目的に達しました」

と称賛したのです。そして、チャックパーラ長老を悟りを開いた聖者として、モデルにすべき大弟子の一人として認めました。


このお話はダンマパダの第1番目、第1章の第1偈に出てくる物語です。ですから、仏教はどれぐらい精進を奨励しているかということがわかると思います。


(続きます)

根本仏教講義『希望と欲望⑤-2』