女性が得た真の自由「仏教から見る女性⑦」から続きます。
自由と平等へ向けて
ブッダの時代から幾世紀も経た19世紀~20世紀、女性の解放と自由・平等を求める動きが、特に欧米諸国で活発に起こりました。
これは女性たちが高い教育を受けたことの結果です。
1848年、アメリカでスーザン・B・アントニー(Susan B. Anthony)が先頭に立ち、女性平等を訴える旗を掲げました。
女性が得た真の自由「仏教から見る女性⑦」から続きます。
自由と平等へ向けて
ブッダの時代から幾世紀も経た19世紀~20世紀、女性の解放と自由・平等を求める動きが、特に欧米諸国で活発に起こりました。
これは女性たちが高い教育を受けたことの結果です。
1848年、アメリカでスーザン・B・アントニー(Susan B. Anthony)が先頭に立ち、女性平等を訴える旗を掲げました。
②区別して調べる(択法覚支)
悟りを支える7つの要素(七覚支)の2番目はなんでしょうか?
択法覚支です。パーリ語で「dhammavicaya-sambojjhaṅga(ダンマヴィチャヤ・サンボッジャンガ)」といいます。
気づきを実践し、念覚支が育っていくと、次に「見ている現象をより明瞭に観る」ことができるようになります。これを「択法(dhammavicaya)」といいます。
択法とは、「さまざまな現象を区別して調査する/調べる」ことです。ものごとを区別して、その特性がよく見えるようになるのです。これは「差別」ではなく、「区別」という客観的な観察になります。
では、択法(ダンマヴィチャヤ)の「法(ダンマ)」とはなんでしょうか?
「法(ダンマ)」という言葉には意味がいくつかありますが、ここでは「現象の性質」という意味になります。
具体的にいえば、「善・不善」の性質、「非難されるもの・非難されないもの」の性質、「劣・優」の性質、「黒・白・混在」の性質です。
これらの性質を、区別して詳細に観察するのです。
悟りの1番目の要素「気づき(sati)」を十分に実践し、さまざまな現象を絶えまなく観察していると、次に「択法」がおのずと生じます。
択法が生じると、諸々の現象がよりはっきりと見えてくるのです。
心に生じる現象には、それぞれ固有の性質があります。
心はさまざまな現象を区別して、データどおりにその性質を見ることができるのです。
この経典で挙げられているのは、
・善いもの(kusala)
・不善のもの(akusala)
・非難を伴うもの(sāvajja)
・非難のないもの(anavajjā)
・劣っているもの(hīna)
・優れているもの(paṇītā)
・暗いもの(kaṇha)
・明るいもの(sukka)
・暗いものと明るいものが混在しているもの(sappaṭibhāgā)
です。
最後の3つを少し補足しておきましょう。
Kaṇhaとは、暗いものや黒いものという意味で、悪行為・罪のある行為(pāpa)を指しています。
Sukkaとは、明るいものや白いものという意味で、善い行為・徳のある行為(puñña)のことです。
Sappaṭibhāgāとは、暗いもの(黒)と明るいもの(白)の両方が混在しているもののことです。
こうした法(現象)を区別して観察するのです。
択法(dhammavicaya:ダンマヴィチャヤ)の択(vicaya:ヴィチャヤ)とは「調べる」という意味です。
悟りの第1の要素「気づき(sati)」を十分に実践していると、心に「調べ、区別する機能」が育っていきます。
それで「現象(法)がどのようなものか」と、より細かく見えるようになるのです。
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
愛する人を亡くした女性へのアドバイス「仏教から見る女性⑥」から続きます。
女性が得た真の自由
ブッダが法(ダンマ)を説き始めてから数年後、比丘尼サンガ(尼僧の僧団)が設立されました。このとき女性にたいして、出家の自由という新しい道が切り開かれたのです。
◎掉挙(浮ついた心、あせり)
「掉挙(じょうこ)」は、不善心所の「痴(ち)」( moha :モーハ )のグループに入っています。
「痴」とは、ものごとを正しく理解していないことです。
そこで、心に掉挙があり、落ち着きがなく、浮ついた状態では、何をしてもうまくいきません。
なぜでしょうか?
それは、無知が働いているからです。
そのときそのときの状況や自分自身のことを理解していないからです。
不善心所には、
美意識過剰な女性へのアドバイス「仏教から見る女性⑤」から続きます。
感情的な女性へのアドバイス
愛する人を亡くし、心がひどく混乱して、悲しみに打ちひしがれていた女性たちに、ブッダは「死は避けられないものである」ことを説かれ、四聖諦を教えられました。
そして、彼女らがその意味を深く理解できるよう、さまざまなかたちで法を教えられたのです。
◎「意」の防護は善きこと
Manasā saṃvaro sādhu
「心(意)」を制御することは、「行動」や「言葉」を制御するよりも、遥かにむずかしいことです。
なぜでしょうか?
それは、人の心や思考は止まることなくあちこち走りまわっているからです。
瞑想したことがある方なら、おわかりになるでしょう。
心は野生のサルのようなものです。
枝から枝へとせわしなく走りまわるサルのように、人の心も欲から欲へ……、怒りから怒りへ……、悩みから悩みへ……、後悔から後悔へ……、落ち込みから落ち込みへ……などと、対象から対象へ、せわしなく走りまわっています。
あれを欲しがり、これを欲しがり、あれをつかみ、これをつかみ、
あちらで不満を言い、こちらで不満を言い……、
このように、心はあちこち散乱しています。
そこに制御はありません。
わめき騒ぐサルのように、心は手に負えないものなのです。
これが、心の性質です。
心を落ち着かせることは大変なのです。
まず、この心の性質を理解するようにしてください。
チャンディマ長老(著)
『セルフケア:ブッダが教えた〈心〉と〈言葉〉と〈身体〉のととのえ方』
「意の防護は善きこと」より
9 忙しくしすぎない(appakicco)
現代人はどのくらい忙しいでしょうか? 働きバチのように、いつも忙しくしていませんか? みなさんの日々の生活はどうでしょうか?
仕事に忙しいだけでなく、雑務に追われている人もいます。
実際のところ、私たちが「忙しい」と言っているのは、何か優先すべきことがあるからです。
優先することが多ければ多いほど、日常生活は忙しくなるのです。
・頭のなかもシンプルに
それから、何もしていないのに、頭の中であれこれ考えて忙しくしている人もいます。
仕事をそれほどせず、人生をよりよいものにしようと努力もしていないのに、ただ「あれをしなければ、これをしなければ」と考えて、頭の中だけで忙しくしているのです。
日常生活であれ、頭の中であれ、ブッダは「忙しすぎることは善行為をする妨げになる」とおっしゃいました。
もし、「善行為をするのに忙しい」と言うなら、それは悪いことではありません。
ただ、その場合でも、執着しないよう気をつけなければなりません。
執着せず、適切に善行為をしていれば、そのときは忙しいというよりも、心に喜びや充実感を感じるでしょう。
ブッダは、「用事を減らし、多忙にならないことも、善い習慣のひとつである」と説かれたのです。
『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 6. 謙虚さ(anatimānī)」より
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)
男性と女性の特徴「仏教から見る女性③」から続きます。
結婚した女性へのアドバイス
ブッダは、家庭の平和や調和は主に女性の肩にかかっていることをよく理解されていました。
そして結婚生活における「妻の役割」について女性たちにアドバイスされたのです。
女性の社会的地位「仏教から見る女性②」から続きます。
男性と女性は異なる存在
ブッダは女性の地位を向上させました。
一方で、男性と女性の間には社会的にも生理的にも違いがあることを理解され、それぞれが日常生活のなかで実践すべきことを教えられました。