2019/02/06

不満と希望(希望と欲望⑦-2)



不満と希望


最後に、不満と希望の関係について、もう少し説明を付け加えておきたいと思います。

私たちは心の中で不満を感じていますが、それはあまりにも大雑把で、はっきり「これが不満」ということは知りません。そこで、「私はこういうことが不満です」と具体的に理解するようにしてください。自分の不満は何か、何が、どう不満なのか、ということを明確に理解するのです。そうすると、それはなくせる不満か、なくせない不満か、ということが分かりますし、それが分かれば、不満を解決する道も出てきます。そうでないと、ただ「なんとなく不満……」ということで終わってしまうのです。



そこで「なくせる不満」なら、実際なくすように努力します。とはいえ、その不満が消えれば、次の不満が現れて来るでしょうから、そのときはまた、次の不満を理解するようにしてください。



「なくせない不満」なら、きっぱりあきらめることです。私たちは夢や希望、欲望をいろいろ持っていますが、それらはあまりにも大雑把で曖昧なため、混乱しています。そこで、このときも現実的になって「自分は何になりたいか、どうなりたいか」と考えてみるのです。


もし「この夢は大きすぎる。あり得ないものを考えて妄想している」ということを発見したなら、「これは自分に無理」ということがはっきり分かりますから、きれいにあきらめて落ち着くことができるのです。


希望には二つあります。
一つは、実現できる希望。これは実現できるように努力することが大切です。


もう一つは、ただの夢で、とんでもない妄想から生まれた希望です。これが見つかったら、そんなことはあり得ない、不可能だ、とその場できれいに取り消してください。



たとえば、ある20歳の若者が歌手として大変人気が出て、短期間で億万長者になりました。それを見て「自分も億万長者になりたい」と思ったとしましょう。このとき、こう考えるべきです。お金が欲しいということは、いま自分にお金がないということ。あの歌手みたいに短期間で億万長者になれればいいけど、私の能力では無理。では、私の能力では実際どのぐらいのお金を稼ぐことができるだろうか。また、どのぐらいのお金が私の生活には必要か、と考えてみるのです。それで計算して、自分のレベルに収入の目的をダウンし、それを目指して頑張るようにするのです。


スマナサーラ長老法話 出村佳子(文責)



危険を知る人が、危険を避ける



不満を理解していないと、私たちの生き方は曖昧で、はっきりしません。これはちょうど目に膜が付いている人が森の中で迷っているような状態です。


目に膜が付いている人が、一人で森に入りました。目が見えないと、木にぶつかったり、つまずいて転んだり、蛇に噛まれたり、ハチや虫に刺されたり、迷子になったりと、非常に危険です。



そこで、目に付いている膜を外すとどうなるでしょうか?


その人は、ヘビや危険な獣がいることを見ることができますし、「森は危険である」ことを知ることができます。それから、東はどこか、西はどこかと方角を知ることもできます。それで順番に歩いて行き、やがて森から出ることができるのです。


たとえ出られなくても、目が見えなかったときほど危険な目に遭うことはないでしょう。木にぶつかることもなく、安全な道を選んで歩くことができるでしょう。


同様に、不満という森で迷子になっている人が、目に付いている膜を外し、はっきりと「見る力」を持ちます。何を見るかというと、不満の危険性です。不満の危険性を見る人には、どうすればその危険を避けられるかということが分かるのです。



このように、森の危険性を見る人が森の危険を避けることができるように、不満の危険性を見る人が不満を乗り越える道を知るのです。




助け舟はお釈迦様の教え



問題は、私たちに不満を見る明晰な理解力があるかということです。
残念ながら、ほとんどの人にはありません。その証拠に、世間はいつでも悩みや混乱、ストレスでいっぱいです。



このような中で、私たちの助け舟は、お釈迦様の教えです。お釈迦様はご自身で智慧を育て、悟りを開き、真理を発見され、その真理を他の人々にも分かるよう、明確に教えました。そこで、私たちが明晰な理解力を育てるためにまずすべきことは、智慧の完成者であるお釈迦様の教えを学び、心の明晰さを濁らせる悪い感情を一つ一つ勉強することです。嫉妬や怒り、落ち込み、物惜しみなどの悪い感情は、心の明晰さを濁します。


会社で仕事をしているとき、隣に座っている人はライバルだと考えて、その人にたいして敵対心をつくったら、必ず自分の心が汚れます。相手を倒さなくちゃいけないと思った人は、相手を倒す前に、自分が負けるのです。ですからお釈迦様は、「競争心はよくない、他人をライバルと思うことはよくない」と教えました。そういうことを勉強して、汚い感情を避けるようにするのです。


これは仏教を勉強することでしか得られません。仏教の教えを聴くことは、徳の中でも非常に高い徳で、聴けば聴くほど頭が冴えてきます心の悪い感情はどれか、善い感情はどれかを明確に分析し、区別し、理解できるようになるのです。



次にすべきことは、実践です。心の汚れを最終的になくすことができるのは、今の瞬間に気づくという「ヴィパッサナー」です。これは私たちの心を清らかにする唯一の道であり、最も効果的で、最も優れた実践法なのです。(了)



スマナサーラ長老法話


根本仏教講義『希望と欲望⑦-2』/文責:出村佳子


2019/02/04

1日の瞑想ーどのくらい瞑想すべきか?





A:回 答 ―― グナラタナ長老


毎日、少なくとも、朝と晩それぞれ30 分間ずつ瞑想すべきだと思います。もちろんこれは決まっている時間でもなく、義務でもありません。在家生活でのあわただしく忙しい生活を考えると、これが瞑想したいと考えている方がすべき、最低の時間だと思います。

私はたいてい瞑想する在家の方には、毎日、怠ることなく、朝と晩、瞑想するようすすめています。

また、日中、働いている方は、以前お話した「1分間瞑想」を職場でするようにしてください。1時間ごとに1分間、瞑想するのです。

時間があるときには、瞑想合宿に参加して、集中的に瞑想するとよいでしょう。

このように、
・朝・晩30分間の瞑想と、
・職場で1時間ごとにする1分間瞑想と、
・瞑想合宿での集中的な瞑想
を実践することで、定期的に瞑想することができるのです。







決意する



それから、「気づきの実践をしよう」と決意することが大切です。実際、気づく機会は、1日のうちどの瞬間にもあります。夜、ベッドに横になっているときでさえ、呼吸に気づきながら眠りにつくこともできるのです。


座る瞑想について


「座る瞑想」は、朝と晩にするとよいでしょう。これを習慣にしてください。朝は、感覚がまだ静かで、1日のあわただしさに影響を受けていませんから、瞑想しやすいと思います。他の誰よりも先に起きて、その時間を自分の心を育てるために使うことは、とても楽しいことです。


在家の方にとって、夕方や夜に瞑想するのはむずかしいかもしれません。部屋のテレビがついていたり、パソコンの音が鳴っていたり、子どもたちが喧嘩したり、携帯電話のベルが鳴ったりなど、騒々しいかもしれないからです。


しかし、そうした騒音が静まってから瞑想したり、あるいは静かな場所に行って瞑想できるなら、夕方や夜でも十分に瞑想できるでしょう。

ペースの早いせかせかした現代生活では、どうしてもストレスがたまってしまいます。しかし、そうしたストレスや過度の刺激を、より簡単に、より穏やかに、より賢く対処する方法があります。

夕方や夜、定期的に30分くらい座る瞑想をすると、日中の疲れを和らげることができます。瞑想することで、心や精神を休ませ、心のいらだちを落ち着かせることができるのです。

ほとんどの方は、仕事から帰宅すると疲れてくたくたになっていますから、「夜、よい睡眠をとることが必要だ」と考えています。たしかに睡眠を十分にとると、身体や心は回復するでしょう。でも、夜「よい瞑想」をすることは、睡眠時間を長くとるよりも、遥かに効果的に、その日のいらだちや混乱、さまざまな感情を落ち着かせてくれるのです。

また、少し長めの時間、座って瞑想することを習慣にすることも大切です。なぜでしょうか?

それは、たとえば1時間座る瞑想をしていても、実際にしっかり瞑想できているのは15分しかないかもしれないからです。ですから、瞑想するときは、毎回、少し長めに坐るとよいでしょう。


仏教Q&A1日の瞑想ーどのくらい瞑想すべきか?
グナラタナ長老
出村佳子訳


2019/02/01

When the machine takes over the brain…


気づきと慈悲の実践: When the machine takes over the brain…2011-09-02 投稿


The brain has infinite capacity;  it is really infinite. That capacity is now used technologically. That capacity has been used for the gathering of information. That capacity has been used to store knowledge — scientific, political, social and religious. The brain has been occupied with this. And it is precisely this function (this technological capacity) that the machine is going to take over. When this take-over by the machine happens, the brain — its capacity — is going to wither, just as my arms will if I do not use them all the time.


脳


The question is : If the brain is not active, if it is not working, if it is not thinking, what is going to happen to it?  Either it will plunge into entertainment —and the religions, the rituals and the pujas are entertainment— or it will turn to the inquiry within. This inquiry is an infinite movement. This inquiry is religion. 


A Timeless Spring