2024/06/15

現象をより明瞭に観る(択法覚支)『こころの栄養――悟りの栄養素:七覚支』より

 

②区別して調べる(択法覚支)


悟りを支える7つの要素(七覚支)の2番目はなんでしょうか?


択法覚支です。パーリ語で「dhammavicaya-sambojjhaṅga(ダンマヴィチャヤ・サンボッジャンガ)」といいます。


気づきを実践し、念覚支が育っていくと、次に「見ている現象をより明瞭に観る」ことができるようになります。これを「択法(dhammavicaya)」といいます。


択法とは、「さまざまな現象を区別して調査する/調べる」ことです。ものごとを区別して、その特性がよく見えるようになるのです。これは「差別」ではなく、「区別」という客観的な観察になります。





では、択法(ダンマヴィチャヤ)の「法(ダンマ)」とはなんでしょうか?


「法(ダンマ)」という言葉には意味がいくつかありますが、ここでは「現象の性質」という意味になります。


具体的にいえば、「善・不善」の性質、「非難されるもの・非難されないもの」の性質、「劣・優」の性質、「黒・白・混在」の性質です。
これらの性質を、区別して詳細に観察するのです。


悟りの1番目の要素「気づき(sati)」を十分に実践し、さまざまな現象を絶えまなく観察していると、次に「択法」がおのずと生じます。
択法が生じると、諸々の現象がよりはっきりと見えてくるのです。


心に生じる現象には、それぞれ固有の性質があります。
心はさまざまな現象を区別して、データどおりにその性質を見ることができるのです。


この経典で挙げられているのは、

・善いもの(kusala)

・不善のもの(akusala)

・非難を伴うもの(sāvajja)

・非難のないもの(anavajjā)

・劣っているもの(hīna)

・優れているもの(paṇītā)

・暗いもの(kaṇha)

・明るいもの(sukka)

・暗いものと明るいものが混在しているもの(sappaṭibhāgā)

 です。


最後の3つを少し補足しておきましょう。

Kaṇhaとは、暗いものや黒いものという意味で、悪行為・罪のある行為(pāpa)を指しています。

Sukkaとは、明るいものや白いものという意味で、善い行為・徳のある行為(puñña)のことです。

Sappaṭibhāgāとは、暗いもの(黒)と明るいもの(白)の両方が混在しているもののことです。

こうした法(現象)を区別して観察するのです。


択法(dhammavicaya:ダンマヴィチャヤ)の択(vicaya:ヴィチャヤ)とは「調べる」という意味です。

悟りの第1の要素「気づき(sati)」を十分に実践していると、心に「調べ、区別する機能」が育っていきます。

それで「現象(法)がどのようなものか」と、より細かく見えるようになるのです。


チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)

『こころの栄養―5つの蓋と7つの悟りの要素〈五蓋と七覚支〉
第4章 悟りの栄養素――七覚支』より

2024/06/12

女性が得た真の自由「仏教から見る女性⑦」

     

愛する人を亡くした女性へのアドバイス「仏教から見る女性⑥」から続きます。


女性が得た真の自由



ブッダが法(ダンマ)を説き始めてから数年後、比丘尼サンガ(尼僧の僧団)が設立されました。このとき女性にたいして、出家の自由という新しい道が切り開かれたのです。

2024/06/09

掉挙(浮ついた心、あせり)『こころの栄養――こころを害する食:五蓋』より

 

◎掉挙(浮ついた心、あせり)


「掉挙(じょうこ)」は、不善心所の「痴(ち)」( moha :モーハ )のグループに入っています。

「痴」とは、ものごとを正しく理解していないことです。


そこで、心に掉挙があり、落ち着きがなく、浮ついた状態では、何をしてもうまくいきません。

なぜでしょうか?


それは、無知が働いているからです。
そのときそのときの状況や自分自身のことを理解していないからです。



不善心所には、

2024/06/06

愛する人を亡くした女性へのアドバイス「仏教から見る女性⑥」

    

美意識過剰な女性へのアドバイス「仏教から見る女性⑤」から続きます。


感情的な女性へのアドバイス


愛する人を亡くし、心がひどく混乱して、悲しみに打ちひしがれていた女性たちに、ブッダは「死は避けられないものである」ことを説かれ、四聖諦を教えられました。

そして、彼女らがその意味を深く理解できるよう、さまざまなかたちで法を教えられたのです。

2024/06/01

心の性質『セルフケア:ブッダが教えた〈心〉と〈言葉〉と〈身体〉のととのえ方』より

 

◎「意」の防護は善きこと
 Manasā saṃvaro sādhu


心(意)」を制御することは、「行動」や「言葉」を制御するよりも、遥かにむずかしいことです。


なぜでしょうか?



それは、人の心や思考は止まることなくあちこち走りまわっているからです。
瞑想したことがある方なら、おわかりになるでしょう。


心は野生のサルのようなものです。

枝から枝へとせわしなく走りまわるサルのように、人の心も欲から欲へ……、怒りから怒りへ……、悩みから悩みへ……、後悔から後悔へ……、落ち込みから落ち込みへ……などと、対象から対象へ、せわしなく走りまわっています。


あれを欲しがり、これを欲しがり、あれをつかみ、これをつかみ、
あちらで不満を言い、こちらで不満を言い……、
このように、心はあちこち散乱しています。


そこに制御はありません。
わめき騒ぐサルのように、心は手に負えないものなのです。


これが、心の性質です。
心を落ち着かせることは大変なのです。


まず、この心の性質を理解するようにしてください。


チャンディマ長老(著)

『セルフケア:ブッダが教えた〈心〉と〈言葉〉と〈身体〉のととのえ方』
意の防護は善きこと」より

 




2024/05/27

美意識過剰な女性へのアドバイス「仏教から見る女性⑤」

   

結婚した女性へのアドバイス「仏教から見る女性➃」から続きます。


美意識過剰な女性へのアドバイス


自惚れが強く、自分の美貌を鼻にかける女性に対して、ブッダは「無常の摂理」を教えられました。

2024/05/19

頭の中もシンプルに/忙しくしすぎない『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』

 

9 忙しくしすぎない(appakicco)



「アッパキッチョー(appakicco)」は、「用事が少なく、忙しくない」という意味です。


現代人はどのくらい忙しいでしょうか? 働きバチのように、いつも忙しくしていませんか? みなさんの日々の生活はどうでしょうか? 


仕事に忙しいだけでなく、雑務に追われている人もいます。


実際のところ、私たちが「忙しい」と言っているのは、何か優先すべきことがあるからです。
優先することが多ければ多いほど、日常生活は忙しくなるのです。




・頭のなかもシンプルに


それから、何もしていないのに、頭の中であれこれ考えて忙しくしている人もいます。


仕事をそれほどせず、人生をよりよいものにしようと努力もしていないのに、ただ「あれをしなければ、これをしなければ」と考えて、頭の中だけで忙しくしているのです。


日常生活であれ、頭の中であれ、ブッダは「忙しすぎることは善行為をする妨げになる」とおっしゃいました。


もし、「善行為をするのに忙しい」と言うなら、それは悪いことではありません。

ただ、その場合でも、執着しないよう気をつけなければなりません。

執着せず、適切に善行為をしていれば、そのときは忙しいというよりも、心に喜びや充実感を感じるでしょう。


ブッダは、「用事を減らし、多忙にならないことも、善い習慣のひとつである」と説かれたのです。


『慈経に学ぶ〈15の善習慣〉と〈10の善行為〉』
「15の善習慣 6. 謙虚さ(anatimānī
より

チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)





2024/05/15

結婚した女性へのアドバイス『仏教から見る女性➃』

  

男性と女性の特徴「仏教から見る女性③」から続きます。


結婚した女性へのアドバイス


ブッダは、家庭の平和や調和は主に女性の肩にかかっていることをよく理解されていました。

そして結婚生活における「妻の役割」について女性たちにアドバイスされたのです。

2024/05/10

男性と女性の特徴『仏教から見る女性③』

 

女性の社会的地位「仏教から見る女性②」から続きます。


男性と女性は異なる存在


ブッダは女性の地位を向上させました。

一方で、男性と女性の間には社会的にも生理的にも違いがあることを理解され、それぞれが日常生活のなかで実践すべきことを教えられました。

2024/05/07

チャンディマ長老「心はどのように働くのか?」法話メモ

 

5月4日(土)に開催されたチャンディマ長老のオンライン法話会
「心はどのように働くか」のメモです。





私たちは、日常生活の中でさまざまな問題や困難に直面しています。


そんなとき、つい「あの人のせいだ......」「こんな状況だから......」と、外の要因に自分の不幸を結びつけがちです。


しかし、仏教では、

不幸を生み出しているのは、自分自身の心のあり方であり

幸せを生み出しているのは、自分自身の心のあり方である

と説いています。


自分自身の心が、自分の人生(幸・不幸)を形づくっているのです。


私たちは誰でも、瞬間瞬間、さまざま経験をしています。


たとえば、何かや誰かを見たときのことを考えてみましょう。


まず、目で何かを見るという経験をします。

見たものについて知るという経験をします。

知ったものについて考える/判断するという経験をします。

好きなものには「もっと見たい」、嫌いなものには「嫌だ、もう見たくない」という経験をします。

こうしたこと一つ一つが業(kamma)となり、人生を形づくっているのです。


みなさんは、今日、朝起きて「今日はオンライン法話会に参加する」ことを選択しました。
そういう心(意)をつくりました。


法話を聴くことは善行為になります。


「清らかなこころで善行為をおこなえば、幸せになる」とブッダはおっしゃいました。
これは法則なんです。


では、朝起きたときの自分と、いま法話会に参加しているときの自分は同じでしょうか?


違うと思います。


感じていることも、考えていることも、違うと思います。


朝起きたときから今まで、無数の経験をしています。

そのなかには善もあり、不善もあるでしょう。

私たちは1日のなかで膨大な量の経験をし、膨大な量の業をつくっています。


それが自分の人生の幸や不幸をつくっているのです。


心には非常にパワフルなエネルギーがあります。


それをどのように使うかは自分次第です。


自分次第で、「幸せ」をつくることもできますし、「不幸」をつくることもできるのです。


チャンディマ長老

「心はどのように働くのか?」(5月4日)オンライン法話会より