2019/01/28

自己を観察し、平等を理解する(善悪とは?⑤-1)


差別することは悪行為です。

世の中の人は他人を差別し、指をさして、非難合戦ばかりしています。

でも、相手に指をさすとどうなりますか?



1本の指を向ければ、3本の指は自分に向いています。「悪いのはお前だ」と言って相手をさすと、残りの3本は自分をさしています。

ですから、他人を非難することはあまりにも愚かな行為です。



「生命」の定義



生命には貪瞋痴があります。

その貪瞋痴によって、生命は輪廻転生しています。

これは生命の定義でもあります。

貪瞋痴があるものを「生命(sattā)」といい、貪瞋痴がなければ「生命」ではありません。



ですから聖者は「生命(sattā)」とはいいません。

聖者には特別な仏教用語があり、「ariya」という言葉を使っています。

これは「乗り越えた」という意味です。


「sattā」は、日本語では「衆生」や「有情」という訳語になります。

感情があること、つまり貪瞋痴があるという意味です。


貪瞋痴の強度によって、区別が現れる
 
貪瞋痴の量は、生命によって異なります。貪瞋痴が働くためには、身体が必要ですからね。身体で貪瞋痴が制限されるのです。


たとえばアリが怒っても、人を殺すことはできませんし、スズメが怒っても、人を殺せません。


でも、人が怒ると、アリやスズメの巣をまるごと壊して、潰すことができるのです。この差です。貪瞋痴を動かす能力によって、貪瞋痴の強弱やランクが異なるのです。私たち人間の貪瞋痴と、アリやスズメの貪瞋痴の強さや量は違うのです。


他の生命を非難するのは愚かな行為



だからといって、人がアリやスズメを非難し、ばかにするのは間違っています。

「生命みなに貪瞋痴がある」ということは、すべての生命に共通していることです。

ですから、貪瞋痴で生きている生命が、他の生命に指をさして、ばかにすることは、とんでもない愚かな行為です。



たとえばアリに向かって、「お前は小さいからたいしたことができない」とか、ヘビやコブラにたいして、「身体が小さいのに瞬時に人を殺して、お前はとんでもないやつだ。殺される前に、お前を殺してやる」などと考えることは愚かなことです。

アリも、ヘビも、コブラも貪瞋痴で生きています。

人も、貪瞋痴で生きています。

みな同じ貪瞋痴で生きているのです。そこに差はありません。





自己を観察し「平等」を理解する


私たちはみな平等です。この平等ということを理解するために、自己観察をしなければなりません。

自分のこころを観察してみてください。

そうすると、欲があること、怒りがあること、嫉妬や怠けがあること、無知があることが見えてくるでしょう。

このとき「あー、気持ち悪い」と見るのではなく、「みな同じだ」と見るのです。

誰だって貪瞋痴があります。強弱やレベルの差があるだけです。



それから、「私は嫉妬深い。なんて情けないか」と見るのも、正しい自己観察ではありません。

そうではなく、「私に嫉妬がある。嫉妬がちょっと強い。嫉妬はどんな生命にもある……」とそのように自己を観察すると、落ち込むことがなくなります。

「生命は平等だ」ということがわかるのです。



これが「区別はあるが、平等」ということです。

差があるのに、平等だとわかるのです。

差異があって平等なんです。区別があって平等なんです。

これは現代社会で言われている、いい加減な平等ではありません。



こころの広い人になる



こころの広い人は他人に指をさしません。「あー、そういうことか」と理解して落ち着いています。

たとえば自分の子供が万引きして警察につかまっても、混乱したり、焦ったり、大声で怒鳴ったりしません。

落ち着いていると、子供のこころの中が見えてきます。

この子はこころに何か怒りがあってやったんだ、ということが。

だいたい子供が万引きするのはカネやモノが欲しいからではありません。それは大人です。

子供の場合、中学生や高校生になるとだんだん勉強についていけなくなって、学校がいやになって、遊びたくなるんです。

でも遊ぶカネがなくて万引きしてしまうというのが本当なんです。

子供はカネそのものが欲しいわけではありません。

こころに何か別の問題があるのです。

社会にたいして、親にたいして、学校にたいして反発したい、暴動を起こしてやりたいという別な衝動があるのです。

しかしまだ子供ですから、悪い行動をしたら自分が破滅するということは理解できません。

親や学校に迷惑かけたいと思って万引きして、わざとつかまるのです。

学校はそれなりにうまくごまかすかもしれませんが、子供の人生はそれでかなり苦しくなるのです。



そこで、こころが広い親だったら、子供の本当のこころがわかります。

そうすると、解決策が見えてきます。

子供をいきなり怒鳴ったり、非難したりしません。

落ち着いたこころで、「もし今度何か問題があったら言ってください。私はあなたの味方です。私に言いたくなかったら、信頼できるだれか年上の人に言ってください。学校に相談しやすい先生がいるなら、その先生に相談してください」と言います。

それで、何か解決策が見えてくるのです。

このように、「平等」ということを正しく理解すれば、世の中のさまざまな問題は解決できるのです。


(続きます)



2019/01/26

脳は「有る」ことのみを認識する(智慧ある人は愉しんで生きる①) 


最初に、仏教を学ぶ上で重要なことを一つ説明しておきたいと思います。仏教の概念を知識として勉強するのは簡単ですが、それだけで真の幸福は得られません。たとえ膨大な量の経典を読み尽くし、暗記したとしても、なんの意味もないのです。
そこで仏教を、単なる理論や理屈、思想として受けとるべきではありません。身をもって実践し、理解し、性格を改善して苦の問題を解決しなければならないのです。お釈迦さまはこのように説かれました。「少しの知識でも、それを実践しなさい。実践する人こそ、真の知識人です」と。教えを実践して真理を体験、体得すれば、大きな幸福が得られるのです。


脳は「有る」ことのみを認識する


私たちは「有る・無い」という二つの極端な見方で、ものごとを捉えています。というより、脳は、そのようにしか理解できない構造になっているのです。


「ものが有る」という見方については、皆さん簡単におわかりになると思います。本がある、花がある、私がいる、人がいるなど、この世に存在するすべてのものに対して、私たちは何の疑いもなく「有る」と思っています。では、この「有る」という認識はいかにして生じているのでしょうか?


これは、私たちの感覚器官である「眼・耳・鼻・舌・身」に、外界の情報「色・声・香・味・触」が触れることから生じているのです。外界の情報が感覚器官に触れると、脳が機能して「有る」と知ります。情報が触れなければ、脳は機能しませんから「無い」となるのです。


具体的に言うと、耳に音が触れると「聞こえた」という認識が生まれますが、触れなければ何も聞こえません。肌に何かが触れると「触れた」と知りますが、触れなければ何も知りません。


公園で花を見ているとしましょう。このとき、眼と花の色が触れて「見えた」と認識します。そして「花が有る」と知ります。そこに、猫が走ってきました。花に向いていた眼は、猫に移動します。そして眼と猫の色形が触れて「猫がいる」と知るのです。このとき、さっきの花に対する認識は消えていますが、脳は目の前の猫に囚われているため、そのことに気づきません。そこに、大きな物音が聞こえました。音が耳に触れて「音」と認識します。このときも、さっきの猫や花に対する認識は消えていますが、脳はそのことに気づかず、いま聞こえている音を認識しているのです。

このように、脳が刺激されるのは情報が感覚器官に触れたとき、つまり「有る」という瞬間だけなのです。そしてこの「有る」という瞬間だけを見て、私たちは「ものが有る、存在する」と固定的、断定的に決めつけているのです。


では、次の図を見てください。何が見えるでしょうか?



●●●●●●●●●●●●


たぶん、黒い円が連続してあるとか一列に並んでいる、などと答えられると思います。でも、よく見てください。円と円のあいだに隙間があるでしょう。空間があるのです。しかし脳は空間を無視して、黒い円だけを認識しようとします。脳は真っ先に「有る」の部分を見よう、知ろうとするのです。先ほどの例でも、脳が知っているのは、花が有る、猫がいる、音が有る、などのように「有る」の瞬間だけなのです。「無い」という瞬間には気づきませんし、知り得ないのです。

『智慧ある人は愉しんで生きる①』A. スマナサーラ長老 法話


「無い」は推測

次に、もう一つの見方「無い」について検討してみましょう。もし、「ふりこ」があったら用意してください。ふりこの左側と右側に両手を置き、眼を閉じてください。ふりこに力を加えると、ふりこは左のほうに移動して左手にパンとぶつかります。このとき脳は、「触れた」と知ります。次にふりこは左手から離れ、右のほうに移動して右手にパンとぶつかります。「触れた」と知ります。また離れ、左のほうに移動して、左手にパンとぶつかります。「触れた」と知ります。脳は、ふりこが手に触れた瞬間のことしか知りません。しかし、ふりこが左手に触れる、離れる、右手に触れる、離れる、左手に触れる、離れる、と繰り返しているうちに、「次は右手に触れるだろう」と推測するようになるのです。そして「有るだけではなく、無いという瞬間があるのではないか」と考えつくのです。ただ、この「無い」という認識は、経験ではなく、あくまでも推測です。

もう一つ例を挙げましょう。
腕時計を見てください。皆さんは何も疑わずに、腕時計が有ると思っているでしょう。ではそれを、長針、短針、文字盤、ベルト、電池など、ばらばらに分解してみてください。腕時計はどうなるでしょうか?


無くなるのです。長針だけをとって「これは腕時計です」とは言えません。短針も、文字盤も、ベルトも、電池も、単独では腕時計だとは言えません。つまり分解すると腕時計は無くなってしまうのです。とすると、腕時計は初めから無かったということではないでしょうか?

このように、どんなものでも分解することができます。そして分解すればするほど、いまある状態が無くなってしまうのです。


お釈迦さまが生きていた時代のインドには、このような複雑なことを思惟し、考察していた哲学者や思想家、宗教家たちがいました。彼らは「すべてのものは無の状態まで分解できる。存在するのは無だけだ。無こそが真理である」と考えて、その概念を強調しました。

「有・無」の超越

そこでお釈迦さまはこう考えました。人間は、有・無という両極端でしか、ものごとを捉えられない。真実は何なのか? そして、「超越」という立場を発見されたのです。これが因縁の教えです。


先の腕時計を例にとると、腕時計は、必要な部品を、ある一定の法則で組み立てることによって成り立っています。


それぞれの部品を、でたらめに接着剤でくっつけるだけでは、腕時計としての機能は果たしません。法則があるのです。長針と短針は文字盤の上に置かなければなりません。その上に透明のカバーを置き、両側にベルトをつけ、見えないところに電池を入れるというふうに。このように一定の法則に従って組み立てると、腕時計になるのです。

それから、自然のものは常に法則に適っています。花の種を蒔くとどうなるでしょうか?


水や栄養素など必要な要素を充分に与えているなら、やがて芽が出て、葉が出て、花が咲くでしょう。この順番は変えられません。芽が出ていないのに花が咲くということは絶対にあり得ないのです。


お釈迦さまは、この「法則」を発見されました。自然も、人間の思考プロセスも、すべてのものは丁寧な順番で組み立てられている。ものが「有る、無い」と断定的に見るのはいい加減だ。真実は、その場その場でさまざまな情報が組み合わさって成立している、と。

ですから、花を見て「花が有る」と実体化して見るのは間違っています。花は刻々と変化しつづけているのです。咲いている花はだんだん萎み、枯れてゆきます。同様に「私」というものも瞬間々々変化しています。「私が存在する」とも「私が存在しない」とも言えません。これが因果法則であり、仏教の真理なのです。

極端な見方から苦が生じる

これまでお話してきたように、私たちは、「有る・無い」という極端な見方でものごとを捉えています。そしてこの見方から貪・瞋・痴が起こり、悩み苦しみが生まれているのです。

たとえば「Aさんがいる、Aさんは魅力的だ」と考えると、そこからさまざまな苦しみが生まれてきます。話しがしたい、どうすれば話せるだろうか、どうすればつきあってもらえるだろうか、とあれこれ考えて悩むことになります。そこで思いきって声をかけて仲良くなれたとしましょう。苦しみは消えるでしょうか? 消えません。今度は嫌われないように気を使ったり、関心を買うためにいろいろ努力しなければなりません。別の苦しみが生まれてくるのです。また、仕事が忙しくて会う時間がなかったり、転勤で遠くに引っ越してしまうと、今度は「Aさんがいない」ということで、さらに苦しむのです。このように「いる、いない」と固定的に見ることから、大変な苦しみが生まれてくるのです。


それから「自分には財産が有る」と金持ち気分で威張っている人もいるでしょう。しかし、そういう人たちも、多くの苦しみを抱えているものです。お金を盗まれないかと絶えず警戒し、人目のつかないところに隠したり、玄関に防犯カメラを取り付けたり。また、金持ちのなかには所得を偽ったり過少に申告して金持ちになっている人も少なくありません。しかしそういう人たちは、おおやけで堂々と買いものをすることができません。家や車など大きなものを購入すれば、申告していないことがすぐにばれてしまいますからね。ですから欲しいものを買わずにお金を隠しておくのです。


それで、ある日、家に泥棒が入ってお金を盗まれたとしましょう。今度は「お金が無い」ということで、ものすごく苦しむのです。もっと苦しいのは、警察に通報しても隠しておいたお金のことは言えないことです。別のもの、たとえば宝石をいくつか盗まれたとか財布を盗まれた、ということぐらいしか言えません。それに、たとえ泥棒が捕まったとしても、隠していたお金を返してくれとは言えないでしょう。それでさらに苦しむのです。(続きます)

A. スマナサーラ長老 法話
『智慧ある人は愉しんで生きる①』
パティパダー誌「根音仏教講義」にて連載
文責:出村佳子


2019/01/25

「不満の理解」が心を向上させる(希望と欲望⑦-1)

 
仏教が教えている「正しい希望」とは、「具体的で、合理的な、実行できる希望を持ち、それを達成できるよう、日々努力すること」をいいます。


人のいちばん悪いところは、心です。心が汚れていて、考え方が正しくないから、いつでも失敗するのです。


ですから、常に正しくものごとを考え、正しく判断できるよう、自分の思考を直すこと、言い換えれば、貪・瞋・痴など悪い感情をなくしていくこと、これを目的にして努力することが正しい希望なのです。


同時に、「より立派な人間になろう」という目的を持つようにしてください。


「このままでいい」と思うのではなく、「今の私の状態は不満です。ほんの少しでもいいから昨日より良くなるように努力しよう」と、ポジティブな目的を持つのです。


この点に関しては、不満でもかまいません。


そこで、今の不満がなくなったら、また次の不満が生まれてくるでしょうから、そのときはまた、「もう少し良くなろう」と頑張るのです。


このように、不満を観察してみてください。不満を理解することによって、「より良くなろう」という希望と精進が生まれてきます。ですから、不満は希望であるとも言えるのです。


仏教は、不満をなくすことを教えていますが、だからといって、不満が悪いというわけではありません。不満を理解することによって、人は成長することができるのです。


不満のことを、パーリ語で「Dukkha(ドゥッカ)」と言います。「Dukkha」は私たちが解脱するまで付いてくるものです。この「Dukkha」を理解することによって、心は成長し、進化することができるのです。


仏教では、徹底的に、あらゆる面から不満を理解しなさいと教えています。そうすれば、「その不満を何とかしなくてはいけない」という希望が生まれてくるからです。







ある経典で、お釈迦様は比丘たちにこうおっしゃいました。


「もしどこかのお坊さんが悟りを開いたと聞いたなら、悔しくなってでも、慢心を持ってでも、自分も悟れるように精進しなさい」


あの人にできたのになぜ私にできないか、あの人に努力できたのになぜ私に努力できないか、このように他人と比べることは慢心であり、ほんとうは悪いことなのですが、ある経典でお釈迦様は、そういう気持ちを持ってでも、解脱するために頑張りなさい、とおっしゃっています。


これは「欲をもって、欲を戒める」ということで、「自分も悟りたい」という欲を作るのです。隣のお坊さんが悟ったらすごく悔しい。「私もやるぞ」という大きな欲というか、希望を作って頑張るのです。



世俗的な幸福も、同じ道です。正しい希望を持ち、朝晩まじめに仕事をすれば、経済的にも社会的にも豊かになるでしょう。


「頭をしっかりさせたい」と希望する人は、日々、勉強しますから頭が良くなるでしょうし、反対に、自分は一流大学を卒業して卒業証書をもらったからそれでいい、と終わる人は、怠けて勉強しませんから、どんどん頭が悪くなるでしょう。


私たちは常に上へ上へと向上し、それ以上、上がない頂点に達するまで、日々、精進し続けなければならないのです。



正しい希望を持って、心の不満を少しずつなくすように努力する人は、最終的に一切の不満をなくし、最高の幸福である解脱が得られるでしょう。


(続きます)

スマナサーラ長老

根本仏教講義『希望と欲望⑦-1』

文責:出村佳子