2019/02/04

1日の瞑想ーどのくらい瞑想すべきか?





A:回 答 ―― グナラタナ長老


毎日、少なくとも、朝と晩それぞれ30 分間ずつ瞑想すべきだと思います。もちろんこれは決まっている時間でもなく、義務でもありません。在家生活でのあわただしく忙しい生活を考えると、これが瞑想したいと考えている方がすべき、最低の時間だと思います。

私はたいてい瞑想する在家の方には、毎日、怠ることなく、朝と晩、瞑想するようすすめています。

また、日中、働いている方は、以前お話した「1分間瞑想」を職場でするようにしてください。1時間ごとに1分間、瞑想するのです。

時間があるときには、瞑想合宿に参加して、集中的に瞑想するとよいでしょう。

このように、
・朝・晩30分間の瞑想と、
・職場で1時間ごとにする1分間瞑想と、
・瞑想合宿での集中的な瞑想
を実践することで、定期的に瞑想することができるのです。







決意する



それから、「気づきの実践をしよう」と決意することが大切です。実際、気づく機会は、1日のうちどの瞬間にもあります。夜、ベッドに横になっているときでさえ、呼吸に気づきながら眠りにつくこともできるのです。


座る瞑想について


「座る瞑想」は、朝と晩にするとよいでしょう。これを習慣にしてください。朝は、感覚がまだ静かで、1日のあわただしさに影響を受けていませんから、瞑想しやすいと思います。他の誰よりも先に起きて、その時間を自分の心を育てるために使うことは、とても楽しいことです。


在家の方にとって、夕方や夜に瞑想するのはむずかしいかもしれません。部屋のテレビがついていたり、パソコンの音が鳴っていたり、子どもたちが喧嘩したり、携帯電話のベルが鳴ったりなど、騒々しいかもしれないからです。


しかし、そうした騒音が静まってから瞑想したり、あるいは静かな場所に行って瞑想できるなら、夕方や夜でも十分に瞑想できるでしょう。

ペースの早いせかせかした現代生活では、どうしてもストレスがたまってしまいます。しかし、そうしたストレスや過度の刺激を、より簡単に、より穏やかに、より賢く対処する方法があります。

夕方や夜、定期的に30分くらい座る瞑想をすると、日中の疲れを和らげることができます。瞑想することで、心や精神を休ませ、心のいらだちを落ち着かせることができるのです。

ほとんどの方は、仕事から帰宅すると疲れてくたくたになっていますから、「夜、よい睡眠をとることが必要だ」と考えています。たしかに睡眠を十分にとると、身体や心は回復するでしょう。でも、夜「よい瞑想」をすることは、睡眠時間を長くとるよりも、遥かに効果的に、その日のいらだちや混乱、さまざまな感情を落ち着かせてくれるのです。

また、少し長めの時間、座って瞑想することを習慣にすることも大切です。なぜでしょうか?

それは、たとえば1時間座る瞑想をしていても、実際にしっかり瞑想できているのは15分しかないかもしれないからです。ですから、瞑想するときは、毎回、少し長めに坐るとよいでしょう。


仏教Q&A1日の瞑想ーどのくらい瞑想すべきか?
グナラタナ長老
出村佳子訳


2019/02/01

When the machine takes over the brain…


気づきと慈悲の実践: When the machine takes over the brain…2011-09-02 投稿


The brain has infinite capacity;  it is really infinite. That capacity is now used technologically. That capacity has been used for the gathering of information. That capacity has been used to store knowledge — scientific, political, social and religious. The brain has been occupied with this. And it is precisely this function (this technological capacity) that the machine is going to take over. When this take-over by the machine happens, the brain — its capacity — is going to wither, just as my arms will if I do not use them all the time.


脳


The question is : If the brain is not active, if it is not working, if it is not thinking, what is going to happen to it?  Either it will plunge into entertainment —and the religions, the rituals and the pujas are entertainment— or it will turn to the inquiry within. This inquiry is an infinite movement. This inquiry is religion. 


A Timeless Spring




2019/01/28

自己を観察し、平等を理解する(善悪とは?⑤-1)


差別することは悪行為です。

世の中の人は他人を差別し、指をさして、非難合戦ばかりしています。

でも、相手に指をさすとどうなりますか?



1本の指を向ければ、3本の指は自分に向いています。「悪いのはお前だ」と言って相手をさすと、残りの3本は自分をさしています。

ですから、他人を非難することはあまりにも愚かな行為です。



「生命」の定義



生命には貪瞋痴があります。

その貪瞋痴によって、生命は輪廻転生しています。

これは生命の定義でもあります。

貪瞋痴があるものを「生命(sattā)」といい、貪瞋痴がなければ「生命」ではありません。



ですから聖者は「生命(sattā)」とはいいません。

聖者には特別な仏教用語があり、「ariya」という言葉を使っています。

これは「乗り越えた」という意味です。


「sattā」は、日本語では「衆生」や「有情」という訳語になります。

感情があること、つまり貪瞋痴があるという意味です。


貪瞋痴の強度によって、区別が現れる
 
貪瞋痴の量は、生命によって異なります。貪瞋痴が働くためには、身体が必要ですからね。身体で貪瞋痴が制限されるのです。


たとえばアリが怒っても、人を殺すことはできませんし、スズメが怒っても、人を殺せません。


でも、人が怒ると、アリやスズメの巣をまるごと壊して、潰すことができるのです。この差です。貪瞋痴を動かす能力によって、貪瞋痴の強弱やランクが異なるのです。私たち人間の貪瞋痴と、アリやスズメの貪瞋痴の強さや量は違うのです。


他の生命を非難するのは愚かな行為



だからといって、人がアリやスズメを非難し、ばかにするのは間違っています。

「生命みなに貪瞋痴がある」ということは、すべての生命に共通していることです。

ですから、貪瞋痴で生きている生命が、他の生命に指をさして、ばかにすることは、とんでもない愚かな行為です。



たとえばアリに向かって、「お前は小さいからたいしたことができない」とか、ヘビやコブラにたいして、「身体が小さいのに瞬時に人を殺して、お前はとんでもないやつだ。殺される前に、お前を殺してやる」などと考えることは愚かなことです。

アリも、ヘビも、コブラも貪瞋痴で生きています。

人も、貪瞋痴で生きています。

みな同じ貪瞋痴で生きているのです。そこに差はありません。





自己を観察し「平等」を理解する


私たちはみな平等です。この平等ということを理解するために、自己観察をしなければなりません。

自分のこころを観察してみてください。

そうすると、欲があること、怒りがあること、嫉妬や怠けがあること、無知があることが見えてくるでしょう。

このとき「あー、気持ち悪い」と見るのではなく、「みな同じだ」と見るのです。

誰だって貪瞋痴があります。強弱やレベルの差があるだけです。



それから、「私は嫉妬深い。なんて情けないか」と見るのも、正しい自己観察ではありません。

そうではなく、「私に嫉妬がある。嫉妬がちょっと強い。嫉妬はどんな生命にもある……」とそのように自己を観察すると、落ち込むことがなくなります。

「生命は平等だ」ということがわかるのです。



これが「区別はあるが、平等」ということです。

差があるのに、平等だとわかるのです。

差異があって平等なんです。区別があって平等なんです。

これは現代社会で言われている、いい加減な平等ではありません。



こころの広い人になる



こころの広い人は他人に指をさしません。「あー、そういうことか」と理解して落ち着いています。

たとえば自分の子供が万引きして警察につかまっても、混乱したり、焦ったり、大声で怒鳴ったりしません。

落ち着いていると、子供のこころの中が見えてきます。

この子はこころに何か怒りがあってやったんだ、ということが。

だいたい子供が万引きするのはカネやモノが欲しいからではありません。それは大人です。

子供の場合、中学生や高校生になるとだんだん勉強についていけなくなって、学校がいやになって、遊びたくなるんです。

でも遊ぶカネがなくて万引きしてしまうというのが本当なんです。

子供はカネそのものが欲しいわけではありません。

こころに何か別の問題があるのです。

社会にたいして、親にたいして、学校にたいして反発したい、暴動を起こしてやりたいという別な衝動があるのです。

しかしまだ子供ですから、悪い行動をしたら自分が破滅するということは理解できません。

親や学校に迷惑かけたいと思って万引きして、わざとつかまるのです。

学校はそれなりにうまくごまかすかもしれませんが、子供の人生はそれでかなり苦しくなるのです。



そこで、こころが広い親だったら、子供の本当のこころがわかります。

そうすると、解決策が見えてきます。

子供をいきなり怒鳴ったり、非難したりしません。

落ち着いたこころで、「もし今度何か問題があったら言ってください。私はあなたの味方です。私に言いたくなかったら、信頼できるだれか年上の人に言ってください。学校に相談しやすい先生がいるなら、その先生に相談してください」と言います。

それで、何か解決策が見えてくるのです。

このように、「平等」ということを正しく理解すれば、世の中のさまざまな問題は解決できるのです。


(続きます)