2018/11/09

希望と欲望①-2

〈2018年11月9日更新、2008年4月26日作成〉

3種類の「欲」


・余計な欲(Abhijjhā:アビッジャー)


Abhijjhā は、簡単にいうと「余計な欲」という意味です。

なぜ欲の上に「余計」という言葉を付けるのかというと、一般的にどんな人にも欲はありますが、そのような日常生活のなかで生まれるごく普通の欲は、「余計な欲」と言いません。

でも、限度を超えてきりがなく欲が出てくると、それは「余計な欲」となるのです。


「普通の欲」の場合は、修行しない限りコントロールすることがむずかしいのですが、「余計な欲」の場合は、修行や瞑想をする前から、あるいは仏教を学ぶ前から、抑えておかなければならないものです。


十悪は、仏教徒であろうかなかろうか、人なら誰でも避けなければならないものであり、犯したら必ず罪になります。

これは普遍的な法則ですから、宗教や信仰には関係がありません。仏教徒も、キリスト教徒も、イスラム教徒も、無宗教の人も、どんな人も、十悪の行為をしたら罪になるのです。


たとえば他人の物を盗んだ場合、仏教徒は罪になりますが仏教徒以外の人は罪にならない、ということはありません。

どんな人でも盗みをしたら罪になるのです。

動物も同じで、盗むと、罪になるのです。



https://sukhi-hotu.blogspot.com/p/blog-page_38.html




・巨大な欲(Mahicchatāマヒッチャター)


Abhijjhā のほかに、欲望を表す言葉として「mahicchatā」があります。これは mahā と icchatā の二つの語からなっています。Mahā は大きい、 icchatā は希望という意味です。

希望といっても、ここでは悪い意味で使っていますから「欲望」となります。

この二つの語を合わせて mahicchatā は「大きな欲」「巨大な欲」という意味になります。



・悪い欲(Papicchatā:パーピッチャター)



これは pāpa と icchatā からなり、pāpa は罪や悪。 icchatā は欲しがること、という意味。ですから、「罪・悪」と「欲しがる」ことで「罪になる欲」「悪い欲」という意味です。 



埋められない欲



いま「abhijjhā」「mahicchatā」「pāpicchatā」の3種類の欲を説明しましたが、なぜこれらは悪いもので、罪になるのでしょうか? これから考えてみましょう。  


世の中には、人が成長し成功するためには、ある程度の欲望が必要、という考え方があります。


事業で成功したい、お金を儲けたい、地位や名誉、権力が欲しいなど、そういう欲望をバネにして、それに向かって邁進することによって人は成長できると考えているのです。


これは正しい考え方でしょうか?


仏教から見ると、「あれも欲しい、これも欲しい……」ということばかり考えている人の心のなかは、大きな穴がぽっかりあいています。いわゆる空っぽ。悪い意味での空っぽです。精神的に満たされていないのです。


さらに悪いことに abhijjhā と mahicchatā には、欲の穴に底がありません。底なしの穴なのです。


ですから、モノをいくら入れても穴は埋まりません。埋められないのです。


欲望には、そのような特色があります。いくらあっても足りない、満足しない、これが欲望なのです


お金持ちでも心は貧乏


欲の深い人は、明るい性格ではありません。思考も暗いし、性格も暗いです。皆さんは日常生活のなかでいろんな人とおつきあいしているでしょうから、本当かないか、ご自分で調べてみるといいでしょう。


欲深い人の顔や生き方を見てください。機会があれば、そういう人の家を訪ねてみてください。ものすごく暗い影があることが見えると思います。


四六時中、儲けたいとか、出世したいとか、誰かに勝ちたいとか、強くなりたいとか、美しくなりたいとか、おいしいごちそうを食べたいとか、常に心が「~が欲しい」「~したい」という感情でいっぱいになっていますから、心には落ち着きや明るさがないのです。

このような欲の深い人たちが何をするのかというと、破壊行為です。

たとえば、お金にたいして貪欲な人は、とにかくどんな方法を使ってでもお金を得ようとします。手段は選びませんし、相手の気持ちも考えようとしません。

相手のことはどうでもいいから自分がなんとしてでも儲けたい、と考えます。

社会の秩序や道徳、平和といったことはまったく考えません。

自分にお金が入ればいい、自分や自分の会社さえ儲かればいい、としか考えないのです。そうするとどうなるでしょうか? 


当然、社会の調和やバランスが崩れてしまうのです。


それから、その人はお金をいっぱい儲けたからといって、明るく活動するかというと、それもしようとしません。

なぜかというと、いつも「足りない、足りない」という気持ちでいますから、いくらあっても「足りない」と感じるのです。それでさらにため込もう、儲けようとするのです。

ですから、貪欲な人が社会にひとりでもいるということは、社会全体の調和を崩し、迷惑になります。

そういうわけで、欲望は罪になるのです。

                     (続きます)
              
 根本仏教講義『希望と欲望①-2』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子




2018/11/06

希望と欲望①-1

〈2018年11月6日更新、2008年4月26日作成〉


「希望」と「欲望」 ―― どちらの言葉にも「望む」という言葉が含まれています。


しかし一般的に「希望」のほうはよいものとされ、「欲望」のほうは悪いものとされています。


私たちが「どのように望むのか」ということで、意味がよいものにも、悪いものにも変わってくるのです。




希望とは?


まず「希望」から見てみましょう。
これは、何かの実現を願い望むという意味です。英語では、hope・wish・aspiration など、いくつか言葉があります。これらはどれも肯定的な意味で使われています。

とくに aspiration にはとても積極的な意味があり、否定的な意味で使われることはありません。

否定的に使う場合は、たとえば hope なら、語尾に less を付けて hopeless とします。そうすると否定形になるのです。




欲望とは?


次に「欲望」を見てみましょう。

文字どおり、欲望は、欲に基づいて何かを望むことです。欲に基づいているのですから、道徳的な立場から見ますと、これは善いものではありません。

欲には、いろいろなレベルがあります。


いちばん悪くて病的な欲望は、パーリ語でabhijjhā(アビッジャ―)と言います。

これは、非常に欲が深く、必要以上に欲しがること、貪欲、という意味です。


Abhijjhā の語を分析すると、Abhi と ijjhā の二つの語からできており、Abhi は「常識レベルを越えている」という意味、ijjhā は「希望する、欲しがる」という意味です。

そこで Abhijjhā は「常識レベルを越えて欲しがる」という意味になります。


ところで、仏教には「十悪」という教えがあります。悪い行為を十種類に分けているのですが、その十種類のなかに Abhijjhā(貪欲)が含まれているのです。


十種類の悪行為とは、

① 殺生:生き物を殺すこと。
② 倫盗盗むこと。
③ 邪淫邪まな行為。
④ 妄語嘘をつくこと。
⑤ 悪口悪い言葉で人の心を傷つけたり、貶したり、誹謗したりすること。
⑥ 両舌人の仲を裂くためや調和を壊すために噂話をすること。
⑦ 綺語:意味のないことを話すこと。無駄話。おしゃべり。これは時間と頭の知識を無益に浪費します。
⑧ 貪欲強い欲望(abhijjhā)
⑨ 瞋恚強い怒り(vyāpāda )
⑩ 邪見見方が間違っていること(micchāditthi)

この十種類のうち、重い罪は貪欲と瞋恚と邪見です。


さらに、その中でももっとも重いのは、邪見です。

                     (続きます)
              
パティパダー誌20085月号
根本仏教講義『希望と欲望①-1』
スマナサーラ長老法話

編集/文責:出村佳子