2018/11/05

よい瞑想と悪い瞑想①






A:回 答 ―― グナラタナ長老


気づきの瞑想をするときには、そのような差はありません。「よい瞑想」も「悪い瞑想」もないのです。

なぜでしょうか? 

あなたがどれほど「瞑想がうまくできなかった」「悪い瞑想だった」と考えたとしても、その瞬間、その場で、その経験を瞑想対象にすることができるからです。


グナラタナ長老〔著〕/出村佳子〔訳〕


なぜ「瞑想がうまくできなかった」とか「悪い瞑想だ」と考えるのでしょうか?

心が静かにならず、一つの対象に集中できなかったからかもしれません……。

あるいは、怒りや欲、緊張、あせり、恐怖にかき乱され、頭の中が悩みや恐れでいっぱいになっていたからかもしれません……。

しかしこうした感情は、瞑想で使うべきものです。

ですから、瞑想をしているときに不快感やネガティブな感情、妄想などが生じたら、それを悪いと思わずに、利用してください。

その瞬間、その場で瞑想の対象にするのです。

たとえば妻や夫、上司のことが思い浮かび、怒りが湧いてきたとしましょう。そのとき、その怒りを瞑想対象にして、観察するのです。

それ以外、何もする必要はありません。

怒りにとらわれずに、怒りを観察してください。

そして、怒りから離れるのです。

怒りに惑わされないよう、気をつけてください。 
                   
(続きます)

よい瞑想と悪い瞑想①』パティパダー誌2018年8月号

バンテ・グナラタナ

2018/11/02

智慧と善行為⑦

2018年11月2日更新、2012年7月21日作成


「自利」と「利他」


善行為には二種類あります。

一つは、他人を助けることです。これは世の中の誰もが善い行為と見なしています。

では、自分のために何かをすることは悪いことでしょうか? 


悪くありません。私たちは自分の幸福のためにいろいろなことをする必要があるのです。



「自利」と「利他」



では、「自分のために善いことをする」ことと「他人のために善いことをする」ことと、どちらが善いことだと思いますか? 



それは判断できません。
自分を犠牲にして他人のためにやることが善行為であり菩薩行だ、という考えもありますが、あれは間違いです。結局、この二つを区別することはできないのです。


たとえば、若者たちがおとなしく、自分のためだけに勉強するとしましょう。ボランティアなど社会的な善い活動はしませんが、悪いこともしません。それで社会が悪くなると思いますか? 


社会全体が明るくなるのです。
自分が自分のためにまじめに勉強することは、自分のための「自利の行為」ですが、それで社会も豊かになるのです。


仕事の場合も同じです。自分の仕事をしっかりおこなうこと、これは自利の行為ですが、結局は社会全体の繁栄につながるのです。


一人で静かに勉強したり、瞑想したり、修行したり、戒律を守ったりすることは、他人や社会には関係がないことですが、そうやって立派な人間でいるだけでも、社会にとても善い影響を与えています

ですから、善行為は自利でも利他でもどちらでもよいのです。



あるいは、私が千円しか持っていません。その千円でごはんを食べようと外に出ました。その途中、たまたま道路で義捐金を集めている人たちがいて、持っていた千円を寄付しました。


ごはんを食べようと思っていたのに、ごはんが食べられなくなりました。

これは自分を犠牲にしたことですが、私は喜びを感じているのです。「善い行為をしました、よかった、よかった」と楽しい気分になっているのです。

千円でごはんを食べたら、それほど長持ちする楽しみは得られないでしょう。

このように、他人のためにやった行為でも、その結果は自分に返ってきます


ですから、自利と利他は区別することはできません。区別すること自体が間違いです。


善行為をすることによって人格が向上しますし、また社会のためにもなるのです。



問題は、心



それから、行為は闇雲におこなうものではありません。すべての行為は意志でやっていますから、意志が汚れると行為も汚れます。


たとえば十万円を誰かにあげたとしても、もし汚れた心であげたなら、善い結果にはなりません。十万円あげただけでは、善い行為にはならないのです。十万円を貰った人が、そのお金で麻薬を買ったり何か悪い行為をしたりすることを知りながらあげたならば、あげた人は罪を犯したことになるのです。


義捐金として十万円を寄付することとは大きく異なります。


ですから同じ「十万円をあげる」という行為でも、その人の意志で、善行為にもなり、悪行為にもなるのです。


社会では「怒りは悪い行為」と決まっていますが、親や教師、コーチなどはよく怒ります。


その人たちは、相手のことを嫌って怒っているのではありません。「育てたい」「一人前にしてあげたい」という意志が強いのです。やさしい顔を見せたら成長しないだろうと思っているのです。


ですから、親や先生の怒りは悪行為だと決めることはできません。



親が怖かったから、先生が怖かったから、という理由で立派な大人になった人は大勢います。


子どもが貪・瞋・痴の感情で弱くなっていて、貪・瞋・痴と闘う気力も失っている場合、親や先生はその子を怒鳴ったり脅したりしなくてはいけません。そうしないと、その子は感情に負けて堕落してしまいますから。


親や先生のその行為は、表面的には悪行為として見えるでしょうが、心は善い意志が働いていますから、善行為になるのです。


しかし、「善意なら怒っても脅してもいい」と決め付けるのは早計です。

怒らなくても脅さなくても、人々を育てる方法がいろいろあります。それには理性と判断能力が必要です。


仏教はこの問題を「優しい」と「厳しい」という言葉で解決します。お釈迦様は人を育てるとき、四つの態度をとられました。


 やさしくする 
 ・厳しくする 
 ・やさしくしたり厳しくしたりする 
 ・完全に無視する 


育つ見込みがまったくない場合は、その人に余計な迷惑をかけないよう、無視することをします。弟子入りを認めないのです。

人にたいして厳しい態度をとることは、必ずしも悪行為にはなりません。

悪意で厳しい態度をとることは、悪行為にきまっています。

悪意で他人にやさしく振る舞うことも、悪行為なのです。

ですから、意志に注意しましょう。意志が常に善になるように戒めるのです。


「意志が常に善であるように」と言われると、「それは無理。できるわけがない」という気持ちになるかもしれません。


お釈迦様は、子どもからお年寄りまで誰にでも、簡単に、四六時中、意志を善に保つ方法を教えられました


それは「生きとし生けるものが幸せでありますように」という気持ちです。

この言葉を常に念じて生きることです。


「私は他の人々のおかげで生きているのだから、社会にたいして恩返しをしなければなりません」という気持ちでおこなう善行為は、すばらしい善行為になります。

それによって、智慧も現れてくるのです。(了)

2018/10/29

1分間瞑想②



1分間瞑想①」の続き


私は気づきのことを「応急用具」と呼んでいます。
みなさんは指を切ったり、やけどをしたら、どうし
ますか?
すぐに救急箱を持ってきて手当てをするでしょう。
心の場合も同じです。

悩んだり、激しく動揺したり、混乱したり、精神的に苦しんだりしているときには、なんらかの応急処置をして、心を健全な状態に戻さなければなりません。

もし、心の苦しみにたいして何も手当てしなければ、身体の傷のように、苦しみが悪化するでしょう

最悪の場合、うつ病やノイローゼに陥ってしまう可能性があります
そして心の苦しみは、胃の疾患や心臓病などさまざまな病気として身体にあらわれることもあるのです。

心のなかではさまざまなことが起こっています。

深刻な病気を患ったときはじめて、これまで「人生を混乱した心ですごしてきた」ことを振り返るようになるのです。



グナラタナ長老〔著〕/出村佳子〔訳〕



したがって、病気になる前に、どこにいるときでも、常に気づくようにしてください。

「定期的な瞑想」とともに、日常生活のなかにこの「1分間の瞑想」を加えるとよいでしょう。こうやって心を訓練するのです。


心がいらだったら、いらだったまま行動しないでください。

一度立ち止まり、いらだちに対処してから、次の行動をするのです。

 仏教Q&A『1分間瞑想②』
グナラタナ長老
翻訳:出村佳子

2018/10/26

智慧と善行為⑥

2018年10月26日更新、2012年6月24日作成


意志の汚れ


意志は、重要な働きです。どんな行為も意志から生まれています。問題は、私たちの意志が汚れているということです。




人に会うときには、きれいな服を着てかっこよく見せたいでしょうし、ごはんを食べるときは、よりおいしいものが食べたいでしょう。欲しいものを買う場合は、できるだけ値段が安いものがいいですから店員さんに値切ったりもするでしょう。

私たちには常に意志が働いていますが、その意志は貪・瞋・痴で汚れています。「貪」は欲、「瞋」は怒り、「痴」は無知です。

意志が汚れていますから、私たちの行為はほとんど悪行為になります。貪・瞋・痴で生きているかぎり、行為はすべて悪行為になるのです。


 貪・瞋・痴のブレーキ



皆さまも経験があると思いますが、善い行為をしようとすると、心にちょっとブレーキがかかるということが起こります。あのブレーキはなんでしょうか? 


たとえば、「お年寄りの方が電車に乗ってくると若者はタヌキ寝入りしますよ」と若者に悪口を言う人がいます。私はそう思っていません。

日本の若者はそんなに悪くないんです。では、なぜタヌキ寝入りするのでしょうか? 

どこかでブレーキがかかるのです。「どうぞ座ってください」と言えないのです。ポイントはそこです。あれが貪・瞋・痴です。

他の人が見ていますし、もし「結構です」と断られたら恥ずかしくて立場がないですし、あるいは譲っても座らないでしょうとか、自分も疲れているからこのまま座っていてもいいんじゃないかとか、いろいろ理屈をつくって席を譲らないだけです。

お年寄りなんか知ったことじゃないよ、とそんな気持ちはありませんし、別に悪い人ではないのです。

でも善行為はしません。それは貪・瞋・痴がブレーキをかけているからなのです。

そこで、東日本大震災のような大災害が起こると、もうブレーキがかけられない状態になって、みんな一斉にワーッと善いことをし始めるのです。ブレーキはもう機能しません。

普段はすぐにブレーキをかけます。何か善い行為をしようとすると、恥ずかしくてどこかでためらってしまうということがあるのです。このためらう気持ちが貪・瞋・痴です。

そこで、「善行為をするたびに、自分の貪・瞋・痴を戒めている」ということをおぼえておいてください。

善行為をすることで、自我がなくなって恥ずかしさも消えて、花が咲いたように明るくなります。

お年寄りの方が電車に乗って来たら、「どうぞどうぞ座ってください」とサッと席を譲ることもできます。

声をかけたところで相手の方に「次の駅で降りますから」と断られたら、「そのあいだだけでもどうぞ」と、すごく明るく言ったり、あるいは「私は立ちたくてたまらなかったんです」などと言うと、お年寄りの方も「若いのに、いい方ですね」と楽しくなります。

お互い、すごくやさしい世界が生まれます。それで電車に乗っていた五分間は最高に幸福な五分間になるのです。

そういうわけで、貪瞋痴を戒めなくてはなりません。そのために善行為をする。

善行為をすると、智慧が現れてくるのです。(続きます)


根本仏教講義「智慧と善行為⑥」
スマナサーラ長老法話

2018/10/23

智慧と善行為⑤

2018年10月23日更新、2012年6月24日作成

善悪の行為は意志で決まる



生きるとは、行為をすることです。
行為は、どんな行為であれ、意志(心)がないと起こりません。

「食べたい」という意志がなければ、食べる行為はありません。

呼吸をするときも、ずっと意志が生まれ続けています。息を吐き終わった瞬間に息を吸っていますが、そこにも意志が働いています。すべての行為は意志でおこなっているのです。






生きるとは、行為をすることです。
そして行為はすべて、意志から生まれます。「立ちたい」という意志がなければ立ちませんし、「話したい」という意志がなければ話しませんし、「歩きたい」という意志がなければ歩きません。

それから、意識的にわかる意志もありますし、わからない意志もあります。呼吸の場合は明確で、意識して呼吸をすることもできますし、意識しなくても呼吸はしています。

意識する・しないかにかかわらず、意志はいつでも働いているのです。

心臓も同じです。意志が働かないと、心臓は動きません。
でも私たちがいちいち意識して「はい膨らみましょう」「次は縮みましょう」などと考えていると生きていられませんから、そこはオートモードになっています。意識的にわからないだけで、本当は意志が管理しているのです。

たとえば、何か怖いことが起こると心臓はどうなるでしょうか? 

ドクンドクンとするでしょう。意志が管理しているからです。

すべての細胞の動きは、意志がやっています。また、その行為は心と身体に影響を与えます。

心と身体に善い影響を与えたいと思うならば、当然、善い意志で善い行為をしなくてはいけないのです。

しかし、生命はもともと心が汚れていますから、自然に悪い意志を起こして、悪い結果をだす行為を簡単にしています。


一般的に、「善行為に善果・悪行為に悪果」と言われていますが、お釈迦様は、「善い意志でおこなう行為には善い結果。悪い意志でおこなう行為には悪い結果」がおっしゃっています。

行為そのものよりも、「意志」に注意したほうがよいのです。

たとえば、義捐金として、ホームレスの人が1000円寄付し、大企業の社長が10,000,000万円を寄付したとしましょう。どちらの善行為が、より価値の高いものになるのでしょうか?

この判断は、「善行為をしたい」という意志によって決めなくてはいけないのです。

ホームレスの人の1000円は、もしかするとその人の全財産かもしれません。ごはんも食べられなくなるかもしれません。ですから、寄附行為をするときは、強い意志が必要だと言えるのです。

大企業の社長の場合は、全財産ではないのです。家計が苦しくなることも、飛行機に乗るお金がなくなることもないでしょう。ですから、それほど強い意志が必要ありません。

金額は1000円かもしれませんが、「全財産」をあげたホームレスの人のほうが善行為の価値が高くなるのです。

行為の結果は表面的なかたちではなく、内面的な意志によって決められるのです。

したがって、派手な行為が善い行為というわけではありません。どのくらい財産を持っているか、どのくらい派手なことをしたか、そのようなもので徳の大きさが決まるのではありません。自分の意志で決まるのです。
 (続きます)


 根本仏教講義「智慧と善行為⑤」

2018/10/20

功徳と善に完成はあるか?「善悪とは?③-1」


功徳と善に完成はあるか?


「功徳(puñña)」にも完成はありません。

いわゆる人を助けたり、ボランティアをしたり、お布施をしたりなど功徳行為しても、完成することはできません。

自分が精一杯やっても、もっとできるからです。

たとえば困っている人を助けるとしましょう。何人助けられますか?

限りがあるのです。ですから功徳行為は完成することができません。

2018/10/19

悪と不善に完成はあるか?「善悪とは?②-2」

悪と不善に完成はあるか? 


次に「完成」ということについて考えてみましょう。
悪と不善に「完成」はあるのでしょうか?


悪行為は激しく命を破壊し、不善行為は徐々に破壊します。


悪行為の場合、たとえば他人を殺したら、自分の命もそれで終わりです。社会から逃げても隠れても無駄です。自分がやった悪行為が、毎日自分を破壊していくのです。


不善行為とは判断を間違えたり、失敗したり、下手で何をやってもうまくいかず、結果がダメなことで、そうなってくるとじわじわと自分の人格が下がっていきます。

2018/10/18

「善悪」とは?②-1


悪と不善・功徳と善の関係 


図を見てください。

図:スマナサーラ長老


左上のギザギザの図が、「悪と不善の関係」です。

2018/10/17

【更新】


根本仏教講義『智慧と善行為』を一部アップデートしました。

 智慧と善行為
智慧が開発するか否か?
智慧のある人
調和し、補い合い、協力する
ネットワーク

  生きとし生けるものが幸せでありますように 

2018/10/15

1分間瞑想①



質 問

瞑想会ではみなが瞑想していますから瞑想しやすいのですが、自宅に帰り、日常の忙しい生活に戻ると、気づきと静寂を保つことができなくなります。
どうすれば日々の忙しい生活のなかで瞑想することができるでしょうか?

「1分間マインドフルネス瞑想」グナラタナ長老〔著〕出村佳子〔訳〕


A:回 答――グナラタナ長老

「気づき(マインドフルネス)」を保つ方法のひとつとして、ペースを落とし、スローモーションで生活することがあります。

スローモーションを実践することは、お寺にいるときでも、自宅にいるときでも、どこでも実践できるでしょう。

人は世界平和を築くことについてよく語りますが、心に平和を築くこと――心を健全で穏やかにすること――に関心をもつべきです。こうした善い心は、気づきから生まれるのです。

職場にいるときや静かな場所で長い時間坐ることができないときには、数分だけでも気づきを実践するとよいでしょう。

だれでもできる実践法があります。私はこの方法をすすめています。

1日のなかで1時間ごとに、1分間だけ気づきの実践をするのです。59分間はいつもどおりに仕事をし、1分間休憩をとって、心を呼吸にしっかりと集中させるのです。 

できれば、目を閉じてください。

忙しいオフィスでデスクワークをしている場合は、目を開けたまま前方の一点を見つめるとよいでしょう。 そのまま静かに心のなかで呼吸を15回数えます。そうするとだいたい1分くらいたっているでしょう。

その1分間は将来の計画をたてたり、何かを考えたりしないでください。思考から完全に心を解き放つのです。


1分間たつと、心はいくらか明晰になるでしょう。

これからの59分間、仕事にとりくむ強さが得られました。その後「1時間たったらまた1分間、気づきの瞑想をしよう」と心に誓ってください。

台所や事務所にいるときでも、この1分間の気づきの瞑想をすることができます。

駐車場に車をとめてエンジンを切ったときにもできますし、トイレ休憩のときにもできます。

8時間仕事をしているなら、この1分間の瞑想を1日おこなうと、仕事が終わるまでには8分間瞑想したことになります。1日の終わりには普段のように緊張したり疲れたりすることがないでしょう。

さらに、心理的にも肉体的にも、より生産的で、より健康的に1日をすごすことができるのです。
私たちは自分の心の主導権を握っています。ひとりひとりが落ち着いて行動することを学ばなければなりません。

社会ではマインドフルでない人が大多数を占めています。もしあなたがその中に入ってしまったら、すぐに堕落してしまうでしょう。その罠に陥らないよう、気をつけてください。

自宅にいるときでも、瞑想センターにいるときでも、車に乗っているときでも、スーパーのレジで順番を待っているときでも、どこにいても、気づいてさえいれば、気づきはストレスや苦しみが起こらないよう心を守ってくれるでしょう

 (続きます)

2018/10/12

仏教の「悪」の定義「善悪とは? ①‐2」


仏教の「悪」の定義


「悪」の定義は何でしょうか?
それは、「自分と他の生命にたいして迷惑な行為をすること」です。

ここで理解してほしいのは、仏教では対象は「自分」と「他の生命」だということです。自分に迷惑な行為をすることも、悪であり罪なのです。


皆さんは他の生命をいじめることは罪だと知っているでしょう。自分で自分をいじめたり害を与えたりすることも罪なのです。


このように、仏教の悪の定義とは自分と他の生命に迷惑をかけることです。仏教心理学から、この定義を設定しているのです。

2018/10/09

善悪の勉強「善悪とは? ①‐1」


まず善悪の勉強から始める


私たちは善と悪について新たに理解すべきです。みながよく言っている「世界は悪(善)で満ちている」などのセットフレーズに乗るのではなく、実際に「善とは何か、悪とは何か」をちゃんと理性で理解したほうがよいのです。

仏教では、善には二種類あり、悪には二種類あります。それぞれどのような意味なのかを学んでみましょう。