仏教が教えている「正しい希望」とは、「具体的で、合理的な、実行できる希望を持ち、それを達成できるよう、日々努力すること」をいいます。
人のいちばん悪いところは、心です。心が汚れていて、考え方が正しくないから、いつでも失敗するのです。
ですから、常に正しくものごとを考え、正しく判断できるよう、自分の思考を直すこと、言い換えれば、貪・瞋・痴など悪い感情をなくしていくこと、これを目的にして努力することが正しい希望なのです。
同時に、「より立派な人間になろう」という目的を持つようにしてください。
「このままでいい」と思うのではなく、「今の私の状態は不満です。ほんの少しでもいいから昨日より良くなるように努力しよう」と、ポジティブな目的を持つのです。
この点に関しては、不満でもかまいません。
そこで、今の不満がなくなったら、また次の不満が生まれてくるでしょうから、そのときはまた、「もう少し良くなろう」と頑張るのです。
このように、不満を観察してみてください。不満を理解することによって、「より良くなろう」という希望と精進が生まれてきます。ですから、不満は希望であるとも言えるのです。
仏教は、不満をなくすことを教えていますが、だからといって、不満が悪いというわけではありません。不満を理解することによって、人は成長することができるのです。
不満のことを、パーリ語で「Dukkha(ドゥッカ)」と言います。「Dukkha」は私たちが解脱するまで付いてくるものです。この「Dukkha」を理解することによって、心は成長し、進化することができるのです。
仏教では、徹底的に、あらゆる面から不満を理解しなさいと教えています。そうすれば、「その不満を何とかしなくてはいけない」という希望が生まれてくるからです。
ある経典で、お釈迦様は比丘たちにこうおっしゃいました。
「もしどこかのお坊さんが悟りを開いたと聞いたなら、悔しくなってでも、慢心を持ってでも、自分も悟れるように精進しなさい」
あの人にできたのになぜ私にできないか、あの人に努力できたのになぜ私に努力できないか、このように他人と比べることは慢心であり、ほんとうは悪いことなのですが、ある経典でお釈迦様は、そういう気持ちを持ってでも、解脱するために頑張りなさい、とおっしゃっています。
これは「欲をもって、欲を戒める」ということで、「自分も悟りたい」という欲を作るのです。隣のお坊さんが悟ったらすごく悔しい。「私もやるぞ」という大きな欲というか、希望を作って頑張るのです。
世俗的な幸福も、同じ道です。正しい希望を持ち、朝晩まじめに仕事をすれば、経済的にも社会的にも豊かになるでしょう。
「頭をしっかりさせたい」と希望する人は、日々、勉強しますから頭が良くなるでしょうし、反対に、自分は一流大学を卒業して卒業証書をもらったからそれでいい、と終わる人は、怠けて勉強しませんから、どんどん頭が悪くなるでしょう。
私たちは常に上へ上へと向上し、それ以上、上がない頂点に達するまで、日々、精進し続けなければならないのです。
正しい希望を持って、心の不満を少しずつなくすように努力する人は、最終的に一切の不満をなくし、最高の幸福である解脱が得られるでしょう。
(続きます)
スマナサーラ長老
根本仏教講義『希望と欲望⑦-1』
文責:出村佳子
希望と欲望
⑥-2)何を「目的」にするか?