2019/03/29

すべての生命の幸せを願う

人生改良計画④-3

自分の幸せをしっかり願うことができたら、次に両親、家族、親戚、先生、友人など、親しい人たちの幸せを願います。


自分がいま生きているのは、周りの人たちのおかげです。周りの人たちに助けてもらったり、面倒をみてもらったり、いろいろ教えてもらったから、今の自分があるのです。ですから慈しみの気持ちを込めて、「私の親しい人たちが幸せでありますように」と念じてください。

『生命の幸せを願う』スマナサーラ長老、文責:出村佳子

自分の幸せを願い、親しい人たちの幸せを願うことができたなら、次にすべきことは、生きとし生けるものの幸せを願うことです。


私が幸せになりたいのと同じように、あの人もこの人も、近くにいる人も遠くにいる人も、虫も鳥も動物も神々も、あらゆる生命が「幸せになりたい」と思っています。誰も苦しみたくないのです。

ですから、自分が生きる場合は、「すべての生命が幸せになりますように」と思わなくては、とんでもない法則違反を犯していることになるのです。


たとえば犬を飼っているなら、犬は人間にエサをもらったり、遊んでもらったり、散歩に連れて行ってもらったり、いろいろ楽しみたいと思っています。それで、飼い主が愛情をもって親切に飼ってあげれば、犬も楽しいですし、自分も楽しい。お互いに楽しいのです。


でも、その楽しみを捨てている人がいます。「人間は犬よりも偉い」という傲慢な態度で犬を飼っている人たちがいるのです。そうすると、犬は惨めでしょうし、飼い主もその傲慢さのために、とても苦しむのです。


仏教は、人間やペットだけでなく、すべての生命にたいして、幸福を願います。そうすると苦しみが消えて、すごく幸福に生活できるのです。


常に自分の幸福と、生命の幸福を考えて、行動してください。これはすごく楽しいことです。


また、すべての生命の幸福を願うことによって、ほとんどの問題が解決するのです。「生きとし生けるものが幸せでありますように」と考えることで、親子の問題、夫婦の問題、人種問題、宗教間の争い、環境問題、自然の問題など、あらゆる問題が解決するでしょう。


それから、すべての生命の幸福を願えるということは、自分の心が成長したということでもあります。心が成長するにつれて、幸福感もどんどん増えていきます。ですから無駄な思考をして苦しむのではなく、幸福を目指して頑張った方がいい、というのが仏教の世界なのです。(続きます)


スマナサーラ長老法話
根本仏教講義『人生改良計画⑤-1』文責:出村佳子






2019/03/23

自分は悪行為をしないと決める「善悪とは?⑦-1」


人はだれでも、心が貪・瞋・痴でいっぱいですから、間違いをすることは当たり前です。

しかし、「自分は正しい」と錯覚し、傲慢や自我意識が強く、主張が強い人は、他人を正そうとしたり、世直しをしようとしたりします。

結局、自分が大きな苦しみを抱えるはめになるのです。



一方、「生命には貪・瞋・痴がある」「貪・瞋・痴があるから生命だ」と知っている人には、何の問題も起きません。

その人にとって、世の中の悪は問題になりません。

なぜなら、人はみな貪・瞋・痴で生きていて、自分もまた貪・瞋・痴で生きているということを知っているからです。それで、傲慢が消えるのです。



世直しをしようとすることは、ある魚が他の魚の泳ぎ方を非難するようなものです。

魚は種類によってそれぞれ泳ぎ方が違いますね。

たとえば、サメがキンギョに向かって、「おまえの泳ぎ方は間違っている」とか、「君は泳ぎ方が下手だ。そんな泳ぎ方ではダメだ」などと非難するのは愚かなことでしょう。ばかばからしい話です。



「自分は悪行為をしない」と決める



そこで、世直しをしようとするのではなく、こう考えてください。

「世の中の人は悪行為をする。だからこそ、私は悪行為をしない」と。

ブッダの戒めに従って生きるのです。


たとえば、妻が間違っている…、夫が間違っている…、親が間違っている…、子どもが間違っている…、会社の人が間違っている…、友だちが間違っている…、世の中の人はみんな間違っている…、と考えて、「いい加減にしろ」と怒る人がいるとしましょう。

その人は、自分が世直しをしたいのです。

奥さんは旦那さんを直したいんです。でも、いくら言っても聞いてくれませんから、腹が立ちます。

親は子どもの間違いを直したいけれど、子どもはまったく聞いてくれません。

上司は部下を直したいのですが、いっこうに聞いてくれません。

では、どうしますか?

怒って自分が自己破壊するのでしょうか?

ばかばからしいのです。


他の人は性格がだらしなくてもかまいません。

それを直す必要はありません。

直せるなら直しますが、直せないでしょう。

それで、あなたに戒めがあるのです。


「他の人は悪行為をする。だからこそ、私は悪行為をしない」

これは「サッレーカ・スッタ」(削減経)のポイントです。

経典には、

他人は殺生するが、我々は殺生しないように戒めましょう。 

他人は与えられていないものを盗るが、我々は与えられていないものを盗らないように戒めましょう。 

他人は嘘をつくが、我々は嘘をつかないように戒めましょう。 

他人は陰口を言うが、我々は陰口を言わないように戒めましょう……

などとあります。

これで、すべてが解決するのです。


他人は不正をしたり、足を引っ張ったり、落とし穴をつくったり、嫉妬したり、悪口を言ったり、騙したり、盗んだり、非難したり……、きりがありません。

だからこそ、私はそういうことをしませんと決めるのです。


旦那さんが奥さんの言うことをなかなか聞かないなら、奥さんは、「いいですよ、私はしっかりした人間になります」と決めれば、それでその問題は解決するのです。


ここでお釈迦様は「世の中の悪」を、自己完成のために使うことを見事に教えています。

お釈迦様ご自身は使っていませんが、私たちにそのやり方を教えているのです。

「他人は悪行為をする。だから、君は悪行為をしないでください」と。


そう言われると、やる気が出てきます。俗っぽくいえば、悪行為をする人を見て、「あなたみたいな人にはなりません」と決めることです。

そう考える場合、相手を直そうとしていませんね。その人の悪い性格が、自分を直すための助けになっているのです。


(続きます)


生きとし生けるものが幸せでありますように


2019/03/21

対話と理解「善悪とは?⑦-2」


親が子どもを正そうとするとき…、妻が夫を正そうとするとき、夫が妻を正そうとするとき、上司が部下を正そうとするとき、私たちは一方的に説教するということがよくあります。

ですが、説教してあまり意味がありません。効き目はほとんどないのです。

そこで、説教するのではなく、相手の意見を聞いて、理解しながら、客観的に事実を語る「対話」が、有効的で、役に立ちます。

私たちの悪いところは、一方的に話すということです。

対話をしようとしないのです。

私も講演するときはいろいろ工夫をしています。

くだらないことや冗談を言ったりして、皆さまの頭のなかだけでもいっしょに対話しましょうという感じで話すのです。

話すときは、相手が理解して納得がいくよう、努力しなくてはなりません。

また、相手に「どう思いますか?」と聞いたり、相手の話にたいして「そうですか」「なるほど」などと言ったりして、対話をするのです。

もし、ちょっと間違ったところが見えたら、「ここはこうしたらどう?」とか言い、そうやってお互いに話し合って対話することが必要です。


「善悪とは? 対話と理解」スマナサーラ長老 文責:出村佳子

これが人を育てる方法です。

自分が上に立って人を育てるのではありません

人に指図するのではなく、互いに対話し、話し合って、合意に達するのです。

これは結構、自分がしっかりしていないとできることではありませんが、心が成長すればするほど、相手のことを理解することができるでしょう。

理解があれば、いつでも相手と合意に達することができるのです。


(続きます)


生きとし生けるものが幸せでありますように


2019/03/14

慈悲の瞑想 ~病に苦しんでいる方へ


病に苦しむ人、病院にいる人たちが、
安穏でありますように。
幸せでありますように。
痛み、苦しみ、落ち込み、失望、不安、恐怖が
なくなりますように。
慈しみで包まれますように。
心と身体が慈しみで満たされますように。


慈悲の瞑想
Sabbe sattā bhavantu sukhitattā 

2019/03/13

相対論(智慧ある人は愉しんで生きる②)


相対論

相対論を最初に発見したのは仏教です。相対論は、言い換えれば因果論のことです。では相対論とはどのようなものか、考えてみましょう。次の図1を見てください。

(図1)——


「この線は長いです」と言うと、皆さんどう思いますか?

「はいそうですね、この線は長いです」と何かわかったような気がするのではありませんか。それは「長い」というものが実体として有ると思っているからです。でも、ほんとうにこの線は「長い」のでしょうか。次の図2を見てください。

(図2)———————


実は図1を見ただけでは、図1の線が長いとは言えないのです。長いと言えるのは、図1と図2の二つの線を比べたときです。つまり長いという言葉は、二つ以上のものを比較したときに初めて成り立つ言葉であって、一つだけでは成り立たないのです。これが相対論です。


他のどんな言葉もこのようなものです。大きい・小さい、高い・低い、美しい・醜い、上手・下手など、すべてのものは相対的に成り立っています。しかし、私たちは相対的ということを知りませんから、何に対しても固定的、実体的に「有る」と錯覚し、わかったような気持ちでいるのです。


日常生活のなかで人と喋っているとき、ほんとうは互いに何も意味が通じていないのに、私たちは意味が通じていると思い込んでいます。たとえば二人の女性が喋っているとしましょう。どちらか一人が話しているとき、もう一人は聞いているはずですが、実は聞いていないのです。もちろん本人は聞いているつもりですし、相手の話しに合わせて頷いたりもします。しかし頭のなかは自分の妄想でいっぱいなのです。


たとえば一人が「太い」と言ったとしましょう。するともう一人は「私のことを太いだなんて失礼な人だ」と勝手に妄想して、腹を立てたりするのです。でも相手は「太い」と言っただけで、何が太いのかは言っていません。犬を見て「太い」と言ったのかもしれませんし、近くの木を見て「太い」と言ったのかもしれません。なのに聞いているほうは「太い」という言葉を実体としてとらえ、さらに自分勝手に妄想して、気分を悪くするのです。

『智慧ある人は愉しんで生きる』スマナサーラ長老 文責:出村佳子







それに対し、智慧のある人は、人が何を言おうとも、怒ったり舞い上がったり落ち込んだりしません。相手が言う言葉に意味があるかないかを客観的に判断して、意味がある場合はその意味を理解して終わります。上の例で「図1の線は図2の線より長い」と言えば、それで終わるでしょう。何も問題は生じないのです。


それから、意味が無い場合も悩みません。しかし普通の人は悩むのです。たとえば「あなたはAさんより太っている」と言われると、女性ならたいてい悩むでしょう。



でも智慧のある人はこう考えるのです。「Aさんと比べると太っているという結果になるが、Bさんと比べると痩せているという結果になる」などと。柔軟に考えて、愉しむことができるのです。ですから、すべてのものは相対的であると理解する人に、悩みはありません。(続きます)


A. スマナサーラ長老 法話
『智慧ある人は愉しんで生きる2 -1』文責:出村佳子







2019/03/11

正直に自分の幸せを願う

人生改良計画④-2

正直に自分の幸せを願う


仏教では、まず偽善を取り除くことから始めます。そのためには、「私が幸せでありますように」と自分の幸せを正直に願うことです。「私は幸せで、楽しく、清らかな気持ちで生きていきたい。悩んだり苦しんだりすることなく生きていきたい」と念じるのです。


その気持ちをもって、家族に接したり、仕事をしたりしてみると、すごく気楽にできるでしょう。たとえば子供にしつけをするとき、お母さん方はいきなり、「勉強しなさい、ゲームばかりして!」などと感情をぶつけがちです。その場合、子供は聞いてくれるでしょうか?


ほとんど聞いてくれません。そうではなく、自分の気持ちを正直に伝えればよいのです。
「ゲームばかりしていると、お母さんが心配になりますよ。そんな調子だったら、あなたのことをかわいいと思えないし、面倒をみるのも楽しくありません」

そう言うと、子供は耳を傾けようとするのです。それで性格も直っていくと思います。


前回の不登校の例の場合には、このように言うこともできるでしょう。「学校に行かないんですね。お母さんには別に関係ありませんよ。あなたが本当にそれでいいと思うなら、どうぞ好きなようにしてください。あなたが学校に行かなくても、お母さんの頭が悪くなるわけではありませんから」と。
子供の問題を、自分の問題にしないことです。


そうすると、子供は「やばい、勉強ができなくてバカをみるのは自分だ。やっぱり学校に行かなくちゃ」と考えるものです。自分で考えて理解したことなら、もう不登校になることはないでしょう。なぜなら、誰でも自分のことが一番大切で、好きで、かわいいのだから。(続きます)

スマナサーラ長老

根本仏教講義『人生改良計画④-2』文責:出村佳子








2019/03/09

悟りに至るための7つの要素


悟ることは不可能なこと? の続き


A:回 答 ―― グナラタナ長老



実践と経験が深まれば深まるほど、ブッダが説いた「七覚支」――悟りに至るための7つの要素――を育てるよう、精進するようになるでしょう。この7つの要素は、順番に育っていきます。ひとつの要素が育つと、次の要素が育つのです。


まず、気づき(sati:念)を育てることから始めます。

気づきが育つと、択法(dhamma-vicaya)が育ちます。
(択法:明晰に見ること、分析すること)

択法が育つと、精進(viriya)が育ちます。

精進が育つと、喜び(pīti:喜)が育ちます。

喜びが育つと、軽安(passaddhi)が育ちます。
(軽安:心身が軽やかで安らかになること)

軽安が育つと、心が統一(samādhi:します。

心が統一すると、平静(upekkhā:捨)が育つのです。


正直に決意して、真摯に実践しているとき、これらのことを、ほんのわずかかもしれませんが、垣間見ることができるでしょう。
実践が深まれば深まるほど、悟りへの理解も深まっていくのです。

ただ、私たちにとっていま大切なことは、実践(気づきの実践)を始めること、そして心を清らかにするよう、精進を続けることです。


 五蘊(色受想行識)の生と滅を、
 瞬間瞬間、智慧で洞察するとき、
 その人は喜悦を味わい、
 不死(涅槃)を見る
 ~ダンマパダ374

グナラタナ長老
仏教Q&A『悟ることは不可能なこと?』翻訳:出村佳子

2019/03/04

悟ることは不可能なこと?







A:回 答 ―― グナラタナ長老




悟りに達するための最もシンプルな方法があります。それは、欲と怒りと無知を取り除くことです。それだけです。それ以外、することはないのです!(笑)


グナラタナ長老著 出村佳子訳


悟ることが大変だと感じるのは、事実だと思います。しかし、このような疑念を抱くのは、無知があるからです。心の最も根底にある、無知から生じているのです。


私はいま、「無知」という言葉を使いましたが、どうか気分を悪くしないでください。どんな人にも無知はあります。無知が強い人もいれば、弱い人もいます。無知が強ければ、「悟りに達するのはむずかしい、無理だ」と思うでしょう。


しかし、無知を取り除くにつれ、だんだん「悟りは不可能なことではない」ということがわかってくるのです。心を育てるにつれ、悟りとはどのようなものかということがだんだん見えてくるでしょう。


そこで、いますぐに悟らなければならない、などと考えないようにしてください。焦らないように! 私たちがすべきことは、まず「心を清らかにしよう」と実践を始めること、そして、ひとつずつ段階的に進んでいくことです。


この道に、近道はありません。 精進して、欲と怒りと無知をひとつひとつ取り除き、このように実践していくのです。

2019/02/27

偽善者に幸福は来ない

2011-07-26 Tue 人生改良計画4 -1

「〇〇に尽くす」という偽善


私たちは、「自分が幸福になりたい」ということさえ、はっきり知りません。「私は自分を犠牲にして家族に尽くしている」と言う人もいますが、それは嘘だと思います。


もし、本当に家族のために尽くしているなら、なぜ文句を言ったりするのでしょうか? 旦那に尽くした、家族に尽くした、会社に尽くしたなら、それで十分でしょう。なのに、心のなかは不満だらけなのです。


ですから、「あなたに尽くしています」というのは嘘です。事実は、自分のこと、自分の幸福のことしか考えていないのです。


でも、「自分が幸福になりたい」と考えることは悪いという意味ではありません。悪いのは、その本音を隠して、「あなたのために尽くしています」と偽善ぶることです。


たとえば、自分の子供が引きこもりになって不登校になったとしましょう。親は子供のことをとても心配します。しかしそれは外見上のことで、本当は子供が学校に行かないと自分が不安で心配でたまらない、それがいやなのです。


ひどい母親は、「うちの子が不登校になった。学校に行かないでぶらぶらしている。近所の奥さんたちのうわさになるのではないか。恥ずかしい」と、自分の世間体やメンツを気にしま。それで感情的になって、子供に「なんで学校に行かないの!」と怒鳴ったり責めたりし、おまけに「私はあなたのために言っているのよ」と大嘘まで言うのです。






これは、子供のために言っているのではなく、正直なところ、母親は自分が大切で、自分のために子供に学校に行ってほしい、と考えているのです。


そこでポイントは、自分が大切だと思うなら、それを正直に認めることです。「子供が学校に行かないで引きこもっていると、自分が心配だ」「自分が恥ずかしい」ということを認めるのです。


しかし私たちは自分の本当の気持ちに気づかずに、子供にあれこれ命令します。偽善で、言っていることは無茶苦茶ですから、子供は母親の言うことを聞かないのです。


「自分が幸福になりたい」というのは事実であり、真理です。真理を無視して、どうやって正しい生き方ができるでしょうか? ですから「自分の幸せ」をしっかり念じることが大切なのです。(続きます)

スマナサーラ長老

根本仏教講義『人生改良計画④-1』文責:出村佳子




2019/02/24

【重版】『マインドフルネスの原点』


★当ブログにて少しずつ公開していきます。

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私たちの身体は不安定であり、絶えず変わり続けています。髪は変化し、爪は変化し、歯は変化し、皮膚は変化しています。あらゆるものが変化しています。心も、常に変化しています。したがって、心は……

アチャン・チャー法話集2巻 マインドフルネスの原点 出村佳子訳

2月にアチャン・チャー法話集 第二巻 『マインドフルネスの原点』が重版になり、第2刷になりました。読んでいただけて、よかったです。心より感謝申し上げます。ありがとうございます。