2019/02/08

他の役に立つように生きる「善悪とは?⑥」


他の役に立つように生きる


世の中を直そうとすることは、自我でおこなう悪行為です。

世直しをすることなど、私たちにはとうていできません。

前の号で「功徳」について説明したとき、功徳は完成させることができないということをお話しました。いくら功徳を積んでも、やるべきことが残っているからです。これが死ぬまで続いていくのです。

世直しも、これと同じです。世直しは、いくらやってもやりきれません。不可能なことで、ありえないことなのです。


そこで、世直しをするのではなく、人の役に立つことをして生きてみてください。

役に立つ行為をしている人を非難する人はいますか?

いないでしょう。

いないんだったら、人の役に立つことを実行すればどうでしょうか?

どんな宗教でも「人の役に立つ行為は善いことだ」と言っています。

ですからやってみてはいかがでしょうか。


世の中には、社会を直しましょう、皆を愛しましょうなどのスローガンが溢れています。

一見、とても美しい言葉のように感じます。

しかし、みな不完全な言葉に惹かれるだけで、スローガンに実行力はないのです。

言葉というものは、人を感動させるために使うよりは、人々の役に立つために使ったほうがよいのです。


これから、人に何かを教えるときのポイントを説明いたします。



・個人攻撃をしない


誰かの生き方に過ちや間違いが見えたとき、「おまえが悪い」と言うのはやめてください。

真理を知っている人にとっては、「おまえ」や「私」ということは存在しません。「みな生命だ」と見るのです。

その人は、「生命は過ちをするものであり、やってはいけないことをするものだ」ということを理解しています。

それで、相手を責めるのではなく、「そんなことをしたらどんな結果になると思う? これをやり続けてもいいと思う?」と聞くのです。


あるいは、やったことにたいして「まあいい、終わったことだから。今日から真面目に生きましょう」と、それだけ言います。

そうすると、言われたほうは安心して、気持ちが落ち着きます。

こんな優しい人にもっと信頼されたいという気持ちになり、善行為をするようになるかもしれません。

これが正しい世直しのやり方なのです。



・客観的な事実を語る


他人に道徳を語るときは、宗教、信仰、主義などの先入観を入れずに、客観的な事実を話さなければなりません。

みんな、何かを話すときは自分の言葉に権威をつけるために、すぐ宗教や自分の信仰を持ち出すのです。

そうすると対話ができなくなります。

たとえば「神様が禁止しているから〇〇をやってはいけません」と言う人に、「自分は神様を信じていません」と言えば、それで話しは終わってしまうのです。


他人に道徳を語るときは、宗教や信仰、主義などの先入観を入れてはいけません。

文化も使ってはいけません。文化は変わるものですから、そういうものを使って人を育てることはできないのです。

私たちはその間違いをよくやっています。



仏教がいう「善・不善・功徳・悪」は、すべての生命に共通する普遍的なものです。

ある特定の宗教の教えでも、哲学でもありません。人が否定することは不可能なのです。


・自分で実践して体験する


自分がまず実践して、体験することが大切です。

その後、他人に話すのです。

他人の過ちを直す場合は、お釈迦様の言葉づかいを学んでみてください。

お釈迦様はビシッと完璧に語られるのですが、個人攻撃はしません。

相手の尊厳を害すことはしないのです。


お釈迦様は一度も「汝は殺生するなかれ」と命令したことはありません。

出家者にたいする戒律項目はそういうふうにありますが、そのときでも極力命令することは避けています。


命令するというのは、人権侵害です。お釈迦様は指令ではなく、「幸福になりたければ、殺生をやめたほうがいい」とか、「自分の幸福を目指す賢い人は殺生しません」とおっしゃいます。

「あなたは殺生するなかれ」と命令しません。

このような言葉を使っていましたから、お釈迦様に逆らうことは誰もできなかったのです。



他の役に立つように生きる スマナサーラ長老(根本仏教講義『善悪とは?⑥』/文責:出村佳子)



直せるのは一部の人だけ


私たちが直せるのは、自分と関係のある、自分の影響力が伝わる人だけです。

お釈迦様の場合は特別な能力がありましたから、影響力はものすごく強力で、広大に及びました。

お釈迦様に会って5分か10分話すだけで、その人は善人に変わったほどです。

他宗教の人はこれを間違えてとらえて、「お釈迦様は魔力を使っているのではないか」と言う人もいましたが、あれは魔力ではありません。



私たちが直せるのは、自分と関係のある、自分の影響力が伝わる人だけです

私たちに大それた世直しはできません。


たとえば私の話を聞くのは、私に関係がある人たちだけです。

この説法も、こちらに来た皆さま、あるいはこれを読んでいる皆さまだけにしか届きません。

自分の影響力が伝わる人だけなのです。

ですから、そんな程度で、私たちの能力はいつでも限りがあるということを理解しなくてはいけません。



そこで、自分の限られた範囲内で他人に「道」を教えましょう。

世直しをしたり、非難合戦をしたり、「なんだこの世界は」とか「この世界はろくでもない」などと言って精神的に苦しんだり病気になったりする必要はないのです。



たとえば自分の子供が何か間違ったことをしたら、それは直してあげます。

となりの家の子が間違ったことをした場合には……、

何も言わないほうがいいでしょうね。

もし、自分の子供が「となりの子もやっているから」と言ったら、こう話してください。「それはかまいませんよ。君が立派な善い人間になってほしい」と。


(続きます)


生きとし生けるものが幸せでありますように


2019/02/06

不満と希望(希望と欲望⑦-2)



不満と希望


最後に、不満と希望の関係について、もう少し説明を付け加えておきたいと思います。

私たちは心の中で不満を感じていますが、それはあまりにも大雑把で、はっきり「これが不満」ということは知りません。そこで、「私はこういうことが不満です」と具体的に理解するようにしてください。自分の不満は何か、何が、どう不満なのか、ということを明確に理解するのです。そうすると、それはなくせる不満か、なくせない不満か、ということが分かりますし、それが分かれば、不満を解決する道も出てきます。そうでないと、ただ「なんとなく不満……」ということで終わってしまうのです。



そこで「なくせる不満」なら、実際なくすように努力します。とはいえ、その不満が消えれば、次の不満が現れて来るでしょうから、そのときはまた、次の不満を理解するようにしてください。



「なくせない不満」なら、きっぱりあきらめることです。私たちは夢や希望、欲望をいろいろ持っていますが、それらはあまりにも大雑把で曖昧なため、混乱しています。そこで、このときも現実的になって「自分は何になりたいか、どうなりたいか」と考えてみるのです。


もし「この夢は大きすぎる。あり得ないものを考えて妄想している」ということを発見したなら、「これは自分に無理」ということがはっきり分かりますから、きれいにあきらめて落ち着くことができるのです。


希望には二つあります。
一つは、実現できる希望。これは実現できるように努力することが大切です。


もう一つは、ただの夢で、とんでもない妄想から生まれた希望です。これが見つかったら、そんなことはあり得ない、不可能だ、とその場できれいに取り消してください。



たとえば、ある20歳の若者が歌手として大変人気が出て、短期間で億万長者になりました。それを見て「自分も億万長者になりたい」と思ったとしましょう。このとき、こう考えるべきです。お金が欲しいということは、いま自分にお金がないということ。あの歌手みたいに短期間で億万長者になれればいいけど、私の能力では無理。では、私の能力では実際どのぐらいのお金を稼ぐことができるだろうか。また、どのぐらいのお金が私の生活には必要か、と考えてみるのです。それで計算して、自分のレベルに収入の目的をダウンし、それを目指して頑張るようにするのです。


スマナサーラ長老法話 出村佳子(文責)



危険を知る人が、危険を避ける



不満を理解していないと、私たちの生き方は曖昧で、はっきりしません。これはちょうど目に膜が付いている人が森の中で迷っているような状態です。


目に膜が付いている人が、一人で森に入りました。目が見えないと、木にぶつかったり、つまずいて転んだり、蛇に噛まれたり、ハチや虫に刺されたり、迷子になったりと、非常に危険です。



そこで、目に付いている膜を外すとどうなるでしょうか?


その人は、ヘビや危険な獣がいることを見ることができますし、「森は危険である」ことを知ることができます。それから、東はどこか、西はどこかと方角を知ることもできます。それで順番に歩いて行き、やがて森から出ることができるのです。


たとえ出られなくても、目が見えなかったときほど危険な目に遭うことはないでしょう。木にぶつかることもなく、安全な道を選んで歩くことができるでしょう。


同様に、不満という森で迷子になっている人が、目に付いている膜を外し、はっきりと「見る力」を持ちます。何を見るかというと、不満の危険性です。不満の危険性を見る人には、どうすればその危険を避けられるかということが分かるのです。



このように、森の危険性を見る人が森の危険を避けることができるように、不満の危険性を見る人が不満を乗り越える道を知るのです。




助け舟はお釈迦様の教え



問題は、私たちに不満を見る明晰な理解力があるかということです。
残念ながら、ほとんどの人にはありません。その証拠に、世間はいつでも悩みや混乱、ストレスでいっぱいです。



このような中で、私たちの助け舟は、お釈迦様の教えです。お釈迦様はご自身で智慧を育て、悟りを開き、真理を発見され、その真理を他の人々にも分かるよう、明確に教えました。そこで、私たちが明晰な理解力を育てるためにまずすべきことは、智慧の完成者であるお釈迦様の教えを学び、心の明晰さを濁らせる悪い感情を一つ一つ勉強することです。嫉妬や怒り、落ち込み、物惜しみなどの悪い感情は、心の明晰さを濁します。


会社で仕事をしているとき、隣に座っている人はライバルだと考えて、その人にたいして敵対心をつくったら、必ず自分の心が汚れます。相手を倒さなくちゃいけないと思った人は、相手を倒す前に、自分が負けるのです。ですからお釈迦様は、「競争心はよくない、他人をライバルと思うことはよくない」と教えました。そういうことを勉強して、汚い感情を避けるようにするのです。


これは仏教を勉強することでしか得られません。仏教の教えを聴くことは、徳の中でも非常に高い徳で、聴けば聴くほど頭が冴えてきます心の悪い感情はどれか、善い感情はどれかを明確に分析し、区別し、理解できるようになるのです。



次にすべきことは、実践です。心の汚れを最終的になくすことができるのは、今の瞬間に気づくという「ヴィパッサナー」です。これは私たちの心を清らかにする唯一の道であり、最も効果的で、最も優れた実践法なのです。(了)



スマナサーラ長老法話


根本仏教講義『希望と欲望⑦-2』/文責:出村佳子


2019/02/04

1日の瞑想ーどのくらい瞑想すべきか?





A:回 答 ―― グナラタナ長老


毎日、少なくとも、朝と晩それぞれ30 分間ずつ瞑想すべきだと思います。もちろんこれは決まっている時間でもなく、義務でもありません。在家生活でのあわただしく忙しい生活を考えると、これが瞑想したいと考えている方がすべき、最低の時間だと思います。

私はたいてい瞑想する在家の方には、毎日、怠ることなく、朝と晩、瞑想するようすすめています。

また、日中、働いている方は、以前お話した「1分間瞑想」を職場でするようにしてください。1時間ごとに1分間、瞑想するのです。

時間があるときには、瞑想合宿に参加して、集中的に瞑想するとよいでしょう。

このように、
・朝・晩30分間の瞑想と、
・職場で1時間ごとにする1分間瞑想と、
・瞑想合宿での集中的な瞑想
を実践することで、定期的に瞑想することができるのです。







決意する



それから、「気づきの実践をしよう」と決意することが大切です。実際、気づく機会は、1日のうちどの瞬間にもあります。夜、ベッドに横になっているときでさえ、呼吸に気づきながら眠りにつくこともできるのです。


座る瞑想について


「座る瞑想」は、朝と晩にするとよいでしょう。これを習慣にしてください。朝は、感覚がまだ静かで、1日のあわただしさに影響を受けていませんから、瞑想しやすいと思います。他の誰よりも先に起きて、その時間を自分の心を育てるために使うことは、とても楽しいことです。


在家の方にとって、夕方や夜に瞑想するのはむずかしいかもしれません。部屋のテレビがついていたり、パソコンの音が鳴っていたり、子どもたちが喧嘩したり、携帯電話のベルが鳴ったりなど、騒々しいかもしれないからです。


しかし、そうした騒音が静まってから瞑想したり、あるいは静かな場所に行って瞑想できるなら、夕方や夜でも十分に瞑想できるでしょう。

ペースの早いせかせかした現代生活では、どうしてもストレスがたまってしまいます。しかし、そうしたストレスや過度の刺激を、より簡単に、より穏やかに、より賢く対処する方法があります。

夕方や夜、定期的に30分くらい座る瞑想をすると、日中の疲れを和らげることができます。瞑想することで、心や精神を休ませ、心のいらだちを落ち着かせることができるのです。

ほとんどの方は、仕事から帰宅すると疲れてくたくたになっていますから、「夜、よい睡眠をとることが必要だ」と考えています。たしかに睡眠を十分にとると、身体や心は回復するでしょう。でも、夜「よい瞑想」をすることは、睡眠時間を長くとるよりも、遥かに効果的に、その日のいらだちや混乱、さまざまな感情を落ち着かせてくれるのです。

また、少し長めの時間、座って瞑想することを習慣にすることも大切です。なぜでしょうか?

それは、たとえば1時間座る瞑想をしていても、実際にしっかり瞑想できているのは15分しかないかもしれないからです。ですから、瞑想するときは、毎回、少し長めに坐るとよいでしょう。


仏教Q&A1日の瞑想ーどのくらい瞑想すべきか?
グナラタナ長老
出村佳子訳


2019/02/01

When the machine takes over the brain…


気づきと慈悲の実践: When the machine takes over the brain…2011-09-02 投稿


The brain has infinite capacity;  it is really infinite. That capacity is now used technologically. That capacity has been used for the gathering of information. That capacity has been used to store knowledge — scientific, political, social and religious. The brain has been occupied with this. And it is precisely this function (this technological capacity) that the machine is going to take over. When this take-over by the machine happens, the brain — its capacity — is going to wither, just as my arms will if I do not use them all the time.


脳


The question is : If the brain is not active, if it is not working, if it is not thinking, what is going to happen to it?  Either it will plunge into entertainment —and the religions, the rituals and the pujas are entertainment— or it will turn to the inquiry within. This inquiry is an infinite movement. This inquiry is religion. 


A Timeless Spring




2019/01/28

自己を観察し、平等を理解する(善悪とは?⑤-1)


差別することは悪行為です。

世の中の人は他人を差別し、指をさして、非難合戦ばかりしています。

でも、相手に指をさすとどうなりますか?



1本の指を向ければ、3本の指は自分に向いています。「悪いのはお前だ」と言って相手をさすと、残りの3本は自分をさしています。

ですから、他人を非難することはあまりにも愚かな行為です。



「生命」の定義



生命には貪瞋痴があります。

その貪瞋痴によって、生命は輪廻転生しています。

これは生命の定義でもあります。

貪瞋痴があるものを「生命(sattā)」といい、貪瞋痴がなければ「生命」ではありません。



ですから聖者は「生命(sattā)」とはいいません。

聖者には特別な仏教用語があり、「ariya」という言葉を使っています。

これは「乗り越えた」という意味です。


「sattā」は、日本語では「衆生」や「有情」という訳語になります。

感情があること、つまり貪瞋痴があるという意味です。


貪瞋痴の強度によって、区別が現れる
 
貪瞋痴の量は、生命によって異なります。貪瞋痴が働くためには、身体が必要ですからね。身体で貪瞋痴が制限されるのです。


たとえばアリが怒っても、人を殺すことはできませんし、スズメが怒っても、人を殺せません。


でも、人が怒ると、アリやスズメの巣をまるごと壊して、潰すことができるのです。この差です。貪瞋痴を動かす能力によって、貪瞋痴の強弱やランクが異なるのです。私たち人間の貪瞋痴と、アリやスズメの貪瞋痴の強さや量は違うのです。


他の生命を非難するのは愚かな行為



だからといって、人がアリやスズメを非難し、ばかにするのは間違っています。

「生命みなに貪瞋痴がある」ということは、すべての生命に共通していることです。

ですから、貪瞋痴で生きている生命が、他の生命に指をさして、ばかにすることは、とんでもない愚かな行為です。



たとえばアリに向かって、「お前は小さいからたいしたことができない」とか、ヘビやコブラにたいして、「身体が小さいのに瞬時に人を殺して、お前はとんでもないやつだ。殺される前に、お前を殺してやる」などと考えることは愚かなことです。

アリも、ヘビも、コブラも貪瞋痴で生きています。

人も、貪瞋痴で生きています。

みな同じ貪瞋痴で生きているのです。そこに差はありません。





自己を観察し「平等」を理解する


私たちはみな平等です。この平等ということを理解するために、自己観察をしなければなりません。

自分のこころを観察してみてください。

そうすると、欲があること、怒りがあること、嫉妬や怠けがあること、無知があることが見えてくるでしょう。

このとき「あー、気持ち悪い」と見るのではなく、「みな同じだ」と見るのです。

誰だって貪瞋痴があります。強弱やレベルの差があるだけです。



それから、「私は嫉妬深い。なんて情けないか」と見るのも、正しい自己観察ではありません。

そうではなく、「私に嫉妬がある。嫉妬がちょっと強い。嫉妬はどんな生命にもある……」とそのように自己を観察すると、落ち込むことがなくなります。

「生命は平等だ」ということがわかるのです。



これが「区別はあるが、平等」ということです。

差があるのに、平等だとわかるのです。

差異があって平等なんです。区別があって平等なんです。

これは現代社会で言われている、いい加減な平等ではありません。



こころの広い人になる



こころの広い人は他人に指をさしません。「あー、そういうことか」と理解して落ち着いています。

たとえば自分の子供が万引きして警察につかまっても、混乱したり、焦ったり、大声で怒鳴ったりしません。

落ち着いていると、子供のこころの中が見えてきます。

この子はこころに何か怒りがあってやったんだ、ということが。

だいたい子供が万引きするのはカネやモノが欲しいからではありません。それは大人です。

子供の場合、中学生や高校生になるとだんだん勉強についていけなくなって、学校がいやになって、遊びたくなるんです。

でも遊ぶカネがなくて万引きしてしまうというのが本当なんです。

子供はカネそのものが欲しいわけではありません。

こころに何か別の問題があるのです。

社会にたいして、親にたいして、学校にたいして反発したい、暴動を起こしてやりたいという別な衝動があるのです。

しかしまだ子供ですから、悪い行動をしたら自分が破滅するということは理解できません。

親や学校に迷惑かけたいと思って万引きして、わざとつかまるのです。

学校はそれなりにうまくごまかすかもしれませんが、子供の人生はそれでかなり苦しくなるのです。



そこで、こころが広い親だったら、子供の本当のこころがわかります。

そうすると、解決策が見えてきます。

子供をいきなり怒鳴ったり、非難したりしません。

落ち着いたこころで、「もし今度何か問題があったら言ってください。私はあなたの味方です。私に言いたくなかったら、信頼できるだれか年上の人に言ってください。学校に相談しやすい先生がいるなら、その先生に相談してください」と言います。

それで、何か解決策が見えてくるのです。

このように、「平等」ということを正しく理解すれば、世の中のさまざまな問題は解決できるのです。


(続きます)



2019/01/26

脳は「有る」ことのみを認識する(智慧ある人は愉しんで生きる①) 


最初に、仏教を学ぶ上で重要なことを一つ説明しておきたいと思います。仏教の概念を知識として勉強するのは簡単ですが、それだけで真の幸福は得られません。たとえ膨大な量の経典を読み尽くし、暗記したとしても、なんの意味もないのです。
そこで仏教を、単なる理論や理屈、思想として受けとるべきではありません。身をもって実践し、理解し、性格を改善して苦の問題を解決しなければならないのです。お釈迦さまはこのように説かれました。「少しの知識でも、それを実践しなさい。実践する人こそ、真の知識人です」と。教えを実践して真理を体験、体得すれば、大きな幸福が得られるのです。


脳は「有る」ことのみを認識する


私たちは「有る・無い」という二つの極端な見方で、ものごとを捉えています。というより、脳は、そのようにしか理解できない構造になっているのです。


「ものが有る」という見方については、皆さん簡単におわかりになると思います。本がある、花がある、私がいる、人がいるなど、この世に存在するすべてのものに対して、私たちは何の疑いもなく「有る」と思っています。では、この「有る」という認識はいかにして生じているのでしょうか?


これは、私たちの感覚器官である「眼・耳・鼻・舌・身」に、外界の情報「色・声・香・味・触」が触れることから生じているのです。外界の情報が感覚器官に触れると、脳が機能して「有る」と知ります。情報が触れなければ、脳は機能しませんから「無い」となるのです。


具体的に言うと、耳に音が触れると「聞こえた」という認識が生まれますが、触れなければ何も聞こえません。肌に何かが触れると「触れた」と知りますが、触れなければ何も知りません。


公園で花を見ているとしましょう。このとき、眼と花の色が触れて「見えた」と認識します。そして「花が有る」と知ります。そこに、猫が走ってきました。花に向いていた眼は、猫に移動します。そして眼と猫の色形が触れて「猫がいる」と知るのです。このとき、さっきの花に対する認識は消えていますが、脳は目の前の猫に囚われているため、そのことに気づきません。そこに、大きな物音が聞こえました。音が耳に触れて「音」と認識します。このときも、さっきの猫や花に対する認識は消えていますが、脳はそのことに気づかず、いま聞こえている音を認識しているのです。

このように、脳が刺激されるのは情報が感覚器官に触れたとき、つまり「有る」という瞬間だけなのです。そしてこの「有る」という瞬間だけを見て、私たちは「ものが有る、存在する」と固定的、断定的に決めつけているのです。


では、次の図を見てください。何が見えるでしょうか?



●●●●●●●●●●●●


たぶん、黒い円が連続してあるとか一列に並んでいる、などと答えられると思います。でも、よく見てください。円と円のあいだに隙間があるでしょう。空間があるのです。しかし脳は空間を無視して、黒い円だけを認識しようとします。脳は真っ先に「有る」の部分を見よう、知ろうとするのです。先ほどの例でも、脳が知っているのは、花が有る、猫がいる、音が有る、などのように「有る」の瞬間だけなのです。「無い」という瞬間には気づきませんし、知り得ないのです。

『智慧ある人は愉しんで生きる①』A. スマナサーラ長老 法話


「無い」は推測

次に、もう一つの見方「無い」について検討してみましょう。もし、「ふりこ」があったら用意してください。ふりこの左側と右側に両手を置き、眼を閉じてください。ふりこに力を加えると、ふりこは左のほうに移動して左手にパンとぶつかります。このとき脳は、「触れた」と知ります。次にふりこは左手から離れ、右のほうに移動して右手にパンとぶつかります。「触れた」と知ります。また離れ、左のほうに移動して、左手にパンとぶつかります。「触れた」と知ります。脳は、ふりこが手に触れた瞬間のことしか知りません。しかし、ふりこが左手に触れる、離れる、右手に触れる、離れる、左手に触れる、離れる、と繰り返しているうちに、「次は右手に触れるだろう」と推測するようになるのです。そして「有るだけではなく、無いという瞬間があるのではないか」と考えつくのです。ただ、この「無い」という認識は、経験ではなく、あくまでも推測です。

もう一つ例を挙げましょう。
腕時計を見てください。皆さんは何も疑わずに、腕時計が有ると思っているでしょう。ではそれを、長針、短針、文字盤、ベルト、電池など、ばらばらに分解してみてください。腕時計はどうなるでしょうか?


無くなるのです。長針だけをとって「これは腕時計です」とは言えません。短針も、文字盤も、ベルトも、電池も、単独では腕時計だとは言えません。つまり分解すると腕時計は無くなってしまうのです。とすると、腕時計は初めから無かったということではないでしょうか?

このように、どんなものでも分解することができます。そして分解すればするほど、いまある状態が無くなってしまうのです。


お釈迦さまが生きていた時代のインドには、このような複雑なことを思惟し、考察していた哲学者や思想家、宗教家たちがいました。彼らは「すべてのものは無の状態まで分解できる。存在するのは無だけだ。無こそが真理である」と考えて、その概念を強調しました。

「有・無」の超越

そこでお釈迦さまはこう考えました。人間は、有・無という両極端でしか、ものごとを捉えられない。真実は何なのか? そして、「超越」という立場を発見されたのです。これが因縁の教えです。


先の腕時計を例にとると、腕時計は、必要な部品を、ある一定の法則で組み立てることによって成り立っています。


それぞれの部品を、でたらめに接着剤でくっつけるだけでは、腕時計としての機能は果たしません。法則があるのです。長針と短針は文字盤の上に置かなければなりません。その上に透明のカバーを置き、両側にベルトをつけ、見えないところに電池を入れるというふうに。このように一定の法則に従って組み立てると、腕時計になるのです。

それから、自然のものは常に法則に適っています。花の種を蒔くとどうなるでしょうか?


水や栄養素など必要な要素を充分に与えているなら、やがて芽が出て、葉が出て、花が咲くでしょう。この順番は変えられません。芽が出ていないのに花が咲くということは絶対にあり得ないのです。


お釈迦さまは、この「法則」を発見されました。自然も、人間の思考プロセスも、すべてのものは丁寧な順番で組み立てられている。ものが「有る、無い」と断定的に見るのはいい加減だ。真実は、その場その場でさまざまな情報が組み合わさって成立している、と。

ですから、花を見て「花が有る」と実体化して見るのは間違っています。花は刻々と変化しつづけているのです。咲いている花はだんだん萎み、枯れてゆきます。同様に「私」というものも瞬間々々変化しています。「私が存在する」とも「私が存在しない」とも言えません。これが因果法則であり、仏教の真理なのです。

極端な見方から苦が生じる

これまでお話してきたように、私たちは、「有る・無い」という極端な見方でものごとを捉えています。そしてこの見方から貪・瞋・痴が起こり、悩み苦しみが生まれているのです。

たとえば「Aさんがいる、Aさんは魅力的だ」と考えると、そこからさまざまな苦しみが生まれてきます。話しがしたい、どうすれば話せるだろうか、どうすればつきあってもらえるだろうか、とあれこれ考えて悩むことになります。そこで思いきって声をかけて仲良くなれたとしましょう。苦しみは消えるでしょうか? 消えません。今度は嫌われないように気を使ったり、関心を買うためにいろいろ努力しなければなりません。別の苦しみが生まれてくるのです。また、仕事が忙しくて会う時間がなかったり、転勤で遠くに引っ越してしまうと、今度は「Aさんがいない」ということで、さらに苦しむのです。このように「いる、いない」と固定的に見ることから、大変な苦しみが生まれてくるのです。


それから「自分には財産が有る」と金持ち気分で威張っている人もいるでしょう。しかし、そういう人たちも、多くの苦しみを抱えているものです。お金を盗まれないかと絶えず警戒し、人目のつかないところに隠したり、玄関に防犯カメラを取り付けたり。また、金持ちのなかには所得を偽ったり過少に申告して金持ちになっている人も少なくありません。しかしそういう人たちは、おおやけで堂々と買いものをすることができません。家や車など大きなものを購入すれば、申告していないことがすぐにばれてしまいますからね。ですから欲しいものを買わずにお金を隠しておくのです。


それで、ある日、家に泥棒が入ってお金を盗まれたとしましょう。今度は「お金が無い」ということで、ものすごく苦しむのです。もっと苦しいのは、警察に通報しても隠しておいたお金のことは言えないことです。別のもの、たとえば宝石をいくつか盗まれたとか財布を盗まれた、ということぐらいしか言えません。それに、たとえ泥棒が捕まったとしても、隠していたお金を返してくれとは言えないでしょう。それでさらに苦しむのです。(続きます)

A. スマナサーラ長老 法話
『智慧ある人は愉しんで生きる①』
パティパダー誌「根音仏教講義」にて連載
文責:出村佳子